北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスに登っていたころの写真記録、国内外の旅行、反戦平和への思いなどを備忘録として載せています。

渥美半島(愛知)先端に陸軍の伊良湖試験場があった!

  

 伊良湖岬 (2012年2月11日撮影)

 

 

伊良湖岬に軍事施設があった!

 伊良湖岬(いらごみさき)という地名をご存じでしょうか。

 愛知県の渥美半島の先端にある砂浜です。太平洋に面し、波打ち際に立つ白亜の灯台から、曲線美を描きながら1㌔続く白い砂浜は恋路ヶ浜と言います。知る人ぞ知るデートスポットです。

 このあたり一帯は地元では『西山(にしやま』と呼ばれますが、ずいぶん前は、旧日本陸軍が戦争で使う大砲の性能をチェックする軍事施設があったのです。

  18歳まで過ごしたふるさとの戦争遺跡のことを整理しました。

 

 

目次

 

軍事施設の名前

 その施設の名前は、陸軍技術本部伊良湖試験場です。

 

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「田戸神社」脇に立つ門柱の木の表札に「××試験場」の文字 (1997年5月1日撮影)

 

 

 

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 「正門」だった門柱をみると、

陸軍技術本部 伊良湖試験場跡」と書かれたプレートが埋め込まれていました。

                       (2006年1月22日撮影)

 

 

 

 場所は渥美半島先端の、いまでも公共交通の便が悪い通称「西山」地区です。

 1945年8月15日にアジア・太平洋戦争が終わるまでは、付近の一般住民は近寄ることもできず、また敗戦で軍の機密書類が焼かれたために、具体的にどんなことが行われたのか分かりません。ただ、当時使われていた施設・設備がいくつか残っており、想像することはできます。

 

 

最近の様子

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 写真右が、「六階建て」と呼ばれている建物。右は「二階建て」。

                        (1997年5月1日撮影)

 

 

 

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                  (上の写真は、2009年元日に撮影)

 

 

 

  このあたりに今も残っている軍事施設は10件余り

 名前をよく知られているのが「六階建て」。キャベツ畑にニョキッと建っています。その隣にはコンクリートの2階建ての建物

 

 

 

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 二階建てのコンクリート造りの施設は「無線通信所」だったそうです。

 向こうに見える紅白の煙突は、中部電力渥美火力発電所。(2009年元旦撮影)

 

 

 

 

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 軍事施設ですが、人が入り、生活のにおいがしました。活用されています。

                      (1997年8月30日撮影)

 

 

 

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 キャベツ畑の横のコンクリートの建物も使われていました。右端は六階建て。

                      (2006年1月22日撮影)

 

 

 

  

江戸時代からの現地の風景

 

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 渥美半島最先端部。左上(西端)に松林が見えます。(2007年3月18日撮影)

 

  

 半島最先端の「西山」地区は、江戸時代から松林だったようです。

 田原市の広報誌「広報たはら」(2018年2月号)によりますと、江戸時代に書かれた『伊良湖名所記』というガイドブックに、2代将軍・徳川秀忠が狩りをした様子が記されています。それをみると、西山一帯が松林で、平坦な砂地だったことが分かります。

 

 

 

現地が大砲の試験場に選ばれたわけ

 「西山」地区に陸軍省が大砲の実射試験場を建設することにのは、日清戦争で日本が勝ち、次の日露戦争に向けて軍備を拡充していたさなかの1901年(明治34年)のことでした。

 

 

 名古屋市教育委員会学芸員の伊藤厚史さんの著書「学芸員と歩く愛知・名古屋の戦争遺跡」(六一書房)によりますと、当時陸軍にとって、射程1万㍍(=10キロ)の「射線」のある射撃試験場が必要となりました。

 「射線」というのは、火砲から発射された弾丸が描く線のことです。

 渥美半島の先端部が候補地となったのは、①「田戸(たど)神社」前の砲床(=火砲を据えて置く台)から、伊良湖岬南西端の先にある「伊勢湾」に向けて発射する砲弾の射線が、ギリギリ1万㍍ある②用地の大部分は皇室の財産である「御料林」であり、伐採しない限り、管理する宮内省の承諾を得やすい――と考えたためでした。

 施設は着工からわずか半年後の1901年末に出来上がりました。ここで大砲や弾薬の検査、弾道の研究などが行われ、合格すれば戦地に配備されたのです。

 

 

 

施設を建設した会社は?

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 現存する二階建ての「無線電信所」 (1997年2月26日撮影)

 

  

 六階建ての向かい側に建つ無線電信所は、

「北川組」が1944年(昭和19年)に建設しました。

 名古屋市に本社を置く建設会社です。

 

 

 

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 写真はいずれも北川組のホームページからの引用

 

 

 

 北川組のHPによりますと、陸軍伊良湖試験場の施設建設工事には1934年(昭和9年)からかかわっていて、「装薬調整所」「清涼火薬庫」「乾燥火薬庫」「砲廠(ほうしょう)」などを建設。「その他の施工画像」の中には、建設中の「気象塔兼展望塔」の写真あります。

 

 建設中の気象塔兼展望塔の前には、白色の「百葉箱(ひゃくようばこ)」が写っています。地上の温度や湿度はここでも計測したようです。

 

 

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今も残る施設群

 明治から昭和のアジア・太平洋戦争までの間の戦争に関する建物や構築物などを

戦争遺跡」と歴史研究者は呼んでいます。

 年月が経って劣化し、危険だ!という理由で全国で多くが解体されました。

 しかし、この伊良湖試験場施設は文化財に指定されたわけでもないのに、構築物の多くが堂々と残る全国でも珍しい戦争遺跡群です。

 保存しようという意識があるわけでもなく、まだ使えるからという理由で農家の人が物置小屋などとして使っているのが実情です。

 

