北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスに登っていたころの写真記録、国内外の旅行、反戦平和への思いなどを備忘録として載せています。

那須岳~むかしは「硫黄鉱山」だった

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 人気のあるこの山が硫黄を採取するための鉱山だったことをにおわす案内標識。

 

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 朝日岳山頂から見た茶臼岳 (2021年9月17日撮影)

 

 

目次

 

 

 

 

 

 茶臼岳は、ロープウェイで山頂近くまで気軽に登れる栃木県にある山。紅葉シーズンにハイカーでにぎわうその山が、硫黄(いおう)を採る鉱山だったことをどのくらいの人がご存じだろうか。

 最近まで、私も知りませんでした。秘湯の三斗小屋温泉に行ったついでに、

硫黄鉱山だったこん跡を追いかけました

 

 

 

硫黄鉱山の「遺構」をさがす

江戸時代から採鉱していた

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 茶臼岳の西面。山肌は削り取られて茶色をしています。

 

 

 江戸時代、地元の黒羽(くろばね)藩が茶臼岳の噴火口から硫黄の採掘を始め、江戸幕府火薬の原料として売り込みました。

 

 鎖国中の江戸幕府は、ペリー率いる黒船艦隊が浦賀にやってきて日本に開国を要求して以来、外圧への対応として軍事力の強化に取り組んでいて、今の目黒区に目黒砲薬製造所を造っていました。そこに茶臼岳で採った硫黄を送り込んでお金を稼いだのです。

 

 

明治時代に主導したのは「那須硫黄鉱山株式会社」

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 「株式会社那須硫黄鉱山事務所」と書かれた看板。その奥には建物も見えます。           (「那須温泉史」から引用)

 

 

 

 那須岳で、大々的な採取が行われるようになったのは、明治時代の終わりごろ那須硫黄鉱山株式会が設立され、山中に作業所が造られてから。この会社は後に、横浜市に本社を置きました。

 

 

 

採掘場所は西側の斜面

「無間地獄(むげんじごく)」と呼ばれる噴気孔

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 噴気孔から噴き出す火山ガス。(2021年9月16日撮影)

 

 

 硫黄の採掘現場は、茶臼岳の西側一帯でした。 

 現在も絶えず噴気孔から水蒸気のほか硫化水素や二酸化硫黄、二酸化炭素などを噴き出しているところがあります。無間地獄という名前が付けられています。

 

 

 

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 上の案内図の赤い●無間地獄の位置です。

 

 

無間地獄は、硫黄採掘の現場の1つでした。

 

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 絶えず「ゴーッ」「シューッ」と音がして、地球の躍動、地球が生きていることを体感できる場所です。

 

 

 いまも噴気が出ている場所は、無間地獄のほかに、北西斜面の「大噴」というところがあります。そこもかつての鉱区とみられます。

 

 

 

 

硫黄を採り出す方法

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 大正時代の茶臼岳山頂付近での硫黄採取の様子。硫黄を載せるロッコ(写真下側)やレール、噴気の中の作業員たちが写っています。

               (「目で見る那須の100年」から引用)

 

 

 

 硫黄の採取方法は2つありました。「火口硫黄」と「精錬硫黄」です。

 

 ★「火口硫黄」は、噴気孔に石を積んで「煙道」と呼ぶトンネルを造り、ここに地中から噴き出す火山ガスを導きます。これが煙道の出口近くで外の冷たい空気に触れて自然に冷えていくと、硫化水素と二酸化硫黄が化学反応を起こし硫黄の赤褐色の液体ができます。これがトンネルの出口では、黄色の塊になって垂れ下がるので、これをたたいて落とし、回収する方法。そのままで純度は99%以上。これが「火口硫黄」です。

 「煙道」の出口に沿ってレールが敷かれており、レールの上のロッコに回収した硫黄を載せ、作業員が手でトロッコを押して運んだようです。

 ★「精錬硫黄」という方法は、硫黄を含む鉱石を集めて、精錬するやり方です。具体的には、鉱石を「焼き取り釜」に入れて高温に熱して気化し、パイプで沈殿室に送って液状化、さらには円筒形の管に入れて固め、硫黄製品を造る方法です。

