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アジア太平洋戦争が終わった後の東京裁判(極東国際軍事裁判)で、死刑判決がくだされたA級戦犯7人の遺骨が太平洋に散骨されていた・・・という2021年6月7日付の新聞の朝刊。共同通信社が全国の新聞社・放送局に配信した特ダネですが、衝撃が走りました。
大学の先生が米国で見つけた古い公文書の中に、A級戦犯の遺骨処理が詳しく書かれていた、というのですが、
「あれっ?」と思ったのは、愛知県の三ヶ根山(さんがねさん)にA級戦犯の墓があるけど、じゃあ、あれは何なの?という疑問。
米軍の公文書の内容が事実だとすると、太平洋に散骨した理由は、戦犯の遺骨がのちの世で英雄視され、崇拝の対象になることをGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が恐れたからでしょうか。
A級戦犯の死刑が執行された巣鴨プリズンがあったところは、いまどうなっているんだろうと興味がわき、初めて出かけてみました。
処刑場だったところに石碑
「サンシャイン60ビル」の手前の林が東池袋中央公園。
目指したところは、東京・東池袋の「サンシャインシティ」と、その隣にある豊島区立東池袋中央公園です。そこにはかつて、巣鴨プリズンがありました。
巣鴨プリズンの敷地の中には、五基の死刑台から成る特設の処刑場がありました。
1948年12月23日、東京裁判で死刑判決を受けた東条英機・元首相ら7人のA級戦犯の絞首刑が執行されました。
東池袋中央公園は、高さが240㍍もある超高層の「サンシャイン60ビル」の
足もとにあります。
一見、雑木林ですね。
石碑は、公園の片隅の、昼間でも薄暗いスペースにありました。(上の写真)
公園入口の案内板(上の写真)には、石碑の位置(左上)は「H 碑」とだけ書いてあります。この案内板を見なければ、石碑の位置は分かりません 。
石碑です。
おむすび型の石が置かれている場所は、巣鴨プリズンの処刑場があった位置です。
石は、高さ1.6㍍、横幅2.5㍍、厚さ60㌢ほどです。
正面には“永久平和を願って”という文字が刻まれていました。
「平和の碑」という扱いの「鎮魂の碑」でしょう。
石碑の裏面は、次のように書かれています。
第二次世界大戦後、東京市谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。
戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する。 昭和五十五年六月
ここを訪れた6月8日、中年の男性が石碑近くまでオートバイで乗り付け、5分ほど石碑に向きあっていました。
時々、訪問者があるようです。
A級戦犯とは何ですか? BC級戦犯もあるの?
戦犯とは?
戦犯というのは何でしょう。
アジア太平洋戦争の戦勝国となった連合国は、極東国際軍事裁判所条例を1946年に公布して、「戦争犯罪」を、従来からの戦争犯罪のほか、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」という罪名を新しく設け、A、B、Cの3つのカテゴリーに分けました。
A級戦犯は新しくつくられた「平和に対する罪」
3つのカテゴリーのうちのA項は、「平和に対する罪」(侵略戦争を計画、遂行または謀議に参加したこと)。
B項は「通例の戦争犯罪」(捕虜虐待、集団殺害、強姦、略奪など)、C項は「人道に対する罪」(一般国民への非人道的な行為の禁止)。
各項目の該当者を「A級戦犯」、B級とC級は区分しにくいので「BC級戦犯」と呼びました。
巣鴨プリズンとは?
東池袋には戦時中、東京拘置所がありました。ところが戦後の1945年11月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が戦犯容疑者を収容するために、ここを接収。「巣鴨プリズン」と呼ぶようになったのです。
東京裁判の結果は?
