慶應義塾大学日吉キャンパスのイチョウ並木 (2020年8月27日撮影)
「連合艦隊」と聞けば、“真珠湾攻撃”とか“山本五十六”とか、映画を連想する人がいるかもしれません。
「連合艦隊」は戦争をやっていた時代に、戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦といった艦船に、航空隊を加えて編成した海軍の中核部隊でした。
その連合艦隊の司令部は、明治の創設以来海の上の旗艦に置かれて、司令長官が作戦の指揮をしていました。
ところがアジア・太平洋戦争末期になると、連合艦隊司令部が船を離れて、陸の上の大学寄宿舎に移設されたのです。
一体、どういうことなんでしょう――。調べてみました。
目次
日吉キャンパスに残る地下壕からの非常用出口
陸にあがった連合艦隊司令部
海から陸にどうして移転?
アジア・太平洋戦争での日米間の戦闘は、1941年12月8日の日本軍によるハワイ真珠湾奇襲攻撃で火ぶたが切られました。米軍に大打撃を与えたかに見えましたが、わずか半年後に形勢が逆転します。
1942年6月のミッドウェー海戦。日本海軍は、出撃した空母4隻すべてと、その艦載機300機を失うという損害を受けました。これ以後、戦争の主導権を米軍に奪われ、
1944年6月のマリアナ沖海戦でも、空母3隻が撃沈され、艦載機400機が撃墜されました。
空母を次々と失い、熟練パイロットが戦闘機もろとも戦死していくうちに、旗艦として使っていた軽巡洋艦「大淀」も最前線に投入する事態になったのです。それで連合艦隊司令部が陸にあがることになったのです。
寄宿舎の円形浴場跡(横浜市ホームページから引用【提供:慶應義塾】)
なぜ横浜・日吉に?
陸にあがるにしてもどこに司令部を置くか?
条件として
・陸上の施設を使えるところ
・空襲を避けるための地下施設を掘りやすいところ
などを満たすところを探しました。
連合艦隊司令部の情報参謀だった中島親孝氏は戦後、「日吉台地下壕保存の会」の聞き取り調査に対し、こう話しています。
「昭和15年(1940年)に慶応大学生だった親せきに誘われて慶應の運動会に行った時、いい学生寮があるなと思った。非常時に至って、この寮のことを思い出し、司令部の人たちに日吉移転を宣伝し、日吉に司令部が来る基礎をつくったのです」
学徒出陣壮行会が行われた日吉キャンパス陸上競技場
「学徒出陣」で慶應の学生不在
学徒出陣で、学生がキャンパスから消えていたことも、日吉移転の決め手になりました。
戦前・戦中は日本に徴兵制度がありました。
これは20歳になった男子は全員、徴兵検査を受けることを義務付け、合格した者は軍隊に入るという仕組みです。ただし、大学・高等学校・専門学校(いずれも「旧制」)の学生は26歳まで徴兵を猶予されたいました。
ところが戦死者が増えて、兵隊不足になりました。
1943年10月1日、当時の東條英機内閣は文科系の学生の徴兵猶予を撤廃し、徴兵して戦争に参加させる決定をしました。【学徒出陣】です。
1943年10月21日、東京・明治神宮外苑競技場(=取り壊された国立競技場の前身)で東條英機首相出席のもと、出陣学徒壮行会が行われました。
テレビで今もよく放送されるシーンです。また、徴兵猶予が継続した理科系学生も軍需工場に勤労動員されました。
慶應義塾でもこの後の11月19日、日吉キャンパス陸上競技場で、
大学予科生500人の出陣壮行会を行いました。
「予科」は現在の大学のの教養部(教養課程)です。
第一校舎。現在、慶應義塾高校です。
1944年3月に海軍省と慶應義塾が賃貸借契約
学生がいなくなった慶応義塾大学には、文部省から海軍に学校施設を貸すよう要請がありました。
そして1944年3月10日付で、慶應義塾と海軍省の間で賃貸借契約が結ばれました。貸借物件は第一校舎の一部(陽当たりのよい南半分)と寄宿舎などで、貸与面積はその後、徐々に増えていきました。
第一校舎には軍令部第三部(世界の情報収集・分析担当)が入り、寄宿舎には連合艦隊司令部が入ることになります。
寄宿舎(戦後、改修されたのち南寮:横浜市ホームページから引用)
連合艦隊司令部入る
連合艦隊司令部が慶應義塾大学日吉キャンパス「寄宿舎」に入ったのは、1944年9月29日。
それまで司令部は海上の旗艦「大淀」にありました。
「寄宿舎」は慶應義塾大学の予科生の寮です。「南寮」「中寮」「北寮」の3棟と浴場棟がありました。
「南寮」(上の写真)は、2階の奥の部屋を司令長官室と長官寝室に改造。ほかに参謀長、参謀副長ら高官の部屋。1階の食堂だったところは食堂兼会議室として使用。
「中寮」は、食堂だったところを作戦室と幕僚事務室。ほかに各個室を参謀の寝室に充てた。
「北寮」は司令部付士官の食堂と寝室。
各棟に個室が40あって床暖房。トイレは洋式で水洗。浴場棟は円形のガラス張りで、温泉を思わせたようです。
地下壕の見学用の入り口
草むらの奥の右手が地下壕入口
地下壕はいつできた?
