北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスに登っていたころの写真記録、国内外の旅行、反戦平和への思いなどを備忘録として載せています。

ヘリコプター搭乗のローカルテレビ局報道カメラマンと人命救助

 

 台風19号による大雨で、わが家の近くを流れる多摩川をはじめ、関東甲信・東北地方で、河川の氾濫が相次ぎました。

 

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 水が引いていく東京・神奈川の境界の多摩川(2019年10月13日午前8時撮影)

 

 

 2019年10月13日朝、NHKテレビをつけると、

長野市内を流れる千曲川の堤防決壊場所の様子ヘリコプターで生中継していました。

 濁流が渦を巻いて勢いよく流れ込むその先には、住宅地が――。そこで見たものは、住宅1階の天井部分まで濁流に囲まれ、2階のベランダで、ヘリに向かって白いタオルを左右に何度も何度も振って助けを求める男性の姿

 

 ふと、東日本大震災の時、取材中のヘリコプターの中で、

「助けてあげることができずにごめんね」とつぶやいて、泣いた報道カメラマン

のことを思い出しました

 

 長野市で、男性が必死にタオルを振って助けを求めたのは「報道」目的のヘリコプターです。救助のためのヘリではありません。たぶん、「報道ヘリ」とは気付かないでしょうから、へりが現場を離脱してしまうと、どれほど絶望してしまうか、と心配しました。

 幸い、この10数分後に自衛隊ヘリが飛んできて、救助の態勢に入りましたので、ホッとしました。

 

 2011年3月11日発生の「東日本大震災」の時の、新聞社のカメラマンのことを書いておきます。

 

屋上に見えた「SOS」の文字

 舞台は、震災翌日の3月12日、屋上に「SOS」の白い文字が描かれていた宮城県石巻市の学校です。

 中日新聞社所有のヘリコプター「まなづる」が、自社のカメラマンと、友好関係にある河北新報社(本社・仙台市)のカメラマンを乗せて石巻市上空に差し掛かった時、屋上で救助を待つ人たちが、ヘリに向かって腕を振って大声で叫んでいました。周囲は浸水しています。

 中日新聞のカメラマンは、手を差し伸べたいが何もできない。無力感で折れそうな心を抱えながら、上空を旋回してもらって写真を撮り続けました。

 そして、「ごめんなさいね、ごめんなさいね、ごめんなさいね・・・。僕たちは撮ることしかできない。助けてあげられないんだ・・・」と独り言をつぶやきました。

 隣の席の河北新報のカメラマンも「そうだよな」とうなずき、「何やってんだ、俺。最低・・・」を自分をのろいました

 

 河北新報のカメラマンは後に、出版物に次のように書いています。

 

 「水没した住宅の2階からこちらに向かって手を振っている人が目に入った。病院の屋上に避難している人たちもいた。報道ヘリと分からず、助けに来てくれたと思っている人がいるかもしれない。そう思ったらやり切れなくなった。『報道カメラマンの使命』『記録』『伝える』・・・言い訳はたくさん用意できたが、圧倒的な被害を前にすると、全てウソに思えた。自分が恥ずかしくて悔しかった。こんなたいへんな時に、写真を撮っている自分は何だろうとと思った。しかし、自分を否定したら1枚も撮れない。考え込むと撮影が中断する。とにかく撮るしかない。さまざまな感情がカオスのように渦巻いた。」

 

(「河北新報のいちばん長い日~震災下の地元紙~」 

 著者・河北新報社、発行所・文芸春秋 2011年10月30日 第1刷発行より)

 

 

「SOS」の真実

 あの「sos」の文字の学校はどこだったのか・・・。2ヵ月後、河北新報社の取材班が「学校」を突き止めました。

 前記の出版物は、こう記しています。

 

 「その学校は、大街道小だった。3月11日の津波で1階が水没し、学校の周辺も海水に沈んだ。2、3階に避難した住民や教員、児童ら約600人が孤立状態に陥っていた。」

 「12日朝、何機ものヘリが、上空を飛び交っていた。教員らが、B4判のコピー用紙を持ってきて、屋上に並べた。『SOS』。風で飛ばされぬよう、ウレタンの破片を重りにした。避難した住民も、ヘリに向かって必死に手を振った。『何か物資を落としてくれないか、誰か降りてくれないかって・・・。でも、みんな飛び去ってしまった』という」

 「12日早朝、教員の叫ぶ声がした。『だれか看護師さんはいませんか』。看護師が1階の保健室に行くと、ベッドに女性が横たわっている。低体温症だった。毛布はない。カーテンを体に巻き付けた。女性は間もなく、静かに息を引き取った。日赤の緊急医療チームがやってきたのは、震災1週間後だった。」

 

 

空撮した河北新報のカメラマンは・・・

 あの時、「報道カメラマン」に徹して、シャッターを切り続けたカメラマンは、自分を責め続けます。

 

 こう書いています。(前出)

「新聞に写真が載れば、自衛隊や警察の目に留まり、速やかな救助活動につながるのではないか、そうすれば間接的にも人命救助に貢献したことになる・・・そんな思いで自分の気持ちを割り切っていたのだが、現実は、はるかに厳しいものだった。医療チームが入るまで相当な時間がかかり、新聞に載せた学校の屋上の『SOS』の写真が、結果的に無力だったことが分かった。

 一体、報道とは何だ?俺の仕事は本当に人の役に立っているのだろうか?・・・。ふたたび強烈な自己嫌悪に陥り、いまも苦しみながら自問自答を続けています。