昭和8年(1933年)に誕生した名門・上高地帝国ホテルの外観。(2021年10月9日撮影)
目次
調べものをしていたら、上高地帝国ホテルの近くに、山で遭難した人たちの「合同墓地」があることを偶然知りました。
❝遭難❞というのは他人ごとではないので、北アルプス・涸沢に行った帰りの2021年10月9日に、現場を訪ねました。
上高地帝国ホテル前が合同墓地だった
2万5千分の1の地形図を拡大。左上が、上高地帝国ホテル。
ホテル前のバス停。
遭難者の合同墓地があるのは、事前の調べでは、「バス停から50㍍ほど県道を田代池方面に行った地点で、山側の樹林(左手)に入る」という記述がありました。
踏み跡がありました(上の写真)。ここから樹林帯に入って、送電線の下のクマザサの中を数十㍍進んだ右手らしい。
ところが10㍍も進んだところで、踏み跡は消えた。
背丈が1㍍50㌢ぐらいのクマザサの中を、右側をチラチラ見ながら進む。
だいぶ進んでも広場らしいものは出てこず、気味悪くなってきたので戻ろうかと思った瞬間、立木の向こうにネズミ色の物体が視界に入りました。見つけました。
墓碑です。
周りを見ると、そこにも、あそこにも・・・。こけむした石に文字が刻まれていますが、読み取れないものも。
10基ほど確認して、現場からの離脱することにしました。
火葬した場所は「八右衛門沢」だった
山で火葬されていた50年以上前は、今日のように警察のヘリコプターが、遭難現場から電話すればすぐに飛んできて救助・収容してくれるような時代ではありません。
山から容易に降ろすことができない遺体は、上高地まで大勢の人手で時間をかけて下ろして荼毘(だび)に付した、という話は、何度か聞いていました。
でも、どこで火葬していたんだろうか、と気になっていました。
それが、木村 殖(しげる)さんという方の自伝「上高地の大将≪アルプス暮らし四十年の記録≫」(昭和44年初版発行、実業之日本社)を読んで、様子が少し分かりました。
木村殖さん。 (「上高地の大将」から引用)
木村さんは、上高地帝国ホテルが昭和8年に建設された時、ホテルに「登山のガイド役」として採用された方。ホテルの裏にあった建設作業小屋を建て直して「山小屋・木村小屋」にし、遭難者救出の前線基地としての役割も果たしました。長野県山岳遭難防止対策協会(会長:知事)の北アルプス南部地区の救助部長としてもボランティアで多くの遭難救助に貢献した人です。
山での火葬は遺族からの依頼
木村さんは自伝で次のように書いています。
「私たちは初めのころ、遺体はすべて松本まで運び、そこで火葬にしてしまえばよいと思っていたし、そのつもりでもあった。」
「ところが、里へ運ぶにしても、冬ならソリを使って雪道を通さなくてはならないし、また、乗用車を頼んだところで、なかなか乗せてはくれない。いくら料金を倍額払うといっても、商売柄、縁起を担いでお断りを食うのが関の山なのである。」
「この『隠亡(おんぼう)』という、人の嫌がる仕事は、上高地に住んでいる限り、誰かがやらなくてはならない。若い連中に頼んだところで、『隠亡なんてまっぴらごめんだじ。嫁の来てがないで」と言われるのがオチだ。」
「そうこうしているうちに、遺族の中からは『好きな山で死んだのだから、せめてここで荼毘に付していただけたら、故人も本望だと思います。ぜひお願いします』という声が出てきたりして、むげに断れなくなり、ようやく(上高地での荼毘を)引き受けるようになった。」
500体を火葬した
写真は、昭和9年夏、「岳沢(だけさわ)の万年雪を見たい」という秩父宮さまを雪渓に案内した際に、ステップを切る木村さん(左端)。その右は、秩父宮、同妃殿下、付き人たち。(著書「上高地の大将」から引用)
木村さんが自伝を書いた昭和44年までに、木村さんが遭難救助活動に出た回数は、1400回から1500回。
死者は多い年で47人、少ない年で6人。「山で荼毘に付したのは500体を超えるのではないかと思う」と書いています。
火葬場所は八右衛門沢(はちえもんざわ)
