防衛省の敷地内に今も残っている旧陸軍の地下壕 (2021年2月25日撮影)
目次
大本営陸軍部地下壕跡
東京・市ヶ谷台の防衛省に、地下壕があります。その地下壕が半年前から一般公開されるようになったので、2021年2月25日に見学しました。
この地下壕が建設され始めたのはいつのことでしょう・・・。
1941年(昭和16年)12月に日本軍が真珠湾を奇襲攻撃して太平洋戦争を始める4ヵ月前の、1941年8月から掘り始めていたのです。
地下壕の建設を急いだ理由や、そこで戦時中、何をしていたのか、実はわかっていないのです。資料が残っていないのです。
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地下壕の建設
1941年(昭和16年)当時、市ヶ谷台にあった施設は、陸軍士官学校・一号館という庁舎です。日本軍による奇襲攻撃でアメリカとの太平洋戦争が始まった12月8日の直前に士官学校はよそに出ていき、代わりに
12月8日以降、この1号館に「陸軍参謀本部(大本営陸軍部)」「陸軍省」などが引っ越してきました。
1号館が陸軍の戦闘指揮本部になったわけです。
地下壕は戦後、GHQから日本に返還され、陸上自衛隊市谷駐屯地になってから一般公開されました。
1990年5月23日に地下壕に入った「エンジニアリング協会・地下開発利用研究センター」のレポートや、1993年に駐屯地が開いた見学会参加者の記録をもとに、「地下壕」についてまとめると、以下のようになります。
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「(地下壕の建設は)近衛工兵と民間の奉仕隊によって行われた」
「露天掘り+埋め戻し(オープンカット)方式によって1942年12月に出来上がった」
「7000㍍上空から投下された1トン爆弾にも耐えうる構造とするため、鉄筋により補強されたコンクリート構造(厚さ4㍍)になっている」
地下壕の全体図(壕内に展示してあるパネルを撮影)
地下壕のある位置は、戦時中にあった「陸軍士官学校・1号館」の前庭。
前庭の地下14㍍に横たわる格好で建設された。
(上の図の右奥の地上に、1号館がある)
「1号館」の模型。
「1号館」の地下1階の配置図。右の下の方に「地下室入口」とある。
下の図は、分かりやすい断面図。右の「本館」とあるのは「1号館」。
断面スケッチ(GECニュース第9号=1990年5月から引用)
地下壕へは、地下1階(2枚上の図を参照)の「売店」前の鉄扉を開けて、地下への階段を下り、水平の地下通路に入る。地下通路は幅約1.5㍍、高さ約3㍍で、40㍍ほど歩くと地下壕(上のスケッチでは「地下室」と表記)に着く。
地下壕の中の設備とその配置
(上のパネルでは、上が「1号館」方向、下は現在の靖国通りへの出口)
地下壕は、通路の幅約4.5㍍、高さ約4㍍、奥行き約50㍍のものが南北に3本。東西に長さ約45㍍の通路が2本あり、直角に交差する形。
出口は南北3本の地下壕の南端にあり、現在の靖国通りに通じている。
出口の扉は1本に2つずつ、計6つある。(下の図の左端参照)
(上の図は、配布されたパンフから引用。見学できるのはごく一部)
地下壕には、陸軍大臣室、通信室、炊事場、浴室、トイレなどがあった。
(パンフより)通路の片側を仕切って「陸軍大臣室」に。その向こうは「通信室」。
(水洗トイレ。「大」の方)
(トイレ。小便用。便器の跡が付いている)
(換気口が天井に)
天井には、換気口が2カ所にあった。
鋼材2本の上に、換気口。その向こうが陸軍大臣室と通信室の跡。
換気口の先の「通気筒」は、空襲による爆風が地下壕に吹き込んだり、光が地上に漏れないように、途中で曲げてあった。
また、地上部分の空気取り入れ口は、米軍機から見えないように、日本庭園に石灯籠(いしどうろう)を配置してカムフラージュしていた。
地上の石灯籠。実は、空気の取り入れ口。
地下壕の出口
地下壕の出口。防衛省の南側斜面にの靖国通り沿いに6カ所。見学の出入り口は、このうちの1つ。
見学する時の入り口。
30年前の一般公開時は、地下壕の壁に亀裂があり、床の上の水たまりがあったようだが、今は金属の板で歩道が造られ、歩きやすくなっていた。
見学できるエリアはごくわずか。
地下壕はどのように使われた?
