変わり果てた姿・・・岳友の手で山を降りる
(愛知大学山岳部遭難誌「薬師」の口絵を接写)
目次
- 愛大生、冬の薬師で13人遭難!
- 遭難した時のようす
- 「愛知大学」による遭難原因の分析
- 太郎小屋以後の行動について
- 結論
- 全員、山中で荼毘に付された・・・
- 本多勝一氏による批判
- 山小屋経営者の伊藤正一さんの指摘
- 一般登山者の、ふつうの声
- (メモ)太郎小屋が現在の「太郎平小屋」に改称されたいきさつ
愛大生、冬の薬師で13人遭難!
愛知大学は、名古屋市に本部を置く私立大学で、地元・愛知県の人は「愛大(あいだい)」と呼んでいます。
愛知県豊橋市にもキャンパスがあります。
半世紀以上前の1963年(昭和38年)1月、富山県の北アルプス・薬師岳(標高2926㍍)で、愛知大学山岳部の13人パーティーが吹雪で遭難し、全員が亡くなりました。
のちに「三八(さんぱち)豪雪」と呼ばれる1ヶ月にわたる大雪で、北陸地方の平野部でも富山市186㌢、福井市で213㌢という積雪を記録した時です。
東京オリンピックの1年前でした。
当時、私は小学生でしたが、隣街の愛知県豊橋市にキャンパスがある「アイダイ」という大学の学生さんが「ヤクシダケ」という山で大勢死んだ、ということを新聞をよく読んでいたおばあさんから聞いたことを覚えています。
薬師岳登頂を目指していた愛知大パーティー。地吹雪で真っ白で先が見えないために登頂をあきらめてキャンプに引き返す途中、正しい下山ルートを90度外れて、頂上から「東南」に延びる尾根(のちに捜索隊によって東南尾根と名付けられた稜線)に入り込み、吹雪の中で「低体温症」や「転落」で死亡したと推測されています。
薬師岳(標高2926㍍)と周辺山域 (「薬師」の口絵を接写)
遭難までの経緯
愛知大学山岳部は、遭難した薬師岳登山を「冬山合宿」と位置付けました。
期間は1962年12月25日から翌1963年1月13日までの20日間。このうち5日間は予備日。
メンバーは、計画段階では20人参加の予定で、最上級の4年生部員が6人いましたが、出発数日前に4年生4人が就職関係で不参加になりました。このため計画の再検討をしましたが、結局、計画全体を根本的に修正することもなく計画実行を決定。
メンバーは4年生2人、2年生5人、1年生6人の計13人になりました。
行動計画では、例年のように「太郎小屋」(現在の太郎平小屋)から一気に薬師岳登頂を目指すのではなく、
新人の参加者が多いために安全を考慮して、
登山口の折立にベースキャンプ(BC)、
標高2000㍍地点に第1キャンプ(C1)、
「太郎小屋」に第2キャンプ(C2)を設営するほか、
「薬師平」に「第3キャンプ」(C3)を設営することに決定。
パーティーを「登頂隊」と「C3設営隊」に分け、
「C3設営隊」はキャンプ設営後に
第2キャンプのC2「太郎小屋」に戻る計画を立てました。
リーダーについては、2年生の3人をリーダー候補に選び、行動は3人の合議で決定、その上に4年生が立ち、行動全体を見守るということにしました。
これは3年生部員が1人もおらず、新年度以降のリーダーを育成しなければならないという課題があったからでした。
(注)
「第3キャンプ」(C3)が設営された「薬師平」には、事故後にケルンに建てられた。
第3キャンプ(C3)設営に向けて山を登るパーティー。
第3キャンプ(C3)に残されていたザックの中から見つかったカメラに写っていた写真の1枚。 (遭難誌「薬師」の「アルバム」から接写)
遭難した時のようす
遭難したパーティー全員が死亡しているため現場の状況は正確には分かりません。
ただ、愛知大学パーティーの記録担当だった2年生のポケットから行動メモが見つかったうえ、
たまたま同時に薬師岳登頂に向かっていた日本歯科大学山岳部による行動記録メモが残っています。
