白馬大雪渓の上部 (2021年7月16日午前5時45分、白馬山荘から撮影)
目次
2021年7月16日は、北アルプス・白馬岳(しろうまだけ)から白馬大池(はくばおおいけ)を経て栂池(つがいけ)自然園まで、展望の開けた稜線をゆったり下るルートを歩きました。
上の2万5千分の1の地形図の左下が、白馬岳山頂。右上方向に歩きました。
おはようございます 朝焼けの空
白馬岳(標高2932㍍)山頂直下の白馬山荘(はくばさんそう)で朝を迎えました。
きのうの夕方、急に激しく降った雨はすっかりあがっていました。上空に高気圧が張り出してきたようです。
日の出を見ようと午前4時すぎ、山頂に向かい、標高差100㍍を10分あまりで登りました。
午前4時34分、東の空の雲がオレンジ色に染まり、朝焼けが始まりました。
1分後、はるかかなたの山の向こうから、太陽が顔を見せ始めました。
新潟県の妙高山(右側の山)と火打山(中央の山)の間からの日の出ですね。
白馬岳から西南方向にある毛勝三山(けかちさんざん)の上に、山の形の影・・・。太陽の光が唐松岳(からまつだけ)に当たって、唐松岳の山体が“ガスのスクリーン”に映し出されたのでしょうか。日の出が醸し出す芸術作品・・・。
(午前4時44分撮影)
白馬岳山頂 (午前4時45分撮影)
白馬岳山頂からの山並み・・・
右から、とがったのが剱岳(つるぎだけ)、別山(べっさん)、立山(たてやま)
(午前4時56分撮影)
白馬山荘の朝ごはん。1泊2食(大部屋)で1万2000円。
まあ、そんなもんでしょうか。
白馬山荘の前から、よくながめたら、槍ヶ岳(やりがたけ)が見えました(左端のとがった山)。
梅雨明けまぎわに3、4日続いた雷雨で、大気中のゴミが落ちてきれいになったんでしょう。小屋番の方も「こんなに遠くまでよく見えるのは、7月に小屋の営業を始めてから初めてですよ」。
これは白馬山荘より標高で100㍍高い白馬岳山頂からみた景色ですが、
左端の高い山が前穂高岳のピークです。
白馬山荘から見下ろした大雪渓です。
白馬山荘から見た杓子岳(しゃくしだけ=左)と白馬鑓ヶ岳(はくばやりがたけ=写真中央)。これに白馬岳を加えて「白馬三山(しろうまさんざん)」と呼んでいます。
午前6時45分、白馬山荘を出発。
午前6時50分、松沢貞逸(ていいつ)氏のレリーフ前通過。
白馬山荘から白馬岳山頂への登山道から、右の脇道に少し入ったところに建っているのがこのレリーフの像。 松沢氏は白馬山荘の創始者。明治時代に白馬岳頂上直下にあった測量用の石堂を使う権利を取得して、日本で最初の山小屋営業を始めたそうです。
白馬岳の山頂の≪風景指示盤≫の話
午前7時、白馬岳山頂。
白馬岳山頂に、石灯籠のような建築物があります。多くの登山者が記念写真を撮る場所です。
一番上に花崗岩の円盤が載っていて、銅板レリーフで展望図が描かれています。(よく分かりませんが)
銅板のレリーフ。
この花崗岩の塊は、風景指示盤という名前が付けられていて、
国立公園協会が読売新聞社の寄贈によって設置したものなのです。
支柱部分に「昭和15年」「国立公園協会建之」と刻まれています。
担ぎ上げたのは小見山正さん
ただ、この標高3000メートル近い山頂に、大雪渓を通って担ぎ上げたのは、
読売さんの社員でもヘリコプターでもなく、小見山正さんという、
当時、富士山測候所の強力(ごうりき)をしていた個人です。
「強力(ごうりき」というのは、山に登る人の荷物を背負って、山を案内したりする人のことです。
現在は歩荷(ぼっか)という言い方がふつうで、山小屋に食料や飲料水を背負って登山道を自分の足で歩いて登る人です。
小見山さんは、アジア・太平洋戦争が始まる直前の昭和16年(1941年)夏、地元の鹿野さんという山案内人の協力で、花崗岩の塊を背負って、二股(=現在の白馬駅と猿倉荘の中間地点)から白馬岳山頂まで、1ヶ月かけて運びました。
運び上げた花崗岩は、
「(風景指示盤の)台石になる3つの平らな石の上に、胴体となる2つの石が積み上げられ、その上に2つの笠石が置かれて、組み立てを完了すると、ちょうど石灯籠のような形になり・・・」「(小見山さんは)1つひとつ石を動かしてみていたが、手加減で台石、笠石はいずれも動かしてみても20貫(=75㌔)は優にあり、胴体の2つの石はなるほど50貫(=187.5㌔)は確かにあった」