(地下壕にある説明用パネル)この図を見ると、壕の内部を仕切って小部屋をいくつか作っていたことが分かる。
「この中に、戦時中は作戦本部として常時200名程度が業務に就いていたが、これが空襲時には3000名が退避したともいわれる」
(1990年5月「GECニュース」第9号から抜粋)
陸軍大臣が天皇の「聖断」を壕の中で部下に伝えた
1945年(昭和20年)8月9日から10日にかけて行われた御前会議で、天皇は鈴木貫太郎首相から「聖断」を仰がれ、ポツダム宣言を受諾する意思を示しました。ところが阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣ら本土決戦派は、
「国体護持」の保証が明確ではない、として外務省に対してアメリカの意向を確認するよう強く求めました。
※御前会議=天皇の前で内閣と軍部が一緒になって日本の国が取るべき方針を決める最高の会議のこと。
※聖断=天皇の決断のこと。
※ポツダム宣言=米、英、中国の3か国首脳の名で、日本に無条件降伏を勧告した宣言のこと。
そのポツダム宣言受諾という天皇の「聖断」を、阿南陸軍大臣が部下に伝えた場所が、この地下壕です。
陸軍省軍務部軍事課兼参謀本部第1部3課の高山信武大佐は著書「参謀本部作戦課」(芙蓉書房)で次のように書いています。
「阿南陸相は8月10日午前9時30分、陸軍省地下防空壕(=1号館の地下壕のこと)に、陸軍省各局課の高級課員以上を集合せしめ、前夜来の御前会議の模様につき、説明と訓示を行った。阿南陸相は声涙とも下る真剣な表情で、切々と説明しかつ訓示をした」。
また、先日亡くなった半藤一利さんの著書「日本のいちばん長い日」(文春文庫)によりますと、この時地下壕で、(抗戦派の)1人の課員が
「大臣は進むも退くも阿南についてこいといわれた。それでは退くことも考えておられるのか」
と不満を言ったところ、
陸相は「不服なものは、まず阿南を斬れ」と声を荒げたそうです。
阿南陸軍大臣が地下壕のどこに何人集めて「聖断」を伝えたのか、資料がなくて分かりません。
終戦時に機密文書焼却
★防衛省防衛研究所は「戦史研究年報」を発行しています。この第1号(1998年3月)は「市ヶ谷台史料」と題して、次のように「文書焼却」について書いています。
「平成8年(1996年)4月末、自衛隊市ヶ谷駐屯地で、終戦時焼却されたはずの旧陸軍文書が焼け残った状態で大量に発見された。防衛研究所戦史部は、これらの史料を『市ヶ谷台史料』と命名し、平成9年度から本格的な修復作業を実施中である。」
「昭和20年(1945年)8月14日、日本政府は閣議でポツダム宣言受諾を決定するとともに、重要機密文書の焼却を決定した。これに伴い、陸軍は各部隊、官衙(かんが=官庁のこと)、学校などに機密文書の焼却を指令した。陸軍省、参謀本部など陸軍中枢機関の所在した市ヶ谷台では数日にわたり、大量の秘密文書が焼却された。この焼却は、陸軍のみならず海軍においても大規模かつ徹底して行われ、ために、多くの貴重な文書が失われ、戦後の陸海軍の歴史研究に重大な支障をきたす結果となった。」
★戦後、自民党代議士になった奥野誠亮元法相が、内務省の官僚だった時に、「公文書焼却の指令書を書いた」と、読売新聞の2015年8月10日付朝刊に書いています。
「『総理(鈴木貫太郎首相)は戦争の終結を固く決意している。ついては内務省で戦争終結処理方針をまとめてもらいたい』。1945年8月10日朝、迫水久常・内閣書記官長から、内務省に極秘の要請があった。そこで灘尾弘吉内務次官の命を受け、内務省地方局戦時業務課の事務官(現在の課長補佐クラス)だった私が、各省の官房長を内務省に集め、終戦に向けた会議をひそかに開いた。(中略)もう一つ決めたことは、
公文署の焼却だ。ポツダム宣言は戦犯の処罰を書いていて、戦犯問題が起きるから、戦犯にかかわる文書は全部焼いちまえ、となったんだ。会議で私が『証拠にされるような公文書は全部焼かせてしまおう』と言った。犯罪人を出さないためにね。会議を終え、公文書焼却の指令書を書いた。ポツダム宣言受諾のラジオ放送が15日にあることも聞いていたので、その前に指令書を発するわけにはいかんが、準備は整っていた。(以下略)」
★阿南陸軍大臣秘書官だった林三郎陸軍大佐は「太平洋戦争陸戦概史」(岩波新書)で、「市ヶ谷台上のパニック」という見出しで次のように書いています。
「8月14日の御前会議で終戦の聖断が下された。陸軍中央部では聖断に従い、皇軍の最後を清くする旨の大臣、総長の訓示があった。しかしながら、市ヶ谷台上(注:陸軍の本拠地)にはあわただしい空気が漂うた。同日夜、台上のあちこちでは終夜、おびただしい書類を手あたり次第に焼いていた。有力な米軍上陸船団が東京湾外にすでに来ているとか、米軍が近く上陸してくるとかのうわさが乱れ飛び、人心を極度にソワソワさせた。そして一種のパニックが起こり、大本営衛兵や陸軍省警備の憲兵からは多数の逃亡者が出た。ここにはしなくも、状況の激変に処してはもろいものを持っている日本陸軍の一面を暴露したのである」
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権力者にとって都合の悪い書類は焼却したり、シュレッダーにかける・・・・今も昔も変わりませんね。
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