 

軽便(けいべん)鉄道

 伊良湖試験場には、「軽便(けいべん)鉄道」という線路の幅が狭い小ぶりの鉄道が敷設されていました。

 「渥美町史」や「広報たはら」によりますと、軽便鉄道は試験場正門を通て近くの「小中山港」まで延び、陸揚げされた大砲や砲弾、物資の輸送に使われました。

 伊良湖岬方面への軽便鉄道には、砲弾の飛距離などを観測する兵士たちが「トロッコ」に乗って行き来したようです。

 

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 小中山(こなかやま)港    (2009年元日撮影)

 

 

 

通称:六階建て(気象塔兼展望塔)と「壁画」

 

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  「六階建て」は風速や風向など気象観測や大砲の弾道の見張りなどに使われました。

 高さは19.4㍍。3面に四角い窓があります。

 

 

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 六階建ての入り口です。

 

  

  

 

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 壁画です。 (1997年8月30日撮影)

1階の壁には、和服を着た日本女性が描かれていました

その右の青いペンキ右の壁にも、外人女性が描かれていたように思います。写真には脚が見えます。

 戦後の占領下で、米兵がこの半島の先に駐留した時、誰かに書かせたようです。が、記録が残っていません。

 

 

 

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 手すりのない階段。来るたびに、転落したらいやだなあと思うのですが、手すりがどこにもないのです。金属製の手すりがあったとすれば、戦後まもなく誰かが売って、カネに変えたのかもしれません。  (2009年元日撮影)

 

 

 

 

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 FIRE EXIT・・・という文字。「非常口」という意味ですが、日本人は書かないですね。米兵か。(2009年元日撮影)

 

 

 

 

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 階段下の、壁の穴。スイッチの跡でしょうか。

 

 

 

 

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 六階建ての窓からみた伊良湖岬の先端方向。(2006年1月22日撮影)

 

 

  

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 六階建ての屋上。観測機器を設置していた跡でしょうか。

(2009年元日撮影)

 

 

 

無線電信所

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 六階建ての向かい側にあります。2階建てで、高さ7㍍。

 点在する事務所や観測所との連絡にあたる施設です。

 

 

 

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  (いずれも2009年元日撮影)

 

 

検圧所

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 圧力を調べる「検圧所」。向かって右が作業室でしょうか。

 左は「避害所」で、砲弾を発射した時の爆風や、誤って爆発した時に、試験官や監視者の身を守るために構築された施設。砲床に面した横長の「窓」は、危険を避けるために高さがわずか2センチというすき間です。

 

 

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 「検圧所」の斜め前(写真右端)にあるコンクリートの台が、「砲床」。

 

 

 

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 手前のコンクリートの塊が「砲床」です。ここに大砲を据えて、前方に発射しました。

 (以上、いずれも2006年1月22日撮影)

 

 

 

避害所

 

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 「砲床」脇にある別の避害所の写真です。(撮影は2009年元日)

 

  

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 「避害所」を、裏手から見た写真。この時点でも再利用されていました。

                       (1997年2月26日撮影)

 

 

 

油脂庫

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 コンクリート造り平屋建ての建築物。高さ3.7㍍。3部家に分かれ、鉄の扉が付いていました。油を保管する施設でいた。児童公園の中で放置されていました。(2006年1月22日撮影)

 

 

私の記憶

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   恋路ヶ浜・・・伊良湖岬灯台から続く美しい砂浜です。

 

 

★砲弾破裂で隣のクラスの子が重傷

 私が地元の小学校4年生だった時のこと。別のクラスの男の子が松林の中で大けがをし、右腕をなくしたうえ眼も一方が不自由になる事故がありました。当時、聞いた話では、砲弾を触っていたら爆発したらしいという話でした。走るのが速く、一目置かれた子で、その後もごく普通に学校生活を送りました。 

 1960年代でしたが、くず鉄が高く売れたので、砲弾の破片を拾いに松林に入って、くず鉄拾いをする人がいた時代です。不発弾がいくつもあったんですね。

 

 

 

 

★松葉拾い

 戦後生まれの私にとって、「西山」は広大な松林というイメージでした。戦後10数年たち、小学生だった私は枯れ落ちた松葉を拾いに、片道2キロ以上の道のりを、リヤカーを引いて祖母とよく行ったことを覚えています。

 枯れて茶色になった松葉を「燃料」にするためです。

 当時は、現代のように電気やガスも十分ではなく、松葉と薪(まき)でご飯を炊いたり、ふろを沸かしてしていた時代ですから。「煙突」がどの家にもありました。自宅の大きな真っ暗な物置小屋は、いつも松葉でいっぱいでした。

 当時、“「ご」をかきに行く”と言っていましたが、これはどうも、愛知県の辺地の方言のようです。

 

 

 

 

★空いた軍事施設に住む人も

 幼いころの記憶では、「西山」に「ご」をかきに行った時、コンクリート造りの建物の横に、洗濯物が干されている光景をよく目にしました。

 祖母からは、「入植者」とか「満州から引き揚げてきた人」というような単語を何度か耳にしました。

 のちに知ったことですが、戦後の1946年(昭和21年)、国策として渥美半島の西山地区では「開拓」が始まりました。中国大陸から引き揚げてきた民間人や軍人、空襲で家を焼かれた人、地元の農家の二男らが「入植」し、開拓に参加しました。

 コンクリート造りの軍事施設は今では農家の人の個人財産で、農機具や肥料などが置かれていて、勝手に立ち入りはできません。

渥美半島の代表的な戦争遺跡になっている「気象塔兼展望塔」(六階建て)の入り口横には2018年3月、地元の田原市教育委員会が「説明板」を立てました。

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