北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスに登っていたころの写真記録、国内外の旅行、反戦平和への思いなどを備忘録として載せています。

東京都大田区の戦争②:「軍需工場」とその跡地を追った

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  多摩川土手の花と桜並木 (2021年3月27日撮影)

 

目次

 

 

 

 

軍需工場はいま・・・

都内の4分の1が大田区

 軍需工場(ぐんじゅこうじょう)というのは、戦争のための兵器や航空機、艦船の部品など軍需物資を生産したり修理する、政府が指定した施設のことです。

 

 アジア・太平洋戦争の戦局が悪化の一途をたどる1944年(昭和19年)1月から指定し始めました。

 東京都内ではその年の8月時点で、695工場が指定され、そのうちの172工場が大森・蒲田両区(現在の大田区)だったことが、「極秘」の印が押された軍需省発行の名簿からはっきりしています。

 都内全体の軍需工場の4分の1が現在の大田区に集まっていたのです。

 

 

 

空襲で標的に

 軍に必要な物資を生産する「軍需工場」は、戦争を継続するためには絶対必要な施設です。だから米軍のB29爆撃機による空襲が本格的に始まった1944年から、軍需工場が標的になりました。

  翌1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲からは、米軍の戦略が変わりました。住民を殺戮することを空襲の第一の目的にし、焼夷弾を落として市街地を焼き払い、合わせてそこにある小さな軍需工場も焼こうとしたように見られます。

 

 

 軍需工場の「その後」を調べまし

 

三菱重工業㈱・東京機器製作所

 大田区下丸子の多摩川左岸沿いに、三菱重工の東京機器製作所丸子工場はありました。(当時の住居表示:蒲田区丸子町321)。

 

 中国に駐留していた日本陸軍の「関東軍」が1931年に満州事変を引き起こしたあと、日本陸軍の強い要望で戦車の専門工場になりました。

 

 三菱重工がつくったのは、九七式中戦車(きゅうななしきちゅうせんしゃ)というタイプの戦車。この戦車は、陸軍が主力戦車として敗戦まで使っていました。

 

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 多摩川左岸のサイクリングロードからわき道にちょっと入ったところに、「碑」があります。(上の写真)

 


 スリーダイヤの下に、「丸子工場跡地」と大きな文字で書かれています。

その下には――

三菱重工業株式会社 東京機器製作所 

       昭和14年7月~昭和46年4月

 三菱自動車工業株式会社 トラック事業部 東京自動車製作所

       昭和46年4月~平成13年5月」

と記されています。

 

 

 この三菱重工・丸子工場一帯は1945年(昭和20年)4月から5月にかけての空襲で、大きな被害を受けました。

 

 下丸子生まれの仏文学者・内田樹さんは自身のブログ「内田樹の研究室」で、次のように書いています。

三菱重工日本精工のような巨大な軍需産業の拠点がこの地域にあり、下請けの中小の町工場がそれを取り囲むように下丸子から蒲田に至るエリアに広がっていた。(中略)B29による空襲のかっこうの目標となり、戦争が終わった時には一帯はみごとに破壊し尽くされていた。」

 

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 丸子工場の跡地にはいま、高層マンションが建っています。(上の写真)多摩川土手のサイクリングロードは桜並木になっていて、毎年3月下旬から4月の頭にかけてお花見を楽しむ家族連れでにぎわっています。三菱重工の「碑」に目を止める人はいません。

 

 

 

 

北辰電機製作所

 北辰(ほくしん)電機製作所は、かつて存在した工業計器の専業大手メーカーでした。本社と主力工場が下丸子にありました。

 

 戦時中は航空計器や航海計器を製造していました。ゼロ戦に搭載する燃料計などの計器類は、この会社が製造。潜水艦に搭載する磁気コンパスもすべてこの北辰電機製作所でつくったといいます。

 空襲で下丸子工場は壊滅的打撃を受けました。

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 跡地は現在、キヤノン本社となっています。(上の写真)

 

 

 