これらから得られる断片的な情報から読み取ると、次のようになります。
愛知大学パーティーの行動記録メモ
【1963年1月2日】
午前5時40分 「太郎小屋」出発
7時40分 C3に着く。
【注】(合宿前に決めた当初の計画では、キャンプ設営隊は「C3」を設営後、太郎小屋に戻ることにしていたが、実際は全員が登頂を目指すことになる。この計画変更の時期、理由は分からない。)
8時30分 C3を日本歯科大が通過する。
8時35分 C3を出発。全員薬師岳に向けアタックに向かう。
9時40分 日本歯科大はアタックを続けたが、我々は引き返す。
11時 ビバークする。
13時30分 その場所を出発。
16時 ビバーク地を探しながら歩いた結果、適当なところを見つけ、2つのツエルト(注:簡易テントのこと)にパーティーを分けた。
16時20分 ツエルト2つに分かれる。
【1月3日】雪、風強し
きのうと同様、ビバーク地点よりぜんぜん動けず、だんだん冷え込んでくるようだ。食糧も残り少ない。ただ、天気のよくなるのを待つより方法はなさそうだ。まだみんな元気はあるが、果たしていつまで持つかどうか。ラジオでは北海道で遭難があったそうだが、われわれは絶対帰る。その気力じゅうぶん。どうしてこんなところでこのままの状態としておろう。だが本本当に晴れるのはいつのことやら、下界では晴れているのに、ここだけずっとこんな調子ではなかろう。必ず天気晴朗となろう。それを信じている。(以上、原文のまま。最後の記述となったメモ)
また、サブリーダーの手帳には、3日になって「われわれは道を間違えたようだ」と鉛筆で走り書きがありました。
こうしたメモから、13人は当初の冬山合宿の計画とは異なり、13人全員が登頂に向かったことや、1月3日までは生存していたことが分かります。
もうひとつ、日本歯科大パーティーの記録を見ます。
日本歯科大学パーティーの行動記録メモ
【12月31日】朝、雪
AAC(注:愛知大パーティー)13人とNDCAC(注:日本歯科大パーティー)
6人、太郎小屋で合流。小屋使用について話し合う。AACが2階全部、NDCACは1階を使用することとする。
【1月1日】1日中地吹雪
NDCAC、AACともに行動中止、元旦の登頂をあきらめる。
【1月2日】曇りのち地吹雪
小屋付近風5㍍、視界200~300㍍、時々薄日さす。5時ごろ、AAC全員が小屋を出ていく。7時20分、NDCACは小屋を出、頂上に登る予定。
8時20分ごろ、AACが薬師平に6~7人用冬山テント設営中にあう。NDCACは夏道を避け、森林地帯にルートをとる。標識(注:下山時の道迷いを防ぐために、先端に赤布を付けた竹ざお)を立てながら行動。9時、森林帯を抜けたあたりでAAC全員がNDCACに追いつく。このころより夏道に出、頂上を目指してAACとNDCACが平行して行動する。風は20~30㍍。地吹雪。視界は完全にゼロとなる。9時55分より10時5分にかけてNDCACは頂上。しばらく待ったがAACの姿は現れず、NDCACも頂上を下る。NDCACは強い風雪のため3度進路を失うル。サブリーダー2名を組ませ、ルート偵察を行いながら下山。1時ごろAACテント場を通過するが、AACは帰らないとみえてテントは外から閉められている。トレースはなし。2時25分、NDCACは太郎小屋に到着。小屋の2階にAACの5人分のシュラフとキスリングザックを確認する。外は強風雪となり、視界は5㍍ほど。AACは小屋に帰らず。
薬師平でC3(第3キャンプ)を設営する愛大パーティー(「薬師」より接写)。
この時、日本歯科大パーティーが通り過ぎる。
【1月3日】午前中地吹雪、午後弱まる
午前中強風、視界も5㍍ほどなので、NDCACは下山を中止し、待機する。もし明日天気がよく、視界がきけば、薬師平のAACのテントまで偵察に行く予定。
【1月4日】午前中地吹雪、夕方晴れ
