内務省警保局検閲課長名で全国警察の検閲責任者に情報統制を指示していたことを示す極秘文書(国立公文書館所蔵)
今から70年以上も前ですが、日本はアメリカなどを相手に太平洋戦争(1941年~1945年)を起こしていました。その最中に発生した東南海地震と三河(みかわ)地震という2つの地震で、3000人以上が家屋倒壊や津波で亡くなりましたが、政府や軍による検閲で、新聞やラジオ(当時はテレビ・インターネットはありません)は情報統制されました。
被害の実態が「数字」で整理されたのは、ビックリすることに地震発生から30年以上も経った1970年代でした。
目次
地元紙・中日新聞はきちんと報道したか?
被害を報道していない
青色の円が東南海地震と三河地震の震源域。(政府の地震研究推進本部HPからの引用)
ここからは、愛知、岐阜、三重の東海3県と静岡県浜松地方で圧倒的な販売部数を誇る「中部日本新聞」(「中日新聞」に題号を1965年から変更)の紙面を点検します。
紙面を写した以下の写真は、「中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会報告書」からの引用です。
【1944年12月8日付】
東南海地震の翌日12月8日付の「中部日本新聞」です。3ページ目の下の方に、「天災にひるまず復旧 震源地点は遠州灘」と、わずか2段の見出しで控えめに扱っています。(太線で囲んだ部分です)
この12月8日という日は、3回目の太平洋戦争開戦記念日。紙面(全4ページ)の1ページ目には、昭和天皇が軍服姿て立っている姿を載せていました。
【1944年12月9日付】
震災翌々日の9日付紙面は、2ページ目に震災関連記事を3本、載せています。見出しはいずれも3段で、「家はなくとも身体あり この意気が勝利の力」「震災は天の試練 隣人愛に明るき復旧」「自宅倒壊にも帰らず 生産死守、職場の挺身」といった軍国調の叱咤激励記事です。
【1945年1月14日付】
「三河地震」では死者2306人を数えましたが、発生翌日の1945年1月14日付の新聞はどうだったか。
2ページ目で震災に触れています。見出しは「どんな天災事変にも 慌てて灯火をもらすな」「再度の震災も何ぞ 試練に固む特攻魂 敵機頭上、たくましき復讐」といった国威発揚に関する記事が載っています。
地震被害の詳しい報道はありません。
【1945年1月15日付】
震災3日目の新聞は、「傾く軒を神風鉢巻 産業戦士も慄然出動 特攻魂で震禍を克服」「三十二里を走破 震禍を挺身伝令 殊勲の2少年工を表彰」「震禍に護る疎開児 教員、寮母四名尊き殉職」と、おどろおどろしい表現で美談を掲載しています。
【1945年1月20日付】
震源地を調べるため、中部日本新聞社が大学教授らによる調査団を被災地に派遣する、という記事が載りました。
【1945年1月23日付】
このように「地震」には触れましたが、地震による「被害」がどうだったのか詳しく新聞に載ることはありませんでした。
三河地震の場合、辺地といえる渥美半島の先端の、私の母の集落での出来事は、
「福江町の死者1、負傷者3、住家全壊47、住家半壊327」と、数字が歴史上、記録されただけでした。
中央防災会議の専門調査会は次のように「まとめ」を書いています。
「震災報道は、戦時報道管制下において、特に被害について正確・詳細に報道することはなかった。しかし、震災報道自体を隠したり、取りやめたりしたわけではなく、被災者の生活再建を支援するための物資配給・住家対策・租税減免などといった被災者への生活支援情報については、詳細に報道していることがわかった。」
ネックになった政府と軍による「検閲」
なぜ、被害を報道していなかったのでしょうか。
太平洋戦争が始まると、内閣直属の情報局が新聞社と通信社に対し、「大本営の許可したもの以外の戦況報道は禁止」「日本軍に不利な事項の新聞掲載禁止」を命じたのですね。
これを受けて、在京の新聞社の場合、掲載予定の記事(ゲラ刷り)と写真を、内務省警保局検閲課新聞検閲係、それに大本営陸軍部と海軍部のそれぞれの報道部に、オートバイで届けて事前に検閲を受け、許可を得てから報道したのです。
新聞は「大本営発表」を主に書くだけで、軍の宣伝組織にガッチリ組み込まれていて、軍部と新聞社は一心同体だったんですね。
政府が情報統制していた証拠
内務省の新聞検閲係が書いていた「勤務日誌」が、国立公文書館に1冊だけ保管されています。「極秘」の印が押されています。
政府や軍は敗戦直後、機密文書をことごとく焼却していますが、奇跡的に残っていたものです。
この記述の中に、興味深いことがいくつか記されていました。
東南海地震の発生当日、1944年12月7日の勤務日誌です。