A級戦犯で7人が死刑
「A級戦犯」は、連合国が戦争後に新設した「平和に対する罪」に問われた戦争犯罪人でした。
A級戦犯の容疑者として100人以上が逮捕され、このうち28人がA級戦犯として起訴されました。
東京裁判は1946年5月から東京・市ヶ谷の旧陸軍士官学校で開かれ、裁判中に死亡したり精神障害のために基礎を取り消された3人を除いて、被告人全員が有罪とされました。このうち、
東条英機・元首相
広田弘毅・元首相
板垣征四郎・元陸軍大将
土肥原賢二・元陸軍大将
木村兵太郎・元陸軍大将
松井石根・元陸軍大将
武藤章・元陸軍中将
の7人が絞首刑になりました。いずれも開戦時に日本の指導的立場にあった人物です。
ほかに終身禁固刑16人、有期禁固刑2人でした。
見つかった遺骨処理方法の記載文書
「東京新聞」6月7日付朝刊1面。
A級戦犯の7人は、1948年12月23日に巣鴨プリズンで処刑されました。
その後の経緯は、日本大学の高澤弘明専任講師が米国立公文書館で手に入れた2種類の極秘文書で詳しく分かりました。
死刑執行に立ち会った米軍少佐が記した「戦争犯罪人の処刑と遺体の最終処分に関する詳細報告」によると、概略以下のようです。(「東京新聞」より引用)
【死刑執行】
1948年12月23日午前0時すぎ、巣鴨プリズンで7人の死刑執行、米第8軍の将校としてルーサー・フライアーソン少佐が立ち会い、遺体から採取した指紋を所定の用紙2部に登録した。
【巣鴨プリズン出発】
遺体は木製のひつぎに入れ、2.5トンの輸送トラックに乗せた。午前2時10分、4台の車列で巣鴨プリズンを出発。1台目に巣鴨プリズンの将校1人と下士官兵3人が乗車。2台目が遺体を乗せたトラックで、3台目に12人の下士官兵が乗車。4台目に少佐や、将校と下士官兵が各1人乗った。
【横浜へ】
午前3時40分、米軍の第108墓地登録小隊に到着。遺体を乗せたトラックは自動車修理棟へ入り、遺体を最終確認し、ひつぎのふたをくぎで厳重に打った。
【火葬】
午前7時25分、同小隊から4台の車列で出発。同7時55分、火葬場に到着。同8時5分までに遺体を炉に入れた。少佐が遺骨を骨つぼに個別に回収。
【散骨】
米第8軍の滑走路から操縦士と少佐が連絡機に乗り、
横浜の東の太平洋上空を約30マイル(48キロ)地点まで進み、
少佐が広範囲に遺骨をまいた。
A級戦犯の墓地(愛知県・三ヶ根山)
愛知県の三河湾を望む三ヶ根山(さんがねさん)に、死刑を執行された7人をまつっている「殉国七士廟」があります。ここに遺骨が埋まっているとされています。
関係団体のHPやブログには、遺骨を手に入れた経緯が、概略次のように紹介されています。
A級戦犯の遺骨をひそかに火葬場から持ち出したのは、戦犯容疑者の弁護人の一人だった。この弁護人は遺骨だけでも家族に渡したいとの一念から、火葬場のある横浜市久保山の寺の住職に相談を持ち掛け、火葬場の場長の協力を得ることにも成功した。
12月23日午前、火葬場で場長と3人の職員は米兵の監視の目を盗んで、7人の遺骨を7つの骨つぼに収めることに成功するものの、場長が隠した場所で香をたいたため、においを不審に思った米兵に見つかり、没収された。
しかし、その時は遺骨本体を既にトラックに積み込んだ後だったため、米兵は面倒と思ったのか、奪取した7人の遺骨を全部一緒に混ぜ、火葬場内の共同骨捨て場に遺棄して帰った。
弁護人は、この報告を聞いてもあきらめず、25日ごろの深夜、黒装束で身を固め、住職とともに火葬場長の案内で火葬場に忍び込んだ。骨捨て場の穴は深いため、火かき棒の先に空き缶を結び付け、なんとか遺骨をすくい取ることに成功。普通の骨つぼ1個にほぼいっぱい拾い上げて、ひそかに持ち帰った。
奪取した遺骨は遺族の意思で一時、伊豆の山中にひそかに隠されたが、その後、三ヶ根山頂に建立された墓碑に安置された。
BC級戦犯のこと
「戦争」にもルールがあるようです。ちょっと意外ですが。
戦争は政治の延長線上の行為であって絶滅させるのは難しい、という考え方に基づいて、戦時に敵を殺すことは正当な行為ではあっても、なるべく残虐な行為はやめよう、というルールです。「戦時国際法」という取り決めです。
「ハーグ陸戦法規」とか「ジュネーブ条約」という申し合わせがあって、「捕虜の虐待禁止」「毒ガス兵器の使用禁止」など盛られています。
こうした「従来の国際法」に違反した時に罰せられるのがBC級戦犯です。
BC級戦犯の裁判は、日本軍が侵略したアジア各国と横浜の計49ヶ所で、2244件行われました。死刑判決も934人が受けました。
このうち横浜の法廷で死刑判決が下されたBC級戦犯は、巣鴨プリズンで刑が執行されています。
暗い時代でした。
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