NDCACの食糧も本日の晩の分までしかないので、薬師平のAACのテント場偵察を中止、NDCAC全員は下山開始。
(以下、略)
ヘリによる報道合戦
愛知大学は、パーティーから下山予定日が過ぎても連絡がないことから、1月14日に愛知県警を通じて富山県警に捜索を要請、山岳部OBらも救援のため地上から現地に向かいました。
捜索のポイントは「太郎小屋」という山小屋でもある第2キャンプ(C2)に、パーティーが戻って吹雪をやりすごしているかどうか、でした。
そうした中で吹雪が止んだ1月22日、中日新聞社ヘリは他社に先駆け「太郎小屋」上空に達し、地上すれすれにホバリングしたが、カメラマンは飛び下りることをせず、ヘリは帰還した。
中日のOB会機関誌への関係者の寄稿によると、
「深い雪にはまって身動きがとれなくなることを恐れたためだ。そこには社機『若鷹』の昭和31年の乗鞍岳での遭難、乗員4人殉職以降の無理を避けるという方針もあった」ということです。
ところが、
「中日機」の後を追ってきた朝日新聞社ヘリが太郎小屋に強行着陸して、
本多勝一記者が「太郎小屋に人影なし」と、歴史的な号外を出しました。
しかも、朝日新聞社は太郎小屋の屋根の上に社旗を張り、あとから他社が上空から小屋の全景を写すのにためらうようにするなど、当時の取材競争の激しさを垣間見せました。
捜索、遺体発見の連絡……名古屋大学と中日新聞社が連携
その後も捜索は続きました。
“友情捜索”に加わっていた名古屋大学山岳部パーティーが3月23日、愛知大パーティーの登頂・下山予定ルートから大きく外れた薬師岳東南尾根の先端(標高2650㍍)付近で、半身が雪に埋もれ、抱き合うように重なり合った遺体を複数発見しました。
名大山岳部はこの友情捜索に際して、中日新聞社社会部との間で、万一遺体発見の際には、太郎小屋の前の雪原に、「中日」の社旗を広げるよう申し合わせがなされていました。
そして遺体を発見した名大山岳部パーティーは太郎小屋に至り、午後3時に飛来した中日新聞社機に「中日」の社旗を広げて知らせました。
「中日社友会」会報から引用。
太郎小屋の前で、中日機にサインを送る名大パーティー。
中日新聞社機から投下されたハンディートーキー(無線機)によって詳細が分かり、中日新聞社はその日の夜、愛知大学本部に、名大パーティーが複数の遺体を発見した旨の連絡をしました。
遺体は雪のブロックで囲み、墓標代わりにピッケルが立てられました。
その後、5月まで東南尾根の捜索が続けられ、11人の遺体と遺品を発見。残る2人も10月に、それまでの11人の発見現場とは全く反対側の沢で、父親らが見つけました。おそらくこの2人は、誤ったルートを引き返す途中、東南尾根の雪庇(ぴ)(注:雪のひさしのこと)を踏み抜いて黒部渓谷側に転落したと考えられています。
遺体発見場所(図)
(注)数字は、発見した人数
いずれの図も 遭難誌「薬師」から接写
「愛知大学」による遭難原因の分析
「決定的な原因は指摘できない」……
当時の山岳部監督が、山岳部OBを交えて行った「遭難原因検討会」の結果を踏まえて、遭難誌「薬師」に次のように分析しています。
メンバー構成について
この合宿の当初の人員構成の変更に従い、この計画全体を根本的に修正する必要があるではないかとも、考えないではなかった。しかし、結果的には部分的修正にとどめただけで、計画の実行を決定してしまった。山岳部OBとしては、この点、重大な責任を認めなければならない。
偵察について
遭難したパーティーは本番に先立ち、5回の荷揚げを含む偵察山行を行ったことは、かなり慎重であったことが知れる。しかし、結果的にみると、東南尾根のほとんど先端まで下降してしまい、そこでビバークしたことなど考え合わせると、その偵察行における甘さが認められる。
太郎小屋以後の行動について