中央工業(株)・大森工場

 現在の東邦大学医療センター大森病院近くにあった軍需工場です。

中央工業は、南部麒次郎(なんぶきじろう)という陸軍中将だった人が創設した「南部銃製造所」と、別の銃器製造所2社の計3社が昭和11年(1936年)に合併してできた拳銃つくる会社です。合併当時、大森、国分寺、王子などに事業所があり、全従業員は約2万5000人でした。

 

 3社の合併でできた中央工業㈱は、1937年に日中戦争が始まると、軍部から将校用の軽い拳銃の設計製造の要請が大森工場にありました。三八式(さんぱちしき)歩兵銃や軽機関銃など旧日本軍の小火器も、太平洋戦争が終わるまで製造しました。

 なお、南部麒次郎の自伝には、「大森工場」は「南部工場」と書かれています。

 

 中央工業(株)の大森工場があった場所は、現在の大田区大森西4-18ー16で、300メートルほど離れた帝国女子理学専門学校(東邦大学理学部の前身)の生徒たちが、大森工場に「旋盤工」として1944年8月と1945年1月から勤労動員された、という記録が東邦大学に残っています。

 

 中央工業(株)の大森工場は空襲で甚大な被害を受け、敗戦で閉鎖状態に追い込まれました。

 ところがその後、韓国と北朝鮮に分断された朝鮮半島北朝鮮軍が韓国に攻め入る朝鮮戦争が1950年にぼっ発。日本に駐留していた米軍が朝鮮半島に派遣されたためにそれに代わるものとして警察予備隊自衛隊の前身)が設立されたのを機に、中央工業は中央工業という名称で復活しました。

 

   (写真は、「東邦大学50年史」から引用)

 

 

 「新中央工業」では、日本の警官が今も使っている「ニューナンブM60」という回転式けん銃や自衛隊や米軍の銃器を製造しました。

 その後、1975年7月に日本ミネチュアベアリングに吸収合併され、ミネベア㈱の大森工場として運営されました。

 ミネベア大森工場は、警官用の拳銃防衛省向けの航空機装備品、ロケットの装備品などを生産していましたが、群馬県に新工場を建設して移転。2013年末に大森工場を閉鎖しました。

 

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 跡地には、11階建てのマンションが建っています。

 

 ミネベアはさらに、2017年にミツミ電機経営統合して社名をミネベアミツミに変更しています。

 

 

 

 

 

日本特殊鋼㈱

 この会社は、もう大田区にはありません。

 

  戦時中は、いまの大森東地区に本社と大森工場がありました。敷地は12万平方メートルもありました。

日本特殊鋼㈱の本館

 

本社・大森工場の全景航空写真(昭和35~36年)

 

昭和9年当時の航空写真

 

昭和9年当時の航空写真の説明図

 

 ※上の写真と図は、「みつぼし1976.8.31 日本特殊鋼記念写真集」(昭和51年12月、日特興産㈱発行)がら引用

 

 

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  日本特殊鋼があった場所は、現在の平和島の南で、「平和の森公園の南半分」と「都営住宅」「区営住宅」「都立美原高校」「大森東小学校」「大田区立大森東図書館」のあたりです。戦後、日本特殊鋼の東側の東京湾が埋め立てられて公園や倉庫街になっているため、往時をしのぶことはできません。

 

 

 「存亡――ある名門企業・日本特殊鋼60年の光と影――」(野口幹世・にじゅういち出版」によりますと、

戦時中はゼロ戦に搭載する破壊力の強い「20ミリ機関砲をはじめ、陸・海軍の要請で航空機部品、艦船用タービン翼、機関砲部品、軽装甲車などを開発し、実戦で使われたとのこと。

上の写真は、ゼロ戦に装備された20ミリ機銃1号4型(昭和17年)

 

上の写真は、軽装甲車愛国119(三喜本)

※写真はいずれも「みつぼし1976.8.31 日本特殊鋼記念写真集」から引用

 

 

  また、「日特の今昔を語る」(鬼棒会発行)によりますと、

昭和20年4月15日深夜、大森工場が空襲焼夷弾や爆弾を投下されて被災。兵器工場付近で火災が発生したため、日特社員がポンプを引いて海から水をくもうとしたが、引き潮で水がなく、そうこうするうちにポンプ付近に爆弾が落下して、7人が即死、2人が入院後死亡、3人が重軽傷という悲惨な事態になりました。