小見山さんは、50貫(187.5㌔)の臼のような花崗岩を背負子(しょいこ)にくくり付けて、2つを山頂に担ぎ上げたのです。
大雪渓をジグザグに登山して、休憩場所まで1つ上げたら、また少し下に戻って別のもう1つを休憩場所まで交互に担ぎ上げるという方法でした。
鹿野案内人も笠石などを1つずつ背負って担ぎ上げました。
小見山さんは最後の石を白馬岳山頂に降ろした時、崖っぷちで「血のように赤い小水」をしたそうです。
山頂では、信濃大町の石屋が、風景指示盤の組み立てを2日間かけて行いました。
2年後に亡くなる
新田次郎の小説「強力伝」の主人公は、小見山正さんをモデルに書いた実話です。
小説では触れていませんが、小見山さんは担ぎ上げた2年後、亡くなりました。
命がけの仕事でした。
上の写真は、昭和16年(1941年)10月、風景指示盤の落成式。右から3番目の読売新聞社旗を持っている人物が「強力伝」の作中人物・小宮のモデルとなった
小見山正さん。当時40歳。風景指示板の胴体には、「読売新聞社寄贈」と刻みこまれているのが分かる。【「強力伝——二十世紀最後の職人の魂——」(小学館)から引用】
小見山さんは、「強力伝」の著者、新田次郎が富士山観測所に勤務していたころに知り合った人で、御殿場の強力の中でも抜群の力持ち。観測所の交代員が登下山する際に、荷物を背負い、頂上滞在中には炊事や雑務を引き受けるなどした。働き者で「コミさん」という愛称で親しまれていた。彼は風景指示盤の石を白馬岳に上げた2年後に、体をこわし亡くなった。箱根・金時山の山頂で茶屋を営んでいた。(上記図書の注釈)
富山湾が見えます。その向こうに横たわっているのは能登半島。白馬岳山頂から少し北に進んだ地点からの景色です。 (午前7時38分撮影)
こちらは富士山です。(午前7時54分撮影)
富士山の前景は南八ヶ岳で、
右から左に編笠山、権現山、阿弥陀岳、赤岳、横岳、硫黄岳と続く。
午前8時15分、三国境(さんごくざかい)通過。
白馬岳山頂から1時間近く進むと三国境にさしかかります。ここは2つの稜線が並行して走る二重山稜になっています。珍しい地形です。
登山道は、写真左下のルートです。
ここが三国境。長野、富山、新潟3県の境。指導標がありました。ここを左に進めば、その先は雪倉岳から栂海(つがみ)新道に入って親不知・・日本海です。
うしろは、白馬岳。 (午前9時撮影)
白馬大池は絵になる景色!
午前9時20分、小蓮華山(これんげさん)(標高2766㍍)の山頂に付きました。
山頂に「鉄剣」が立っており、このあたりが信仰の対象になっていたことをうかがわせます。昔はここに、石仏をまつったホコラがあったそうです。
午前9時34分、小蓮華山に着いた時、ガスってはいましたが白馬大池が見えました。「いや~、きれいだなあ」と感動しました。
北アルプスに限りませんが、夏の高い山は午前9時近くになると、ふもとの街から暖かい空気が山の斜面を登ってきて、上空で冷やされて雲になってしまいます。写真を撮りづらくなります。
振り向いて白馬岳の左側の山並みを眺めると、鹿島槍ヶ岳の双耳峰が目に入りました。好きな山で、体力が十分だった20年以上前、5回通過しました。懐かしい。
(午前9時55分撮影)
午前10時34分、船越の頭。
白馬大池です。
午前11時25分、白馬大池山荘のテント場。
白馬大池山荘です。
「何か、食べること、できますか?」「はい、チャーハンですが」「ほかには?」「カップ麺ですが・・・。豚汁もありますよ、本日限定で。200円です」。
そんなやり取りをお姉さんとやって、昼飯です。
チャーハン800円、豚肉の切れ端が入った味噌汁200円で、計1000円でした。
午後零時25分、白馬乗鞍岳の山頂ケルンを通過。
白馬乗鞍岳の下りにも雪渓あり。ルートにはロープが目印に垂らされていました。滑落する人もいるでしょう。チェンスパイクを着けました。軽アイゼンの人が多いです。
午後2時、天狗原(てんぐっぱら)通過。
午後3時、入浴できる「栂池ヒュッテ」に到着。
ここからはロープウエイとゴンドラリフト利用で、1時間足らずで栂池高原バス停に着きますが、臭いシャツのまま特急「あずさ」に乗り込むのも非常識ですので、もう1泊しました。
夕食。ぜいたくです。いつものテント泊での粗食とは、比べものになりません。
7月17日の朝食。ごちそうさまでした。
次回は、
白馬岳~③ライチョウの砂浴びを見た