検閲の担当者は、「全国主要日刊(新聞)社、主要通信社」に対して、電話で次のように被災状況の報道について注意事項を「通達」しています。
①災害状況は誇大刺激的に扱わないこと
②軍の施設・軍需工場・鉄道・港湾・通信・船舶の被害など戦力低下を推知させるような事項を掲載しないこと
③被害程度は当局発表、もしくは記事資料を扱うこと
④災害現場写真は掲載しないこと
⑤軍隊出動の記事は掲載しないこと
⑥名古屋、静岡など重要都市が被災の中心地あるいは被害が甚大であるような取り扱いをしないこと
さらに、同様の内容を「東京都と東海・近畿の各府県」「東京6社」に通達しています。
12月7日の「大本営発表」の勇ましい記事も、勤務日誌に貼られています。
震災翌日の12月8日の勤務日誌です。
「各庁府県」に対して、電話で「震災に関する記事取り締まり要領」を通牒しています。
「各庁府県」というのは、
警視庁特別高等警察部長
大阪府警察局治安部長
各県警察部長
を指しています。
「特別高等警察」というのは、略称「特高(とっこう」と言って、天皇制に批判的な思想を取り締まる治安維持法に基づいて、主に共産党員を摘発する部門です。
警視庁は特高部の中に、また大阪府警察局は治安部の中に特高課や検閲課があり、その他の道府県は警察部特高課の中に検閲係がありました。
特高は戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令で解体されました。
さて、東南海地震発生翌日の12月8日の内務省検閲課からの都道府県警察への通牒内容ですが、
①取り締まり方針は、昨日(12月7日)連絡した注意事項によること
②事前検閲を励行すること
③被害程度の数字に関する発表は留保すること
④被害状況の報道は単に被害の事実のみの報道にとどまらずに、復旧・救護などの活動状況を主とし、あわせて被害の事実を報道させるように指導すること
⑤(昨日の)記事取扱注意事項第2項に示した各種施設の被害については、引き続き一切掲載させないこと
などです。
中日新聞社の「社史」にみる見解
中日新聞社の「創業百年史」(1987年8月発行)をのぞいてみますと、東南海地震と三河地震の報道について、次のように総括しています。
「(2つの地震を合わせて)死者3529人、負傷者6800人、住宅などの全半壊14万4000戸という大被害をもたらした巨大地震であったが、厳しい検閲は、被害の状況を詳細に報道することを許さなかった。」
「三河地震の場合も、規模、被害状況などはほとんど報道できず、気象台の抽象的発表と各地防衛隊の戦友愛などを強調した記事となった。(中略)。三河地震から8日後の(1945年1月)21日、本社では急きょ、宮部直巳名大教授を中心とする学術調査団を震源地とみられる三ヶ根山付近へ派遣、(中略)23日付紙面で調査報告を報道、被害や震度などには触れえなかったものの、読者の動揺を鎮めるのに大きな効果を上げた。」と、自賛しています。
「隠された地震」から学びとるもの
70年以上も前の出来事ですが、なにか感じるものはあるでしょうか。
真っ先に思うのは、「本当のことを伝えるな」とか、「言われてことだけをやればよい」なんて言われたら、いまは反発するでしょうね。大事なことは「個人が尊重」され「表現の自由」が保障されて、情報は公開するということでしょうか。
東南海地震、三河地震の時に大勢が建物の下敷きで死んでも、救援はなかったでしょう。情報統制で。助かる命があったでしょうに。
もう1つ思うことは、コロナ禍で今、憲法が国民に保障している自由と権利を規制する動きがありますが、これには敏感であれ、ということです。
「外出自粛要請」がその1つです。行動の自由に抵触する話です。
「コロナ」の場合、無症状者がいて誰が感染しているのか分かりません。だから人との接触をできるだけ避けるために、大臣や知事が「移動・行動」の自粛を呼びかけるのも当然でしょうね。「公共の福祉」のために。そうした要請は要請として受け入れ、自分の外出が不要不急かどうかは個人が主体的に判断すればよいことです。
いろんな事情から外出や移動をする場合には、「3密を避ける」「距離をとる」「マスクをする」「手指消毒をする」という基本動作を徹底することが大事だと思いますね。
2020年6月のNHK世論調査で、62%もの人が「政府・自治体が住民に外出禁止や休業を強制できるよう法改正する」に賛成でしたが、これはちょっと、と思いました。
戦争の反省から獲得した「自由」です。自分の首を軽々に絞めたくないものです。
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