復元されたゼロ戦
戦後75年のこの夏、東京・九段の靖国神社に足を運びました。こう書きだすと、
身構える人もいるかもしれませんが・・・。
ヤスクニに行く動機は、いろいろです。
①戦争で亡くなった人を、「素直」に弔うため
②靖国神社が貫く思想や精神に触れ、自信を新たにするため
③靖国神社境内の遊就館(ゆうしゅうかん)で実物の兵器や戦死者の遺品をみるため
④その他
私の場合は、③です。
【遊就館】は、過去の戦争で使われたホンモノの兵器に接することができる数少ない場です。戦場から収集した遺品を見ると、「どうしていとも簡単に命を捨てることができたの?」とか、「なんで戦争に突入する方向にみんな流されちゃったの?」「何がそうさせたの?」といったことを考える場になると思うからです。
目次
◆ ◆ ◆
★コロナ禍の靖国神社
ヤスクニに出向いたのは、終戦記念日翌日の2020年8月16日の昼前です。例年のこの時期の訪問者がどのくらいか知りませんが、多くはありませんでした。
靖国神社が発行する『参拝のしおり』は、神社の由来や
祭ってある神(祭神=さいじん)について、概略次のように書いています。
・・・・・ 靖国神社は、明治天皇が「国家のために一命をささげた人々の霊を慰め、その事績を後世に伝えよう」と考えて創建した招魂社(しょうこんしゃ)が起源です。国を守るために命をささげられた英霊が246万6000余柱おまつりされています。その中には、大東亜戦争終結時にいわゆる戦争犯罪人として処刑された方々もまつられています。・・・・・
東京裁判で絞首刑の判決が下された東条英機元首相ら「A級戦犯」14人を合祀していることを指しています。
終戦記念日翌日だったせいか、ご高齢の方はあまり見かけませんでした。外国人の姿もほとんどありませんでした。暑いうえ「コロナ禍」の影響でしょうか。
「神門(しんもん)」は拝殿の手前にあり、1934年(昭和9年)に建てられました。
中央の2つの扉には、菊の花の紋章が取り付けられています。大きさは直径1.5㍍もあります。
若い人が菊の御紋の前でお辞儀をして、拝殿に向かう光景が目につきました。
遊就館の入り口近くには、軍犬慰霊像があります。軍隊で警備や捜索に使ったシェパードを慰霊する像です。台座には、水の入ったペットボトルが何本も・・・
こちらは戦没馬慰霊像。兵器や荷物を運んでいました。ここにもペットボトルが・・・。みんな優しいです。
★遊就館の展示室
遊就館はもともと、古今の武器を展示して、日本の武器の沿革を伝える展示場として明治時代に開館しました。
★展示されている「大型兵器」
遊就館には20以上の展示室や映像ホールがあります。このうち写真撮影が認められているのは、玄関ホールと大展示室です。
ゼロ戦(実物)
遊就館の玄関ホールに入ると、いきなりゼロ戦の展示です。きれいに化粧直しされています。
「ゼロ戦」というのは通称で、正式な名前は零式(れいしき)艦上戦闘機。海軍の主力戦闘機です。装備として採用されたのが1940年(昭和15年)で、これを神武天皇が即位した年を「皇紀元年」とする暦の数え方に直すと「皇紀2600年」となることから、「零式」と命名されたようです。
戦争が終わるまでに1万機も造られましたが、敗戦で各地に残っていた機も解体されました。
ここに展示されているゼロ戦は、1943年に三菱重工名古屋大江工場で製造された「五二型」。
ニューブリテン島(現在のパプア・ニューギニア)のラバウル基地の滑走路付近に解体されて放置されていた機体を回収、ヤップ島など南の島々から回収したエンジンや部品をそろえて復元に取り組み、1999年に完成したそうです。
ゼロ戦の座席。機体を軽くするために座席にも穴をあけていたようです。搭乗員の命を敵機の機銃掃射から守る方策なんて、全く頭の片隅にもなかったんですね。
艦上爆撃機「彗星」(実物)
大展示室には、実物の兵器がいくつか展示されています。
いきなり目に入るのは、艦上爆撃機「彗星(すいせい)」。
「彗星」は海軍の爆撃機でしたが、爆撃機として用いられるよりも、戦闘機や特攻機として使われ多くの命が失われました。
展示されている機体は、フィリピンの東方のカロリン諸島の「ヤップ島」の航空基地滑走路脇で見つけ、復元されました。
戦車(実物)
上の写真の「九七式(きゅうななしき)中戦車」は、歩兵の前進を妨げる敵の機関銃などを破壊するために開発された小型の戦車。
展示されているのは、満州(現在の中国東北部)からサイパン島に移動して
サイパン島で全滅した戦車部隊に所属していた戦車です。
戦後、この部隊の生存者が現地の砂の中から掘り出し、遊就館に展示しました。
人間魚雷「回天」(実物)
写真上の「回天一型(かいてんいちがた)」は、魚雷をベースに開発した体当たりの特攻兵器です。
全長は約15㍍、幅は約1㍍で1人乗り。先端部分に爆薬を装着しています。
「回天」は、潜水艦のデッキにバンドで固定して、攻撃目標の近くまで運ばれます。一度潜水艦を離れた回天は、体当たりに失敗しても回収されることはなく、脱出装置も付いていないため、乗り込んだ搭乗員は2度と帰ってくることはありませんでした。
出撃で戦死した搭乗員は89人、
訓練時の事故で殉職した搭乗員は15人、
戦後、自決した搭乗員は3人です。
展示されている「回天」は、戦後、ハワイの米陸軍博物館に保管されていましたが、いまは博物館から靖国神社に「永久貸与」されています。
ロケット特攻機「桜花」(レプリカ)
上の写真の「桜花(おうか)は、全長約6㍍、幅約5㍍、高さ約1㍍。機種部に爆弾を搭載し、ロケット推進する特攻機。