 

 日本特殊鋼は1976年(昭和51年)9月、同じ特殊鋼メーカーの大同製鋼、特殊製鋼との3社合併により大同特殊鋼(本社:名古屋市)に生まれ変わりました。

 

 

 

 

 

東京計器製作所

 この会社は戦後、名称を「東京計器」に変更しましたが、戦前から所在地は大田区南蒲田です。

 

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  東京計器・本社ビル

 

 明治時代から航海用の磁気コンパスの生産をしており、日露戦争の時の旗艦「三笠」の司令塔内にも使われました。

 太平洋戦争の時も海軍の戦艦「大和」や「武蔵」に、この会社がつくった磁気コンパスが搭載されました。

 

 空襲で壊滅打撃を受けた後、わずかに残った生産機器を使って鉛筆削りや圧力鍋の製造を開始。圧力鍋には「文化鍋」という名前を付けて、三越松屋松坂屋などで売ったそうです。

 

 

 

 

新潟鐵工所・蒲田工場

 JR蒲田駅から南に少し進み、環八通りを横切った蒲田本町にあった新潟鐵工所・蒲田工場。

 1921年(大正10年)、この地に蒲田工場ができ、日本初の船舶用ディーゼル機関を組み立てました。

 戦時中も、ディーゼル・エンジンを製造するために夜中まで騒音をばらまいていたようです。近くにあった「松竹シネマ蒲田撮影所」が1936年、蒲田から「大船」に引っ越しましたが、引っ越しましたが、その原因は「そばにあった新潟鐵工所など軍需工場が夜中まで出すドカンドカンという音」のために映画の収録の邪魔になったため」だと「松竹」のHPに書かれています。

 この新潟鐵工、1945年(昭和20年)4月15日の空襲で壊滅的な打撃を受けました。

 

 戦後の1976年(昭和51年)に工場は「老朽化」のために閉鎖。跡地はUR都市機構などに売却されました。

 

 その後、1985年の急激な円高から1991年の「バブル崩壊」までの間に、経営の判断ミスがあったのでしょうか。

 2001年11月、業績が悪化して東京地裁会社更生法の適用を申請し、経営破綻したのです。驚きました。

 

 主要な事業は他社に譲渡し、2007年夏、清算業務を終え、解散しました。

 

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 跡地には現在、UR賃貸住宅都立蒲田高校が建っています。団地の植え込みの中に「石碑」が建っています。

 「日本舶用ディーゼル機関発祥之地 株式会社新潟鐵工所」と書かれていますが、気に留める人がいるかどうか。

 

 

 

 

荏原製作所・羽田工場

 ポンプやコンプレッサを製造する大手です。アジア・太平洋戦争の末期には、極秘のうちに日本初のジェット機を試作していました。

 

 以下は、大田区が発行した「大田区史 下巻」からの引用です。

(P586~589)

 

 「昭和20年の初め、荏原製作所羽田工場に海軍から特攻兵器『ネー20』の製造命令が出た。これは航空機のジェット・エンジンの軸流圧縮機で、もともとドイツの戦闘爆撃機に使用されていたものである。海軍はこのエンジンの輸入を企て、潜水艦で運んでいたところ、シンガポールの沖で撃沈されたので、海軍所持のエンジン断面図を頼りに試作しようとしたのであった。試作機を試作中、羽田工場は4月3日に空襲を受け、川崎工場で製作を続けた結果、20年6月に完成した。この圧縮機を乗せたジェット機は『橘花(きっか)』と呼ばれた。第1回の試験飛行は成功したが、8月11日の2回目は離陸後すぐ海に墜落して失敗。ときすでに敗戦の8月15日目前であった」

 

荏原製作所・羽田工場が空襲されたのは、昭和20年4月3日の夜であった。B29は超低空飛行でエンジンを止めて西側から侵入してきた。そして、投下した爆弾がまず、機械工場の真ん中に命中した。機械工場はほとんど壊滅状態になった。(中略)この夜、B29が羽田工場めがけて投下した爆弾は、250キロ爆弾25発であった。このうち構内からそれたものは1発だけで、24発は構内に落ちたのである従業員の約5分の1が、交代で工場に宿直して警戒に当たっていたが、空襲時には全部が地下の防空壕に避難していたので、さいわいにも1人の死傷者もなかった。(『水と空気』)」