司令部用の地下壕は、司令部がここに移ってくる少し前の8月15日から掘り始めました。
地下壕は、高台にある「寄宿舎」から、斜面下の通称「マムシ谷」に向かって広がっています。
地下壕を掘ったのは、海軍第3010設営隊という大工や左官をしていた人たちで編成されたばかりの部隊。その設営隊で給与・食料調達などを担当していた主計中尉が、日吉台地下壕保存の会の聞き取り調査に次のように話しています。
「部隊には1200人いて、最初の仕事は寄宿舎の改造。しばらくしてトンネルを掘るのが専門の『鉄道工業(株)』から2000人が派遣されてきて、昼夜3交代で地下壕を掘り始めた。2000人の派遣員のうち、少なくとも700人ぐらいが朝鮮人労働者であった。朝鮮人労働者には難工事をやらせ、待遇もひどかったようだ。現場に行くと面倒なことが起こる恐れがあるので、近づかないようにしていた。地下築城(←地下施設建設のこと:海軍用語)はかなりの重労働だったので、時々酒などをきづけのため調達して出したりした。タバコ(黄金バット)は1日8本配給があった」
地下壕は、あみだくじのように張り巡らされています。
総延長は2600メートルほどです。
東海道新幹線の「日吉トンネル」建設のため地下壕の一部が壊されました。
寄宿舎の「南寮」と「中寮」の間に、地下壕への出入り口が造られ126の階段を上り下りします。
ただ、踊り場がないために司令長官や参謀長にはきつかったそうです。司令長官らは空襲が激しくなると、地下壕の部屋に入ったそうです。
地下壕の中には、作戦室、司令長官室のほかに「電信室」「暗号室」その他部屋がありました。
地下壕から命じた作戦
「寄宿舎・中寮」や「地下壕」で作戦会議
連合艦隊の作戦は、寄宿舎の「中寮」の作戦室でねり、地下壕から電波に乗せて前線の艦船に命令を出していました。
命令電報の「送信」は、海の上にいた時は旗艦の送信機を使いました。
しかし、日吉からの指令は、地下壕の「電信室」から通信ケーブルを使ってモールス符号で海軍東京通信隊に送信します。
そのうえで千葉県船橋市の海軍無線電信所船橋送信所から各艦船に向け、電波を発信して命令を伝えたようです。
また、鹿屋、木更津など主要な航空基地、各鎮守府との専用の直通電話も備えていました。
戦艦「大和」に沖縄への特攻出撃を命令
1945年4月6日の戦艦「大和」の沖縄への出撃命令も、この日吉の地下壕から出されました。
連合艦隊司令部は4月5日午後1時59分、「大和」と軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」、駆逐艦8隻の計10隻に対し、
「海上特攻トシテ 八日黎明沖縄島ニ突入ヲ目途トシ 急速出撃準備ヲ完成スベシ」
という電文を発しました。特攻の命令です。米軍が上陸したばかりの沖縄本島・嘉手納に向かい、米艦船を撃滅せよという命令です。
翌4月6日午後3時45分、豊田副武・連合艦隊司令長官は奮起を促す電報を発しました。
「帝国海軍部隊ハ陸軍と協力 空海陸ノ全力ヲ挙ゲテ沖縄島周辺ノ敵艦船ニ対スル総攻撃ヲ決行セントス 皇国ノ興廃ハ正ニ此ノ一挙ニ在リ (以下略) 」
4月6日、戦艦「大和」は、停泊していた山口県の徳山(現在の周南市)から出撃しました。航空部隊の支援なしでの米軍部隊への突入です。
翌4月7日、「大和」は奄美大島の北で米空母艦載機300機の攻撃を受け、わずか2時間で撃沈されました。
「大和」乗員3332人のうち3056人が戦死し、
生還者は1割にも満たない276人でした。
地下の電信室・暗号室
電信室
空中を飛ぶ電波の「受信機」が置いてあった「電信室」は全長約16メートル。通路を挟んで両方の壁際に机が並び、受信機が30台あったようです。
ここで働く「電信員」は150人ほどいたそうで、勤務を交代しながら24時間、モールス信号による通信を傍受していました。
モールス信号というのは、「トン」「ツー」という2つの符号の組み合わせによって数字を表現します。例えば、「トンツーツーツーツー」は数字の「1」を、「トントントントントン」は数字の「5」を表します。
通常の電文は、この数字の羅列が送られてきます。「電信員」は受信した内容を用紙に書いて、受信機の横のベルトコンベアーに載せます載せます。すると取り次ぎ兵がその用紙を隣の「暗号室」に渡します。
暗号室
「電信室」の横に「暗号室」がありましたが、仕切りはなかったといいます。
「暗号員」も要員が150人ほどいたようです。
「暗号室」に勤務する暗号員は、「乱数表」に照らし合わせて暗号を解読するのが仕事です。電信室と暗号室の間には仕切りはなかったといいます。