●計画作成段階で、登頂隊と第3キャンプ設営隊にパーティーを二分し、第3キャンプ設営隊は引き返すことになっていたにもかかわらず、全員が登頂を目指した。これでは合宿計画が完全に崩されている。この全員登頂(を目指したこと)が何十年ぶりかの異常な気象状況と相まって、パーティーの全員遭難という大事故を引き起こした大きな要因として浮かび上がってくる。
●頂上直下より「東南尾根」に迷い込んだ地点における進路決定の誤りも、1つの重大な遭難要因として挙げられる。
●磁石、地図が一部、太郎小屋の中で発見され、遺体発見地点付近一帯には何も発見されなかったことは、登頂隊が携帯していなかったものと判断されよう。もし、実際この判断のごとく、磁石も地図も全く持っていなかったとすれば、リーダー、装備係の重大な失敗で、弁護の余地はない。だが、万一携行していたにせよ、進路の誤りの発見の遅れは、その効用をほとんど無効にしたかも知れない。この磁石、地図の問題は、いわば登山の全く基礎的な問題で、登頂隊が忘れていたとすれば大いに反省すべきことである。
●パーティーの立てた標識は、薬師平入口に1本、薬師平より尾根への取り付きに1本、岩井谷分岐点に1本の計3本が確認された。2000㍍より上部において、標識はほとんど立てられなかったものと考えられる。標識が重要地点に立てられなかったことも、アクシデント発生の重要ポイントとなっていることが認められる。
ビバークについて
日本歯科大学山岳部の報告によれば、(愛大)パーティーは東南尾根のジャンクション(分岐点)を過ぎた、頂上から約400㍍の手前より引き返したことが推察される。しかし、この段階でのリーダーの措置に誤りがあったとは思われない。
結論
以上、全員遭難死を招いた大アクシデントについて、若干の推理を交えながら原因の追究を進めてきた。が、ここで決定的な遭難原因といったものは指摘できない。これまでに挙げた要因が、いくつか相互作用しながら、決定的、かつ致命的なアクシデントとなったのであろう。
■以上が、愛知大学当局による「分析」です。
薬師沢右俣の森林帯で5月3日に火葬される4遺体(「薬師」の口絵、アルバムから)
遭難した13人のうち4人は前日までに、この近くで雪に埋もれて見つかりました。
全員、山中で荼毘に付された・・・
当時は山での遭難者は、現地の山中で荼毘(だび)に付されていました。
県警ヘリや消防防災ヘリがない時代ですから。
13人のうち7人はこれより前の3月中に見つかっており、3月31日に薬師沢右俣の樹林帯で、同様に火葬されています。
その時の火葬の様子を、登山家・安川茂雄は著書「あるガイドの系譜(岩と雪の悲劇第2巻)(三笠書房)の「薬師岳、この不遇なる山」の中で、次のように書いています。
「(1963年)3月31日午前9時10分、全員荼毘現場に集合。遺体の1つひとつに高級な香水をふりかけ、持参の花束をささげ、衣類、靴を脱がせてグリスを全身に塗り込んだ。それから荼毘のたきぎの上に、加藤、林田、武藤、牛田、小田、尾崎、八橋の順序で遺体を安置し、その下に波型のトタン板を1枚ずつ敷いた。さらにその7体の上に、長さ3㍍の木材を幅5㍍、高さ2㍍に積み上げ、一切の準備が終了すると、一同黙とうをささげたのち、点火したのである」
そして残る2人も10月14日、黒部渓谷奥ノ廊下で見つかり、河原で荼毘に付されました。
結果的に見ますと、13人は「東南尾根」の先端、「標高2650㍍の三角点」あたりまで下降してしまい、ビバーク。その時になってやっと、登ってきた時とは地形が全く違うことに気付き、ルートを間違えたと分かったと考えられます。
本多勝一氏による批判
朝日新聞記者の本多勝一氏は、遭難が発覚した直後の1963年1月22日、朝日新聞社のチャーターしたヘリコプターで太郎小屋脇に強行着陸して小屋の中を確認し、「来た、見た、いなかった。太郎小屋に人影なし」というスクープ記事を書いたことで有名です。