 

終戦となってみると、戦争中に特攻兵器をつくっていたことに対し、進駐軍から処罰される恐れがあった。羽田工場の吉村課長は、なんとかして特殊兵器を作っていなかったことにしたいと考えた。そこで海軍の東京監督庁に相談を持ちかけたところ、監督庁では横須賀鎮守府長官と連絡をとって、『荏原羽田工場の特攻兵器の処分は、生産責任者に一任する』と指示してきた。この指定を受けて畠山社長は『ただちに破棄せよ』と命令した。そこで8月18日の夜、闇夜に乗じて8時すぎに羽田の釣り船を3そう雇って、特殊潜航艇の魚雷発射管を捨てに行った。8月18日にはすでに、米軍のグラマン戦闘機が東京上空に乱舞していたので、もし見つかると機銃掃射を受ける危険があった。捨てに行く人を頼むのに苦労したが、結局、製缶工場の工員にたばこの特配をして引き受けてもらった。(『水と空気』)」

 

 なお、荏原製作所のホームページの会社沿革では、戦時中のことには触れていません。

 荏原製作所は2007年、大田区羽田旭町の羽田工場跡地を、ヤマト運輸に売却しました。

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 ヤマト運輸は2013年からここに、物流ターミナル「羽田クロノゲート」を設置しています。

 

 

 

 

東洋オーチス・エレベーター㈱(現在の「日本オーチス・エレベータ」の前身の1つ)

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 「東洋オーチス・エレベーター」の蒲田工場があった場所。

 

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 工場が当地にあったことを記念する石碑。

 

 アメリカのエレベーター製造会社オーチス社が、日本国内に「東洋オーチス・エレベーター㈱」という名前のエレベーター専門会社を設立したのは、満州事変の翌年の昭和7年(1932年)でした。

 蒲田工場現在の大田区仲六郷1丁目に完成したのは昭和8年(1933年)4月で、国産のエレベーター第1号は静岡赤十字病院に設けられました。

 

 昭和16年(1941年)に太平洋戦争が始まると、「敵性語」にあたる英語を排斥する機運が高まったため社名を「東洋昇降機株式会社」に変更。

 

 さらに海軍と軍需省からは軍需工場に指定され、空母の甲板への載機の昇降用エレベーターを製造しました。

 

 昭和20年(1945年)4月の米軍機B29による空襲で、蒲田工場は全焼しました。

 その直後、特殊潜航艇という魚雷攻撃を行う小型潜水艦の「潜望鏡」60本の注文があったために、焼け残った機械で動員学徒の手を借り、連夜の徹夜作業で製作に当たりました。

 

 蒲田工場は戦後の昭和59年(1984年)に千葉県芝山町に移転しました。

 その工場跡地に昭和61年(1986年)5月、9階建ての大規模マンションが建った際に、敷地内の植え込みに、工場があったことを記念する石碑が建ちました。

 

 

 

 

宮田製作所 (現在の「モリタ宮田工業」の前身の1つ)

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 現在の東京都立六郷工科高校付近に宮田製作所の本社工場がありました。

 

 

 宮田製作所は昭和5年(1930年)、当時の東京市蒲田区東六郷2-19に、本社と本社工場を新築した自転車メーカーです。明治時代から自転車の製造・販売をしてきました。現在の都立六郷工科高校付近です。

 

 満州事変のあとの昭和7年(1932年)から陸軍の注文で蒲田工場の設備の一部を使って航空機の車輪の生産を始めました。その後、生産量が増えたため千葉県大多喜町大多喜工場を建てて自転車部門をそこに移しました。

 

 昭和16年に太平洋戦争が始まると海軍と軍需省から軍需工場に指定され、零式艦上戦闘機(=ゼロ戦)の脚の車輪部分の生産を始めました

 