荼毘に付し、遺骨を埋葬するすことが許される場所は、松本営林署によって、八右衛門沢押し出し地域と決められていた、と言います、
八右衛門沢は、六百山と霞沢岳の間の沢で、端っこは扇状地になっています。
当時、霞沢岳への登山は、帝国ホテル前から、踏み跡程度のクマザサの道を歩いて八右衛門沢に出て、沢筋を登って頂上に立ったようです。(現在は徳本峠から登るのが一般的)
薪(たきぎ)の切り出しにも許可が必要
木村さんの自伝によると、火葬のための薪は、松本営林署から一括払い下げを受けました。薪の切り出しは許可を得てから2ヵ月以内。冬の間に伐採して運び、薪として切り、積み上げて蓄えました。「なるべく人目につかない場所に置くように」との指導もありました。
荼毘に要する時間は約4時間。火葬が終わると遺族は故人の「のどぼとけ」や大きな骨だけをおさめて帰るのが普通で、残された骨はそれぞれ焼いた場所に埋められました。
その際、木村さんは、「墓標を立てることは禁止されているので、立てないでください。簡単な目印だけで我慢してください」とお願いしたといいます。
合同墓地に墓を引っ越し
クマザザに埋もれ、見つけにくくなった合同墓地。
「墓標を立てないで」とお願いしたにもかかわらず、「何年かすると、焼き跡に当初置かれた小さな石が、立派なお墓になり、なかには石垣を積んでコンクリートで固めて、その中央に高いケルンが造られたものまで出てきた」といいます。
上の写真は、「釜トンネルー上高地の昭和・平成史」(菊地俊朗著・信濃毎日新聞社発行)から引用
昭和43年初めには河原の墓地がいっぱいになって観光面で見た目がよくなくなり、松本営林署は全国112人の遺族に、撤去または移転させるというお達しを出しました。
国有地を墓にすることはそれまでも許されておらず、また、国立公園内で火を使って荼毘に付すことも禁止事項でしたが、「黙認」してきたのでした。
90の墓標が慰霊碑として残った
昭和43年(1968年)7月1日、現地で合同慰霊祭が行われ、遺族と連絡がついた約90基が、上高地帝国ホテル近くの「合同墓地」に引っ越し、「遭難慰霊碑」という格好で残されることになりました。
以下、合同墓地でみた墓標の数々です。
植村光伸 25歳 松澤鐡男 24歳
とこしえの生命
お日さまみてるとわいてくる
お星さまみてるとわいてくる
ひとりじゃないのさ
幸わせさ
いつもいつでも照らしてる
俺は俺は
孤独じゃないさ
記念碑
純粋無垢な
行為と瞑想に
若き情熱傾けし
君が穂高は
今日も美くし
中村俊彦 30歳 昭和42年3月11日没
安部幸男 29歳 昭和42年3月12日没
前穂高岳東壁Dフェースにて永眠す
遺族 横須賀山岳会
雪深き 山ふところに 抱かれて 永久に ねむりし 吾子よ 安けく
昭和36年8月5日前穂高重太郎新道にて遭難この地に永眠す
吉住福夫 21才
昭和42年8月5日
東京都江戸川区松島4-2-16
吉住一 建之
碑 西尾××(判読できず)
×××(判読不能)
ブラックニッカ(ニッカウヰスキー)の小瓶が添えられていました。
火葬は禁止になり、慰霊碑の設置も認められない
松本営林署は昭和43年(1968年)7月、「上高地では火葬をしないようにしてほしい」というお達しを出しました。
これ以降、遺体は松本や塩尻、信濃大町まの火葬場まで多額の金銭を使って下ろすようになりました。
ご遺族には金銭面で困った方もいたようです。
長野県警にヘリコプターが配備されたのは、これより13年後の昭和56年(1981年)でした。
遭難慰霊碑についても、環境省は現在、国立公園での設置を認めていません。
上高地帝国ホテル近くの合同墓地に、わが子の慰霊碑を移したご遺族は90歳を超え、山岳会・大学山岳部の岳友も70歳を超えたでしょう。ここを訪れる人はやがていなくなるのでしょうか。
帰り際、手を合わせ、頭を下げました。
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