北穂高岳で味わう至福のひと時

穂高連峰を中心とした登山でみたこと、感じたこと、考えたことを備忘録として書いています。

装備~③愛知大学山岳部薬師岳遭難の教訓

f:id:alps6717:20190524073753j:plain

愛知大学山岳部13人の薬師岳遭難

 

 地形図とコンパスは持ったか?

 いまから半世紀以上前の1963年(昭和38年)1月、富山県の北アルプス・薬師岳(標高2926㍍)で、愛知大学山岳部の13人パーティーが吹雪で遭難し、全員が亡くなりました。のちに「三八(さんぱち)豪雪」と呼ばれる1ヶ月にわたる大雪で、北陸地方の平野部でも富山市186㌢、福井市で213㌢という積雪を記録した時です。東京オリンピックの1年前でした。

 当時、私は小学生でしたが、隣街の愛知県豊橋市にある「アイダイ」という大学の学生さんが大勢「ヤクシダケ」という山で死んだ、ということを聞いた覚えがあります。新聞好きの祖母が何度も口にしていたからです。

 薬師岳登頂を目指していた愛知大パーティーは、地吹雪で視界がきかないために登頂をあきらめてキャンプに引き返す途中、正しい下山ルートを90度も外れた、頂上から「東南」に延びる尾根(のちに捜索隊によって東南稜と名付けられた尾根)に入り込み、止まない吹雪の中で低体温症や転落で死亡したと推測されています。

 彼らに、助かる方策はなかったのでしょうか。私たちが学び取る教訓はないのでしょうか。

 過去の遭難事故の事例を学べば、自分の安全を確保する“装備”のひとつになるかもしれません。

 

 

遭難までの経緯

 愛知大学山岳部は、遭難した薬師岳登山を「冬山合宿」と位置付け、期間は1962年12月25日から翌1963年1月13日までの20日間(このうち5日間は予備日)としました。メンバーは4年生2人、3年生はいなくて2年生5人、1年生6人の計13人でした。

 計画では、例年のように「太郎小屋」から一気に薬師岳登頂を目指すのではなく、新人の参加者が多いために安全を考慮して、途中の「薬師平」に「第3キャンプ」(以後、「C3」)を設営し、パーティーを登頂隊とC3設営隊に分ける、としていました。

 

遭難した時のようす

 遭難したパーティー全員が死亡しているため現場の状況は正確には分かりません。ただ、愛知大学パーティーの記録担当だった2年生のポケットから行動メモが見つかったうえ、たまたま同時に薬師岳登頂に向かっていた日本歯科大学山岳部による行動記録メモが残っており、これらから得られる断片的な情報から読み取ると、次のようになります。

 

 愛知大学パーティーの行動記録メモ

【1963年1月2日

午前5時40分 太郎小屋出発

7時40分 C3に着く。

8時30分 C3を日本歯科大が通過する。

8時35分 C3を出発。全員薬師岳に向けアタックに向かう

9時40分 日本歯科大はアタックを続けたが、我々は引き返す

11時 ビバークする。

13時30分 その場所を出発。

16時 ビバーク地を探しながら歩いた結果、適当なところを見つけ、2つのツエルト(注:簡易テントのこと)にパーティーを分けた。

16時20分 ツエルト2つに分かれる。

 

【1月3日】雪、風強し

きのうと同様、ビバーク地点よりぜんぜん動けず、だんだん冷え込んでくるようだ。食糧も残り少ない。ただ、天気のよくなるのを待つより方法はなさそうだ。まだみんな元気はあるが、果たしていつまで持つかどうか。ラジオでは北海道で遭難があったそうだが、われわれは絶対帰る。その気力じゅうぶん。どうしてこんなところでこのままの状態としておろう。だが本本当に晴れるのはいつのことやら、下界では晴れているのに、ここだけずっとこんな調子ではなかろう。必ず天気晴朗となろう。それを信じている。(以上、原文のまま)

 

 また、サブリーダーの手帳には、3日になって「われわれは道を間違えたようだ」と鉛筆で走り書きがありました。

 こうしたメモから、13人は当初の冬山合宿の計画とは異なり、13人全員が登頂に向かったことや、1月3日までは生存していたことが分かります。

 