 また、自転車の生産を続けていた大多喜工場では、陸軍の要請で、落下傘部隊用の折りたたみ自転車を製造して納入しています。

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  軍用の折りたたみ自転車(いずれの写真も『宮田製作所七十年史』から引用)

 

 宮田製作所は昭和18年には長野県松本市にも1万5000坪の用地を確保し、15種類にも及ぶ戦闘機や爆撃機の車輪の量産工場を建設しました。

 

 

 

 

 

日本酸素 (現在の「日本酸素ホールディングス」の前身の1つ)

 日本酸素は昭和7年(1932年)秋、海軍艦政本部から「魚雷用の酸素製造装置」を極秘のうちに製作するよう依頼されました。

 「艦政本部から声がかかって(略)行ってみますと、(略)海軍の攻撃兵器の製作に協力せよとの話でした。(略)その時は酸素と魚雷とどんな関係にあるのか、何もわからず、説明によれば、普通、魚雷は圧縮空気と液体燃料と水で小さなエンジンを動かして水中を走るが、❝圧縮酸素❞を使用すれば従来のように海面にチッソによる泡が出ず、航跡が不明となり、しかも航続距離が5倍にも延びるという特長がある、との話でした。」(『日本酸素50年史』)

 

 艦政本部からの注文が増えるに従い、昭和9年(1934年)5月、蒲田区丸子町に蒲田工場を新設しました。

 

 

 

 

電業社原動機製造所 (現在の「電業社機械製作所」の前身)

 「昭和13年(1938年)5月、糀谷の蒲田工場の隣接地2030余坪に兵器専門工場を建設し、大型爆弾の弾体の加工製作に着手した。」(『大田区史 下巻』)

 

 

 

 

 

日立航空機・羽田工場

(詳しい所在地不明)

 日立航空機日立製作所の航空部門が昭和14年(1939年)に分利独立してできた会社。

 戦闘機や爆撃機ではなく、「赤トンボ」と呼ばれた機体がオレンジ色の海軍の練習機と、そのエンジンの製造が主でした。製造工場は羽田や千葉にありました。

 

 この羽田工場に、帝国女子理学専門学校(東邦大学理学部の前身)の2年生が、昭和19年(1944年)から終戦まで勤労動員され、「赤トンボ」(正式名:九三式中間練習機)の木の骨組みに帆布をはる仕事をしていた、という記録が東邦大に残っています。

 

 羽田工場で修理された「赤トンボ」に若い兵隊が搭乗して、戦争が終わる直前の1945年7月に神風特別攻撃隊として沖縄本島を攻撃中の米艦隊に立ち向かったという事実もあります。

 

 

 

 

 

大倉陶園

 洋食器や美術的価値の高い陶磁器の製造・販売で知られる(株)大倉陶園東京市蒲田区で大正8年(1919年)に創業しました。

 この工場が現在のJR京浜東北線蒲田駅の蒲田操車場(旧蒲田電車区)の隣にありました。

 

 「大田区史 下巻」に次のような記述があります。

 「大倉陶園の『五十年譜』の昭和20年のページには、磁製手りゅう弾の写真の下に『磁製手りゅう弾、航空計器用濾筒などを作っているうちに、空襲で工場を全焼した。時に4月15日』と書かれている」

 

 太平洋戦争末期には、手りゅう弾を作るための「金属」が乏しくなったために、陶器や磁器で手りゅう弾を作っていたんですね

 沖縄の壕で今も発見されます。

 

 大倉陶園のように軍需産業とは直接関係のない事業所も、ひとたび戦争が起こると、有無を言わさず戦時体制に組み込まれるんですね。

 

 戦後、大倉陶園は横浜に移転。跡地は、大田区立志茂田中学校、志茂田中学校、ラヴィドライビングノスクールなどとなっています。

 

 

 

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【追記:2021年12月30日】 『大田区史 下巻』(平成8年発行)を参考に事例を加えました

 防衛研究所図書館所蔵「主要軍需品製造施設一覧表(昭和20年8月15日現在)」からの引用です。

 

 文中の一部に出てくる「蒲田区」と「大森区」は戦後の昭和22年に合併して大田区になっています。

 