一式陸上攻撃機につるされて目標に近づき、空中で発進。滑空して目標に衝突するというもの。
1945年3月の初出撃では、母機の一式陸攻18機が米空母に近づく前に米グラマン戦闘機の待ち伏せに遭い、全機が「桜花」をつったまま撃墜されました。
水上特攻機「震洋」(レプリカ)
上の写真の「震洋(しんよう)」は、合板で造られた小型の船。
船首の内側に250㌔の爆薬を搭載して敵艦に体当たりする目的で開発された特攻艇。
沖縄や太平洋側の要所に配備されたそうです。説明版には「終戦までに、震洋隊の戦没者は2500人に上る」と書かれています。
「回天」「桜花」「震洋」・・・爆弾を抱えて体当たりして砕け散る搭乗員たちは、使い捨ての≪部品≫に過ぎなかったようです。
★展示されている「遺品」
飯盒(ニューギニア)
オーストラリアに近いニューギニア島で収集され、靖国神社に奉納された「飯盒(はんごう)」や、その蓋(ふた)。水筒も。
飯盒は炊飯器。兵隊さんが腰ベルトに着けて歩く時に安定するようそら豆の形になっています。
靴(テニアン)
テニアン島の海軍基地跡で収集した遺品。
テニアン島はサイパン島の近くにある島で、広島と長崎に原爆を投下した米爆撃機B-29が発進した島です。テニアン島は私の父の兄が戦死した場所だけに、特別の思いがあります。
受話器(テニアン)
これもテニアン島で収集されたもので、「無線電話機(受話器)」との説明書きがあります。
火炎放射器タンク(硫黄島)
硫黄島(東京都小笠原村硫黄島)で収集され、奉納された品です。
硫黄島では、日本軍は地下陣地を構築して、上陸した米軍に反撃しましたが、米軍は火炎放射器や手りゅう弾で地下陣地を攻撃しました。
陶器製手りゅう弾(硫黄島)
硫黄島の「来代(きた)工兵隊」の地下壕で収集された手りゅう弾。
手榴弾の本体はもともと、「鉄」でつくっていましたが、戦争末期には金属資源が不足して手りゅう弾本体を陶磁器で作るようになりました。
従来の鉄製の手榴弾は、内部の爆薬が発火してさく裂すると、爆風と金属片で数㍍以内の人を殺傷する力があったそうです。しかし、代用品の陶磁器では爆発力が弱く、殺傷能力は落ちたようです。
懐中時計(沖縄)
沖縄で収集された懐中時計です。
医療用具(沖縄)
医療器具( トレイ、ピンセット、注射器、脱脂綿、アンプル)沖縄にて収集・・・と説明文にありますが、具体的な場所は分かりません。
沖縄では、沖縄師範学校女子部、県立第一高等女学校の生徒による「ひめゆり学徒隊」という看護隊が編成されました。南風原(はえばる)沖縄陸軍病院に動員されて負傷兵の看護や遺体の埋葬を担当。米軍が迫ってくると陸軍病院を出て、重い薬品を背負って南部の洞窟に設けられた野戦病院に移動。砲弾が飛び交う中、洞窟に薬を配るのも彼女たちの仕事でした。
この陸軍病院関係で136人の女生徒が亡くなっています。
薬瓶(沖縄)
これも沖縄で収集された薬の便です。
鉄帽(沖縄)
大きな穴が鉄のヘルメットに開いています。即死でしょう。残酷。沖縄での収集品です。
鉄帽(レイテ島)
フィリピンのレイテ島の「リモン峠」で収集されました。リモン峠は米軍と激戦となり、千葉県出身者で編成した連隊の大勢が亡くなった場所です。
認識票(ビルマ)
ビルマ(現ミャンマー)で収集されたものです。日本軍は1942年(昭和17年)、当時イギリスの植民地だったビルマに侵攻しました。
認識票は楕円形の金属板に、漢字と数字が書かれていて、身元が分かりそうなものです。しかしながら現実は、所属部隊は分かるけれど番号と名前を原簿にしないことが多かったのか、持ち主の確認は難しいようです。
遺品の前では、想像力を働かせることが大事です。戦闘がいかに悲惨なものだったかをうかがうことができます。
一度は遊就館の遺品を見るのもよろしいかと思います。
★千鳥ヶ淵戦没者墓苑
靖国神社に近い千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、国が設置した戦没者の納骨施設です。
日中戦争(1937年)以降、1945年8月の終戦までの間に、アジア・太平洋地域の戦場や収容所で収集した遺骨のうち、身元不明や引き取り手のない遺骨を納める施設です。特定の宗教・宗派に属していません。
六角形の形をした「六角堂」に、約37万柱の遺骨が安置されています。
8月16日は、六角堂の前でたくさんの人が菊の花をささげていました。
ふと、私たちは戦没者にどう向き合うべきか、考えました。
「戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から哀悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」
と、おことばを述べました。
しかし、
安倍晋三首相は、式辞で
「私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであることを、終戦から75年を迎えた今も、私たちは決して忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念をささげます」
安倍首相は「戦没者」に「感謝」という言葉を好んで使いますが、違和感を覚えます。死んでいった人に「感謝」はどうでしょう。
戦没者にどう向き合うか――
戦争による犠牲者には「感謝」ではなく、「命を奪われたことを悲しく思う気持ち」が大切でしょう。「追悼」なり「哀悼」の意をささげるのが筋という気がします。
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