「トクキン」と呼んでいた特別緊急軍極秘電文は、暗号長(大尉)ら将校しか触れることが許されなかったそうです。
暗号員が解読した電文は、待機している取り次ぎの兵隊が、126段の階段を駆け上がって、地上の寄宿舎(司令部)に届けていました。
また、逆に、司令部が発する電文は、暗号室で暗号にしてから電信室に渡されました。
冬枯れの日吉キャンパス (2010年3月22日撮影)
特攻隊からの通信(ト連送)
米艦船に戦闘機もろとも突っ込んでいく特攻隊の操縦士は、
縦振り電鍵(たてぶりでんけん)というモールス信号(符号)を打つ器具を、太ももに縛り付けていたそうです。
操縦士は突撃開始の時、合図にト連送というモールス信号を使いました。
モールス信号の【ト】(・・-・・)を連打するのです。「トトツートト」「トッツートト」「トッツートト」を太ももの上で繰り返すのです。
そしてまさに突っ込むときは「ツーーーーーー」とキーを押しっぱなしにします。「ツー」という信号が途切れた時が体当たり、あるいは撃墜された瞬間、というサインでした。
日吉の地下壕で通信員だった人が、80歳を過ぎてから、当時のことを思い浮かべて次のように書いています。(日吉台地下壕保存の会会報より)
「なによりつらかったのは、艦船に突撃する特攻隊員との通信でした。飛行中の特攻機はほとんど信号を発信しませんが、しかし目標が近づくと、『ツー』と信号を出しっぱなしにするのです。そして、この音が突然、途絶えるのです。これは当時、特攻機が敵艦などに命中した、との理解です。この発信音はいまも耳から離れません」
そして、さらに戦艦大和が撃沈された時の日吉の地下壕のようすについて――。
「私たち防府海軍通信学校第72期生は戦後、同期会を開催し、そこで知らされたのですが、同期生である古川嘉之君が戦艦大和の通信隊員として活躍、15歳で戦死された。あの時の緊迫した連合艦隊司令部地下電信室の悲痛な空気を思い出される昨今です」
1945年4月7日、戦艦「大和」が傾いていく様子が刻々と入電し、通信員は涙ながらに受信したそうです。
寄宿舎の敷地には無断立入禁止
敗戦後の地下壕や日吉周辺
敗戦後の1945年8月25日、日吉キャンパスには米第8軍通信隊の兵士700人が進駐しました。
寄宿舎の「北寮」が将校の食堂となり、そこにコックとして勤めていた人が、日吉の街の様子を次のように書いています。(日吉台地下壕保存の会会報より)
「日吉の駅には夕方になると、東京や横浜方面に外出する将校や兵隊さんを相手に、10数人のパンパン(売春婦)がたむろしていて、話がまとまると駅周辺の貸し部屋で商売をしていました。また、綱島では、戦前にあった遊郭が売春宿となり、繁盛しておりました」
「地下壕の中で(売春婦が)商売をしていて、ある時、金銭上のトラブルで黒人兵がヤクザに殺されたことがありましたので、地下壕の入り口はほとんど米軍によってコンクリートでふさがれてしまいました」
「(私自身は米将校から)料理の残った材料は全部家に持って帰り、お父さん、お母さん、兄弟に食べさせてあげなさい、と証明書を書いて持たせてくれました。毎日、一斗缶(18リットル入り)にいっぱいの残り物を家に持って帰り、食べ切れないものはヤミで売り、相当のお金をもうけました。結局、朝鮮戦争が始まって彼らが朝鮮に出兵するまで働き、それが縁で日吉に住むようになりました」
1949年に寄宿舎など施設は慶應義塾に返還され、第一校舎は慶應義塾高校が使うようになりました。
改修されて現在も使われている寄宿舎・南寮 (高台の白い建物)
寄宿舎と地下壕はいま・・・
寄宿舎の「南寮」と「浴場棟」が、2011年度の横浜市歴史的建造物に指定されました。
建設されたのは1937年。南寮は鉄筋コンクリート造り3階建て。浴場棟は鉄筋コンクリート造り2階建て、地下1階コンクリート造り。
老朽化が進んでいた南寮はその後改修され、寮として使われています。部外者立入禁止です。
「地下壕」については、慶應義塾高校の教職員が中心になって立ち上げた「日吉台地下壕保存の会」が、慶應義塾の許可を得て壕の中を定期的に一般の見学者に案内してきました。
しかし、このコロナ禍で慶應義塾の許可が出ないため、当面中止となっています。
★参考資料
「日吉台地下壕保存の会」会報
「本土決戦の虚像と実像」(高文研:日吉台地下壕保存の会編)
「連合艦隊作戦室から見た太平洋戦争」(中島親孝・元連合艦隊参謀:光人社)
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