 

 

富岡光学機械製造所

所在地:大森区雪ヶ谷町929

生産品目:一〇〇式照準眼鏡、九七式車載重機関銃眼鏡、八九式双眼鏡ほか

被災状況:70%

(メモ)

戦後、社名を「富岡光学器械製造所」「京セラオプテック」と相次いで変え、2018年に京セラに吸収合併されて解散した。

 

 

 

 

東亜冶金㈱

所在地:蒲田区東六郷212

生産品目:タングステンモリブデン

被災状況:100%焼失

(メモ)「埼玉県片山村に疎開」との記載あり。

 

 

 

 

東京無線電機㈱・下丸子工場 (現在の三桂製作所の前身)

所在地:蒲田区下丸子313

生産品目:九六式三号乙無線機ほか

被災状況:20%被災

(メモ)

 (株)三桂製作所のHPによると、「東京無線電機株式会社」の設立は1922年(大正11年)。総合商社の源流として知られる「鈴木商店」の関連会社として、長年にわたって電気通信機器の開発・製造を担ってきた。戦後の1958年(昭和33年)に現在の社名(=三桂製作所)に変更した。

 鈴木商店記念館HPによると、東京無線電機は拡声器メーカーとして知られており、第二次世界大戦(1939~1945)前は、国民型ラジオ受信機メーカーの一社でもあった。太平洋戦争中は軍需工場として、従業員5000人、勤労奉仕員2000人の規模で操業していた。

 

 

 

 

㈱光精機製作所

所在地:蒲田区糀谷町41962

生産品目:30年式銃剣ほか

被災状況:2%焼失

 

 

 

 

富士写真光機㈱・蒲田工場

所在地:蒲田区古市町980

生産品目:八九式十センチ双眼鏡

被災状況:100%焼失

「4月16日焼失其ノ機械修理可能ナルモノハ大宮・目黒工場ニ運搬」との記載あり

(メモ)

太平洋戦争中の昭和19年(1944年)3月に、いまの富士フイルムの傘下に入り、陸軍の要請で主に双眼鏡を製造していた。戦後、大宮工場だけ残して資産を売却した。富士写真光機は2004年から社名を「フジノン」に変更。2010年に親会社の富士フイルムに統合された。

 

 

 

 

アジアケルメット製作所・蒲田工場

所在地:蒲田区矢口町828

生産品目:舟艇及び車両部品

被災状況:6月25日全焼 機械製品100%焼失

(メモ)

大同メタル工業(本社:名古屋)が1971年にアジアケルメット製作所の株式を取得し、連結子会社にしている。

 

 

 

 

萱場製作所・大森工場

所在地:大森区上池上町655

生産品目:航空機部品

被災状況:5月23日 70%焼失

(メモ)

萱場製作所は、各種油圧システム製品を製造するKYB㈱の戦前の名称。創業者は戦前の1927年に、海軍からの注文で、海軍機用の油圧緩衝脚を開発。それまでは航空機には「緩衝脚」がないために、着陸時にバウンドが激しかったが、油圧技術を応用することによってバウンドがなくなり、空母に安全に着艦できるようになった。太平洋戦争が始まると、陸海軍から増産命令が出て、東京に滝野川製造所と大森製造所を開設した。

 

 

国華工業㈱・蒲田工場

所在地:蒲田区南六郷

生産品目:95式折りたたみ舟

被災状況:100%焼失

「目下生産不可能」のメモ

 

 

沢藤電機㈱赤井工場

所在地:蒲田区糀谷町3883

生産品目:電機器及び部品

 

 

羽田精機㈱・羽田工場

所在地:蒲田区糀谷町51222

生産品目:砲弾加工、信管回しほか

 

 

中央工業㈱・六郷工場

所在地:蒲田区古川町253

生産品目:(空欄)

被災状況:100%焼失

「戦災ニヨリ完全ニ焼失ス」との記載あり。

(メモ)

「大森工場」については別稿あり

 

 

理研発条工業㈱蒲田工場

所在地:蒲田区矢口町791

生産品目:八八式七センチ野戦高射砲バネ

被災状況:なし

 

 

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