 

 

 

 

山から運び出す方法

ロッコを使った

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 写真は「那須温泉史」からの引用です。

 

 

 採取した硫黄や硫黄の鉱石は、トロッコで運びました。

 

 

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 硫黄の採取風景です。

 

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 運び出しは、採取した場所でトロッコに載せ、レールを敷いた「トロ道」を通り、集積所まで行きます。

 集積所は現在の「峰の茶屋跡」の少し上の「硫黄鉱山跡」と書かれた標識の場所

 ここからふもとの「精錬所」まで空中ロープウェイで降ろしました。

 

 

 

ふもとの「精錬所」まではロープウェイが活躍

 集積所から精錬所までは、「鉄索(てっさく)」と呼ばれた空中ロープウェイがありました。

 鉄索は、起点と終点に支柱を立て、空中に張った2本のワイヤロープに、滑車の付いた「荷箱」(ゴンドラ)をそれぞれいくつかぶら下げます。そして、山の上の起点で、「荷箱」に硫黄を積み込んで重力で滑り下ろすと、山の下の終点にある「カラの荷箱」が循環して上がってくるという仕掛けでした。

 

 

 

温泉地の「那須湯本」まで運んでいた

 精錬所で製品になって梱包された硫黄は、精錬所から先は、別の鉄索と、人力による「土橇(どぞり)」那須湯本まで運んでいました。

 

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 写真はいずれも、「那須温泉史」からの引用です。

 

 土橇(どぞり)というのは、そりです。舗装されていない坂道で、重いものを載せて運んだそりのことだそうです。

 地面には枕木を並べて、その上を作業員が肩に綱をかけて引っ張ったようです。

 土ぞりの道は、旧登山道を使っていたそうです。

 

 

 那須湯本に設けられていた集積所からは、最初は馬車で、その後は車道ができてトラックで販売先に硫黄が届けられました。

 

 

 

 

今の登山道はトロッコ道だった

茶臼岳西面の登山道

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 茶臼岳西側斜面の登山です。ここはもともとトロッコで硫黄を運ぶレールが敷かれていました

 

 

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 採取した硫黄や硫黄鉱石を運ぶため水平にレールが敷かれました。

 レールは無間地獄から「峰の茶屋跡」の上まで敷かれていて、作業員が手で押していました。

 

 

 

【硫黄鉱山跡】という案内標識

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 いまの「峰の茶屋跡」から徒歩で2分ほど登山道を登ると、上の写真の標識があります。

 

 

 

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 広場になっています。

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 赤い丸が現在地です。

 硫黄や鉱石の集積所の跡です。

 

 

朽ちた木材・・・

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 「硫黄鉱山跡」の標識の下の斜面に、廃材があります。

 作業小屋だったのでしょうか。

 

 

 

【峰の茶屋】は作業員休憩所

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 「峰の茶屋跡避難小屋」です。

 茶臼岳と朝日岳の間の鞍部にあります。三斗小屋温泉や県営峠の茶y駐車場への分岐点でもあります。要所です。

 

 むかし、「峰の茶屋」ではジュースやサイダーが売られていて、鉱山作業員の休憩所であり、三斗小屋温泉に向かう旅人の休憩所になっていたようです。

 当時、建物は雨や風をしのぐために周囲にを積んで屋根を付けただけの小屋だったらしいです。

 

 

いまは避難小屋に

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 避難小屋の中の様子。

 

 その後、1997年(平成9年)11月に、冬山登山者も利用できるようにと立派な「峰の茶屋跡避難小屋」が完成しました。

 冬には強風が吹き受ける場所であるため、屋根が吹き飛ばされないように、木材と金属チェーンで固定されています。

 

 

 

当時の【精錬所】は【駐車場】に変身

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 峰の茶屋跡から下山する時の登山道です。

 

 かつて峰の茶屋の上の硫黄の「集積所」から、茶臼岳中腹の「峠の茶屋」横の「精錬所」まで、鉄索(空中ロープウェイ)がありました。

 精錬は、採掘した硫黄鉱石を純度の高い硫黄にする作業です。

 

