金日成(キム・イルソン)主席の満80歳を祝うマスゲーム。 (1992年4月15日撮影)
目次
- 日本社会党「訪朝団」が平壌入り (4月13日)
- 金日成主席の満80歳を祝うため
- マスゲームの前日(4月14日)
- 強権的指導で行われるマスゲーム(4月15日)
- 「マスゲーム」会場は金日成スタジアム
- 日本社会党、「北朝鮮」「安保・自衛隊政策」で消滅へ
日本社会党「訪朝団」が平壌入り (4月13日)
北朝鮮(=朝鮮民主主義人民共和国)で、大掛かりなマスゲーム(集団演技)を観る機会がありました。
1992年4月15日に、満80歳を迎えた最高指導者、金日成(キム・イルソン)主席を国民が祝う行事でした。
日本から、日本社会党と自民党の国会議員らが大勢で訪問して、平壌(ピョンヤン)で北朝鮮の最高指導者と握手したのです。
日本社会党は1963年から、北朝鮮を支配する独裁政党「朝鮮労働党」との間で「日朝関係改善」のために交流していたのです。
この訪問時には、のちに大問題になる【拉致事件】にはマスコミも感度が鈍く、社会党も話題にしませんでした。
以下は、1992年4月13日から16日まで、政治部担当記者として日本社会党に同行取材した時の、苦々しい記録です。
金日成主席の満80歳を祝うため
平壌空港に着いた日本の「訪朝団」。
社会党と自民党の北朝鮮訪問団は1992年4月13日、日航チャーター機に相乗りして平壌空港に到着、朝鮮労働党のナンバー3の金容淳書記の出迎えを受けました。
平壌空港の風景・・・殺風景ですが、これはターミナルビルですね。
北朝鮮の音楽隊のようでした。
歓迎風景。
北朝鮮訪問団は、だいぶ以前から朝鮮労働党と付き合いのある社会党が、田辺誠党委員長以下国会議員13人、都道府県本部代表100人の計113人。
自民党の訪問団は、池田行彦衆院議員以下国会議員16人、秘書9人の計25人でした。
ターミナルビルの屋上には金日成主席の肖像画。このターミナルビルはその後、2011年まで利用されていたようです。
マスゲームの前日(4月14日)
錦繡山(くむすさん)議事堂。ここは金日成主席が公務に使っている建物です。
前列左端は富塚三夫衆院議員(元総評事務局長)、その右は久保亘
副委員長、その右が田辺誠委員長。
現れた金日成主席に、田辺委員長が訪朝団メンバーを紹介、次々と握手しました。
右端が金日成(キム・イルソン)国家主席。「偉大なる首領様」という尊称のもとに国内で神格化されていた人物。
次々と握手。
一緒に記念撮影。
錦繍山(くむすさん)議事堂での金日成主席との「会談」のあと、
一行は文化会館のような施設に案内されました。
子どもたちが、「笑顔」「笑顔」「笑顔」で楽器を演奏していました。
白い歯を見せ、体を左右に揺らせながら演奏していましたが・・・
この施設はショーウインドウなんでしょうか、ちょっと不自然で戸惑いました。
平壌の街のようす
強権的指導で行われるマスゲーム(4月15日)
まず案内されたのは生家
4月15日は金日成主席の80歳の誕生日。
訪朝団はここに連れていかれました。「生家」だそうです。
金日成主席の生家。万景台(マンギョデ)というところ。北朝鮮を旅行する外国人は必ずここに案内されるようです。
「マスゲーム」会場は金日成スタジアム
「マスゲーム」会場周辺に集まった子どもたちです。入場の合図を待ちます。
駆け足で会場に向かいます。
マスゲーム会場は平壌市内の金日成スタジアム。10万人収容できるそうです。
マスゲームは、大勢で体操やダンスをする演技。子どもたちが大勢参加して「偉大なる首領様」の前でいろんな人文字を繰り広げました。
始まる前の調整・・・
始まりました。4月15日は誕生日です。
演技をする子どもたち1人ひとりがパネルか大きな本のようなファイルを持っていて、指揮者の合図に合わせてページをめくる。そうすると絵が切り替わるという仕掛けでしょうか。
偉大なる首領様の姿をつくりました。
マスゲームを鑑賞する外国人。この表情は・・・
「ZDF」と書かれたマイクを持つレポーター。「第2ドイツテレビ」というドイツの公共放送のようです。
一糸乱れぬ演技です。
このひな壇に金日成主席がいると思います・・・
優雅でリズミカルな動き・・・
演技終了。お疲れさまでした。
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親子かな・・・
こちらは、カメラを向けると、にらまれました。
日本社会党、「北朝鮮」「安保・自衛隊政策」で消滅へ
1970年代後半から1980年代前半にかけて、不自然な形で行方不明になった多くの日本人について、日本政府は「北朝鮮による拉致の疑いが濃厚」とみて、1991年以来、日朝国交正常化交渉など機会あるごとに北朝鮮側に問題提起しましたが、かたくなに否定されたといいます。
2002年9月、平壌で行われた史上初の日朝首脳会談で、最高指導者・金正日(キム・ジョンイル)国防委員長(当時)が小泉純一郎首相(当時に対し、「特殊機関の一部の盲動主義者らが、自分たちが日本語の学習をできるようにするために行ったと考えている」と、これまで否定し続けてきた北朝鮮による日本人拉致を認め、謝罪しました。翌2003年10月、拉致被害者17人のうち5人が帰国しました。
日本社会党はその間、村山富市社会党委員長を首相とする自民・社会・新党さきがけ3党による連立政権を1994年に樹立。村山首相はそれまで日本社会党が「党是」としてきた「自衛隊違憲」「非武装中立」をあっさり放棄し、自衛隊も日米安保条約も日の丸・君が代も容認してしまいました。路線転換です。
1996年1月、日本社会党は党名を「社会民主党」(略称:社民党)に変更、伝統ある「日本社会党」は消えました。
そして2003年11月の総選挙では、社民党は旧日本社会党以来の「朝鮮労働党」との関係が問われ、惨敗。その後も衰退の一途をたどっています。
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