韓国と北朝鮮の軍事境界線上にある板門店(パンムンジョム)に、
北朝鮮側から入ったのは1992年4月13日でした。
日本の政府は北朝鮮の核実験やミサイル発射実験、拉致はけしからんというわけで、北朝鮮には行かないでね、と言っています。
30年近く前になりますが、北朝鮮で撮った写真を記録として載せることにしました。
板門店・・・北朝鮮側から見た軍事境界線をまたいで建つ青い建物と、その向こうの韓国側建物
荒涼とした赤茶けた大地に、その空港はありました。
アジア・太平洋戦争の時、北朝鮮は日本に植民地として支配されており、平壌空港は「帝国陸軍」が使っていました。朝鮮戦争のあと、北朝鮮政府が修復して使い始めました。
空港ターミナルビルの正面には、この国の金日成国家主席の肖像画が掲げられており、「いや~、すごい国に来てしまったなあ」と思った次第です。
(このビルは2011年まで使われ、今は立派な空港ビルになっているらしい)
高速道路が前日に開通!
空港から平壌市内を通り抜け、板門店に向かいました。
首都・平壌は、外国向けの「ショーウインドウ都市」だと酷評する人もいます。
その平壌から開城(ケソン)という都市までの160㌔間に「高速道路」が開通しました。 前日の1992年4月12日のことです。目的地の「板門店」までは開城から8㌔ですので、高速道路にのりました。
北朝鮮では、一般国民が車を持つことはできないそうで、すれ違う車はありませんでした。
高速道路を走行中に、ハプニングです。
日本からのツアー客を乗せたバスが、パンクしたというのです。タイヤ交換をする間中、後続の私たちも高速道路上をしばらくウロウロしました。対向車はありませんでした。
車窓から見る風景。なんといいますか・・・・・
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板門店に着きました。韓国と北朝鮮の軍事境界線に位置する板門店です。
写真は、軍事境界線から見て北側に建つ北朝鮮の「板門閣(はんもんかく)」という施設の裏口です。ここから入ります。
板門閣(北朝鮮の施設)の1階からみた軍事停戦委員会本会議場の青色の建物と、その奥の韓国側の「自由の家」(正面)と「平和の家」(右の白い建物)。
韓国のこの「自由の家」はその後、取り壊され、外形が全く異なる新しい「自由の家」が1998年に竣工しました。
正面中央は韓国側の展望台。監視のための施設と思われますが、新しい「自由の家」が地上4階建てでできたために現在は左端に移築されています。
軍事境界線の上に建つ青色の「軍事調停委員会本会議場」の建物。国連軍が管理していますが、北朝鮮からのツアー客の訪問の場合は北朝鮮軍(朝鮮人民軍)兵士が中に入るようです。
ツアー客に説明もしてくれます。
青色の建物を出て、北朝鮮側をみると、先ほどまでいた「板門閣」があります。屋上には監視カメラも付いています。
この時は2階建てでしたが、2年後の1994年に増築して3階建てにしました。(下の写真)
現在の「板門閣」。1997年12月3日、韓国側から撮影。
朝鮮戦争休戦協定が結ばれた場所
板門店の一角に、休戦協定の署名・調印が行われた場所がありました。
「ウィキペディア・フリー百科事典」より借用。
1953年7月27日、板門店で朝鮮戦争休戦協定に署名する国連軍代表(左)と北朝鮮軍(朝鮮人民軍)代表(右)。米軍撮影。
板門店で、休戦協定が調印された建物があった場所には、そこが署名・調印の現場であることを示す「石碑」が建っています。新築された施設もあり、「朝鮮民主主義人民共和国平和博物館」という名前になっていました。
当時使われたという「国連旗」や「北朝鮮国旗」などがありました。
板門店から平壌に戻る時の車窓風景です。「茶色」が目に焼き付いています。平壌の高層ビル群と違います。
案内員・・・
外国からの訪問者の団体には、北朝鮮では2人の「案内員」が付くようです。私たちの場合もそうでした。彼らは日本語が上手でした。
外国人旅行者の案内役という意味でしょうが、日本でいう「ガイド」さんとは少しばかり、役割が違うと思います。
案内員は、外国人旅行者が道に迷って行方不明になったり、お国にとっては見られてはまずい、不都合なところに行ってトラブルを起こさないように、ピタリとそばにいて指導してくれます。旅行者の単独行動は認めません。 監視役でもあるのでしょうね。
注意するように、と言われたことの1つは、市民に決して話しかけないこと。そして、市民にカメラを向けないこと。
理由を聞くと「外国人に慣れていないからトラブルのもとになります」。
日本語をどこで学んだのか聞きました。平壌外国語大学の日本語の専門課程ということでした。
案内員は2人とも、たばこをよく吸っていました。宿泊した外国人旅行者向けの高麗(コリョ)ホテルのロビーで案内員が1人だけになった瞬間、彼に日本から持参したたばこ(セブンスター)を箱ごとあげました。すると彼は礼を言わずに、サッと自分の背広のポケットにしまい込みました。びっくりしました。
帰国後、案内員に礼状を出そうかと思いましたが、案内員が2人とも、日本からのスパイの協力者になったと北朝鮮当局者に誤解されては申し訳ないと思い、連絡するのをやめました。
どんな事情があるのか分かりませんが、ニッポンに関心を寄せて日本語を学んでくれたことに感謝したいだけでした。
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新型コロナウイルスの感染が世界的に広がったことで、「板門店ツアー」はいま、行われていませんが、少し前までは韓国も北朝鮮も外国人のツアーを歓迎していました。
現地に文化遺産があるわけでもなく、景色がよいわけでもないのに、≪緊張状態≫という要素が観光資源になっているというのは奇妙なことであり、歴史の皮肉です。