 もうひとつ、日本歯科大パーティーの記録を見ます。

 

 

日本歯科大学パーティーの行動記録メモ

 【12月31日】朝、雪

AAC(注:愛知大パーティー)13人とNDCAC(注:日本歯科大パーティー)6人、太郎小屋で合流。小屋使用について話し合う。AACが2階全部、NDCACは1階を使用することとする。

 

【1日】1日中地吹雪

NDCAC、AACともに行動中止、元旦の登頂をあきらめる。

 

【2日】曇りのち地吹雪

小屋付近風5㍍、視界200~300㍍、時々薄日さす。5時ごろ、AAC全員が小屋を出ていく。7時20分、NDCACは小屋を出、頂上に登る予定。8時20分ごろ、AACが薬師平に6~7人用冬山テント設営中にあう。NDCACは夏道を避け、森林地帯にルートをとる。標識(注:下山時の道迷いを防ぐために、先端に赤布を付けた竹ざお)を立てながら行動。9時、森林帯を抜けたあたりでAAC全員がNDCACに追いつく。このころより夏道に出、頂上を目指してAACとNDCACが平行して行動する。風は20~30㍍。地吹雪。視界は完全にゼロとなる。9時55分より10時5分にかけてNDCACは頂上。しばらく待ったがAACの姿は現れず、NDCACも頂上を下る。NDCACは強い風雪のため3度進路を失うサブリーダー2名を組ませ、ルート偵察を行いながら下山。1時ごろAACテント場を通過するが、AACは帰らないとみえてテントは外から閉められている。トレースはなし。2時25分、NDCACは太郎小屋に到着。小屋の2階にAACの5人分のシュラフとキスリングザックを確認する。外は強風雪となり、視界は5㍍ほど。AACは小屋に帰らず。

 

【3日】午前中地吹雪、午後弱まる

午前中強風、視界も5㍍ほどなので、NDCACは下山を中止し、待機する。もし明日天気がよく、視界がきけば、薬師平のAACのテントまで偵察に行く予定。

 

【4日】午前中地吹雪、夕方晴れ

NDCACの食糧も本日の晩の分までしかないので、薬師平のAACのテント場偵察を中止、NDCAC全員は下山開始。

(以下、略)

 

 捜索、遺体発見の連絡……名古屋大学と中日新聞社が連携

 

 愛知大学は、パーティーから下山予定日が過ぎても連絡がないことから、1月14日に愛知県警を通じて富山県警に捜索を要請、山岳部OBらも救援のため現地に向かいました。

 そうした中で、朝日新聞社ヘリが太郎小屋に強行着陸して、「人影なし」の号外を出しました。

 その後も捜索は続き、“友情捜索”に加わっていた名古屋大学山岳部パーティーが3月23日、愛知大パーティーの登頂・下山予定ルートから大きく外れた薬師岳東南稜の先端(標高2650㍍)付近で、半身が雪に埋もれ、抱き合うように重なり合った遺体を複数発見。太郎小屋に駆け込み、以前からの申し合わせを踏まえて、午後3時に飛来した中日新聞社ヘリに「信号旗」を使って連絡をとり、ヘリから投下されたハンディートーキー(無線機)によって詳細を報告。中日新聞社はその日の夜、愛知大学本部に、名古屋大パーティーが複数の遺体を発見した旨の連絡をしました。

 その後、5月まで東南稜の捜索が続けられ、11人の遺体と遺品を発見。残る2人も10月に、それまでの11人の発見現場とは全く反対側の沢で、父親らが見つけました。おそらくこの2人は、謝ったルートを引き返す途中、雪庇(ぴ)(注:雪のひさし)を踏み抜いて転落したと考えられています。

 

大学による遭難原因の分析

「決定的な原因は指摘できない」……

 当時の山岳部監督が、山岳部OBを交えて行った「遭難原因検討会」の結果を踏まえて、遭難誌「薬師」に次のように分析しています。

▼偵察について

遭難したパーティーは本番に先立ち、5回の荷揚げを含む偵察山行を行ったことは、かなり慎重であったことが知れる。しかし、結果的にみると、東南尾根のほとんど先端まで下降してしまい、そこでビバークしたことなど考え合わせると、その偵察行における甘さが認められる。