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 鉄索(空中ロープウェイ)は、現在の「峰の茶屋跡」から「県営峠の茶屋駐車場」に向かう登山道の右上方に、1970年ごろまで残っていたようです。

 

 

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 ここは県営峠の茶屋中駐車場です。

 かつては、この駐車場と、横の「みはらし園地」の位置精錬所がありました。

 

 

 

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 写真は、県営駐車場近くの登山指導センターの建物です。

 かつてはここに硫黄鉱山事務所がありました。

 

 

 

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 硫黄鉱山事務所の写真です。(「那須温泉史」から引用)

 

 

 

精錬所の燃料は「木材」

牛の背で三斗小屋温泉から運んだ

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 太平洋戦争(1941年~45年)が始まる前は、精錬に必要な燃料は木材に頼っており、三斗小屋温泉の下の方まで木を伐採して、薪(まき)を牛の背にくくり付けて精錬所まで運んでいました。

 

 

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 牛が通った道です。いまは登山道です。

 

 

 

牛馬が活躍した時代

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 写真は、三斗小屋温泉大黒屋の新館です。

 三斗小屋温泉大黒屋には、硫黄の採鉱が行われていた当時、いまの新館の西側に牛小屋があったそうです。馬も多い時には10頭ぐらい飼っていましたが、太平洋戦争末期に食糧難から手放したそうです。

 

 

 

「牛守護大日尊」と書かれた石碑

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 峰の茶屋跡の避難小屋の横に、大きな石碑があります。

 昭和2年(1927年)11月に建立されたことが記されています。「発起人 梶本勘作、高根澤峯次郎」とも彫られています。

 

 当時は、三斗小屋温泉周辺から木材を牛の背に載せて、この峠、❝峰の茶屋❞を越えて精錬所まで運んでいたわけです。

 那須硫黄鉱山株式会社が牛の安全を祈願したものでしょうか。

 

 

 

山の神

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 県営峠の茶屋駐車場の少し上の登山道わきに、「山の神」と書かれた石碑があります。

 那須硫黄鉱山株式会社の社長が、鉱山の作業員の安全を祈願して立てたと伝えられています。

 

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 石碑の左に石段があり、岩陰に祠(ほこら)がありました。

 

 

 

採掘した硫黄の使い道

 硫黄は江戸時代には、鉄砲の火薬の材料に使われ、明治時代にはマッチの材料に使われました。マッチは当時の日本の主要な輸出品目だったようです。

 

 那須硫黄鉱山株式会社の販売先は、砲兵工廠(軍隊)その他、大都市に送り、火薬、薬品、ゴム製品などの原料に使われました。

 

 

 

那須硫黄鉱山株式会社のその後

 戦後の昭和28年(1953年)6月に、同業他社と合併して商号を変更、2年後にまた商号を「那須硫黄鉱業株式会社」と改めましたが、昭和35年(1960年)以降廃鉱になりました。

 

 

茶臼岳の噴火を機に廃業か?

 那須岳は過去何回もマグマ噴火をし、溶岩を噴出しました。昭和35年にはマグマに熱せられた地下水が噴き出す水蒸気噴火が茶臼岳北西側の噴気地帯であり、火山灰が降りました。

 この噴火をきっかけにして鉱山を閉鎖した、という話があります。

 また、このころは技術の進歩によって、硫黄の生産は、石油に含まれる硫黄分を脱硫する技術で取り除くことによって、副産物として硫黄の生産量が急増、鉱山での危険な採掘は不要になったという背景も考えられます。

 

 ただ、この会社についてのデータは見つからず、詳しいことは分かりません。

 

 

※参考資料

①「那須温泉史:写真と絵葉書で見る温泉の歴史」那須町教育委員会発行 

                          2005年3月

②「目で見る那須の100年」郷土出版社   1995年7月

③「三斗小屋温泉誌 復刻版」三斗小屋温泉誌刊行委員会  2019年11月

 

ほか