本多氏は著書「山を考える」(朝日文庫)で、「遭難の直接原因は、尾根を間違えたことである」と指摘。「最も重視すべき、かつ、最も不可解なのは、こんな遠くに迷い込むまで、なぜ気付かなかったかという点だ」「1年、2年を主としたこのパーティーは、おそらくリーダーの進むまま、ひたすら歩いたのだ。そしてリーダーは磁石と地図を正しく利用することを知らなかった。あとの12人は“自分で考える習慣”を教えられていなかったのではないか」と記しています。
本多さんはまた、大学が遭難誌「薬師」で「決定的な遭難原因といったものは指摘できない」としたことについても
「これは驚嘆に値する」「冬山に地図も磁石もなしにゆくほどの“決定的遭難要因”がほかにありましょうか。この報告ぶりでは、ことの本質がまだ分かっていないと考えざるを得ないのです」
と批判し、磁石(注:方位磁石。コンパスのこと)と地形図を全員が持っていなかったことの重大さを訴えているのです。
山小屋経営者の伊藤正一さんの指摘
日本勤労者山岳連盟の創設者でもある伊藤正一(いとうしょういち)さんは、著書「黒部の山賊」のなかで、薬師岳の遭難について次のように書いています。
「冬の薬師岳の荒れ方は猛烈なものである。気温は零下30度を下り、晴れた日でも30㍍くらいの西風がつねに吹いている。吹雪けばなおさらのことである。風に流れる粉雪のために自分の腰から下は見えない。こんなときは自分の身体がどちらの方向へ動いているのかも見当がつかない」「遭難原因について、磁石を持って行かなかったのが悪いという意見も多かったが、あの地形であの気象条件のもとで、はたして磁石がどれほど役に立っただろうか。それよりも一行13人のうちで、夏の薬師岳さえ知っている者は1人もなく、冬山の経験のある者は2人だけだったという。冬のアルプスでは、激しい気象状況に加えて、下り始めのほんの少しの違いが、下へきて重大な結果をもたらす場合が多い。冬山登山は、地形をよく知って(または研究して)おかなくてはならない。愛知大パーティーが、もう少し慎重に薬師岳について研究して行ったならば、東南尾根にわざわざ入って遭難したというような事故は起きなかったであろう」
一般登山者の、ふつうの声
当時もいまも、この遭難を知る人はこういいます。
「冬山登山では各人が地形図とコンパスを携帯するのが鉄則」
「全員が持っていなかったというのは、信じられない」
「ホワイトアウト(注:視界が真っ白で、空間と地面の見分けがつかなくなる現象)でも、地形図とコンパスを取り出して現在地と進行方向を確認できると思っているのですか? たとえ持っていたとしても、それを取り出す余裕なんてありませんよ」
「ガスで何も見えなくなれば、地図も磁石も役に立たない。撤退しかありません」
いろいろな意見があります。はっきり言えることは、
山で死ぬな!
(メモ)太郎小屋が現在の「太郎平小屋」に改称されたいきさつ
遭難当時、太郎小屋と呼ばれていた山小屋は、2年後の1965年(昭和40年)の7月から現在の「太郎平小屋」に名称が変わりました。
オーナーの五十嶋博文氏がそのあたりの事情について、メディアのインタビューに、要旨次のように説明しています。
「昭和38年の愛大生の遭難以降、登山者が増えた。登山史研究家の安川茂雄さんが奥さんと小屋に来て泊まった時に、私が安川さんに小屋の入り口にかける看板をだれかに書いてもらおうと思っているという話をした。すると安川さんが、知り合いの英文学者・田部重治(たなべじゅうじ)さんに頼んであげるということになった。その時私は小屋の名前を「太郎小屋」から「太郎平小屋」に変えようと思った。それは「雲ノ平」という言葉があるように、「平」というイメージをつくりたかったから。私と安川さんで決めた。田部さんは高齢だったために色紙に「太郎平小屋」と書いてくれ、その文字を本職の看板屋がまねして看板ををつくった。」