▼太郎小屋以後の行動について

計画作成段階で、登頂隊と第3キャンプ設営隊にパーティーを二分したにもかかわらず、全員が登頂を目指し、大事故を引き起こした。

▼頂上直下より「東南尾根」に迷い込んだ地点における進路決定の誤り

磁石、地図、が一部、太郎小屋の中で発見され、遺体発見地点付近一帯には何も発見されなかったことは、登頂隊が携帯していなかったものと判断されよう。もし、実際この判断のごとく、磁石も地図も全く持っていなかったとすれば、リーダー、装備係の重大な失敗で、弁護の余地はない。だが、万一携行していたにせよ、進路の誤りの発見の遅れは、その効用をほとんど無効にしたかも知れない。この磁石、地図の問題は、いわば登山の全く基礎的な問題で、登頂隊が忘れていたとすれば大いに反省すべきことである。

▼パーティーの立てた標識について

パーティーの立てた標識は、薬師平入口に1本、薬師平より尾根への取り付きに1本、岩井谷分岐点に1本の計3本が確認された。2000㍍より上部において、標識はほとんど立てられなかったものと考えられる。標識が重要地点に立てられなかったことも、アクシデント発生の重要ポイントとなっていることが認められる。

▼ビバークについて

日本歯科大学山岳部の報告によれば、頂上から約400㍍の手前より、引き返したことが推察される。しかし、この段階でのリーダーの措置に誤りがあったとは思われない。

 

▼結論

以上、全員遭難死を招いた大アクシデントについて、若干の推理を交えながら原因の追究を進めてきた。が、ここで決定的な遭難原因といったものは指摘できない。これまでに挙げた要因が、いくつか相互作用しながら、決定的、かつ致命的なアクシデントとなったのであろう

 

 

本多勝一氏による批判

 遭難が発覚直後の1月22日、朝日新聞社のチャーターしたヘリコプターで太郎小屋脇に強行着陸して小屋の中を確認し、「来た、見た、居なかった。太郎小屋に人影なし」というスクープ記事を飛ばした朝日新聞記者の本多勝一氏は、著書「山を考える」(朝日文庫)で、「遭難の直接原因は、尾根を間違えたことである」と指摘。「最も重視すべき、かつ、最も不可解なのは、こんな遠くに迷い込むまで、なぜ気付かなかったかという点だ」「1年、2年を主としたこのパーティーは、おそらくリーダーの進むまま、ひたすら歩いたのだ。そしてリーダーは磁石と地図を正しく利用することを知らなかった。あとの12人は“自分で考える習慣”を教えられていなかったのではないか」と記しています。

 鋭いヨミだと思います。

 

 本多さんはまた、大学が遭難誌「薬師」で「決定的な遭難原因といったものは指摘できない」としたことについても「これは驚嘆に値する」「冬山に地図も磁石もなしにゆくほどの“決定的遭難要因”がほかにありましょうか。この報告ぶりでは、ことの本質がまだ分かっていないと考えざるを得ないのです」と批判し、磁石(注:方位磁石。コンパスのこと)と地形図を全員が持っていなかったことの重大さを訴えているのです。

 

街の声・一般登山者の声

 当時もいまも、この遭難事故を知っている人はこういいます。

「冬山登山では各人が地形図とコンパスを携帯するのが鉄則です」

「全員が持っていなかったというのは、信じられない」

「ホワイトアウト(注:視界が真っ白で、空間と地面の見分けがつかなくなる現象)でも、地形図とコンパスを取り出して現在地と進行方向を確認できると思っているのですか?たとえ持っていたとしても、それを取り出す余裕なんてありませんよ」

「ガスで何も見えなくなれば、地図も磁石も役に立たない。撤退しかありません」

 

 いろいろな意見があります。

 ただいえることは、地形図とコンパスと、できれば高度計の3点セットは、冬山に限らず夏山でも、個人装備品に入れましょう。そして、使えるように学習しておきましょう、ということだと考えます。