北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスに登っていたころの写真記録、国内外の旅行、反戦平和への思いなどを備忘録として載せています。

心の琴線に触れる「忠臣蔵」「赤穂浪士」・・・事件の舞台を歩く(中)

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 吉良上野介の屋敷跡 (東京・両国で12月23日撮影)

 

目次

 

 

 

 

事件の舞台 ②吉良邸

隅田川の向こうに屋敷替え

 江戸幕府で「高家肝煎(こうけきもいり)」という儀式・典礼を司る要職に就いていた吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)――

 元禄14年(1701年)の江戸城松之廊下での刃傷事件のあと、高家肝煎役を辞任しました。吉良はさらに、江戸城に近い屋敷に住み続けるのは恐れ多いというわけで、屋敷替えを願い出ました。

 

 すると幕府は、あっさりと受け入れ、内堀の一等地の屋敷から隅田川を渡った先の新開地に屋敷替えを命じたのです。

 

 

 幕府がこの時、何を考えてのか、背景にどんな動きがあったのか、分かりません。

 ただ、赤穂浪士堀部安兵衛は、この屋敷替えを討ち入りの絶好のチャンスと判断して、京都・山科にいた大石内蔵助に手紙を送っています。

 

 

 

広い屋敷だった

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 吉良邸跡の石碑。

 

 

 屋敷替えで新しく吉良邸となったのは、本所松坂町の空き家でした。現在の墨田区両国です。

 

 広い屋敷で、墨田区の資料では、東西約132㍍、南北約62㍍で約8400平方㍍となっています。

 

 屋敷の表門は東側、裏門は西側。母屋は約1280平方㍍もあり、母屋を取り囲むようにして東と西、南側の3方に長屋が建てめぐらされていました。

 長屋には侍や足軽が大勢詰めていました

 屋敷の北側は塀1枚で土屋主税、本多孫太郎の屋敷と接していました。

 

 

 

現在も一部保存されている吉良邸跡

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 「吉良公御首級洗い井戸」。

 

 

 現在、吉良邸跡として保存されているのは約98平方㍍で、当時の86分の1。これは昭和9年(1934年)に地元の有志が発起人となって、「吉良公御首級(みしるし)洗い井戸」を中心に屋敷の一角を購入し、当時の東京市に寄付。戦後、墨田区に移管されました。

 

 東京都指定の旧跡で、「本所松坂町公園」という名前が付いています。

 

 

 

吉良邸討ち入り

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 吉良邸の間取り (「花の忠臣蔵」から引用)

 

 

 

 旧暦の元禄15年(1702年)12月14日深夜、播州赤穂藩の筆頭家老だった大石内蔵助(おおいしくらのすけ)率いる赤穂浪士47人が、本所松坂町の吉良の屋敷に行き、表門と裏門の二手に分かれて邸内に討ち入りました。

 

 表門からは、はしごをかけて屋根を乗り越えて侵入、裏門からは「かけ矢」という樫で作った大きな木槌で門の扉をたたき壊して押し入りました。

 

 赤穂浪士は「鎖帷子(くさりかたびら)」というよろいのような鎖の入った重さ20キロ近い防護服を着ており、刀で斬られても深い傷は避けられました。

 「火事だ!火事だ!」と叫んで、眠りに落ちていた吉良の侍を香蘭させての戦闘開始でした。

 

 

 

 

隣の屋敷の対応

 吉良邸の北側には、土屋主税(ちから)本多孫太郎の屋敷が接しています。

 吉良邸での騒ぎに驚いた両屋敷の家来衆が塀越しに見ようとしているため、片岡源五右衛門(かたおかげんごえもん)らは塀際に駆け寄って、

 

「これはあだ討ちでござる。武士は相見互(あいみたが)い、いっさいお構いくだされるな」

とあいさつしました。

 

 すると、土屋邸では、了解という印に、塀越しにたくさんの高提灯を掲げました。

 討ち入った赤穂浪士に表立って味方することはできないが、周囲を明るくすることで浪士が戦いやすくしてくれたわけですね。

 

 

 

吉良側で応戦したのは50人弱

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 吉良邸の図。母屋の東西と南の3方に長屋

 

 

 吉良の屋敷は、母屋を囲むように3面は長屋で、家臣が住んでいます。屋敷内に当日いた人数は逃亡者がいるため正確には分かりませんが、150人ほどが居合わせたと考えられています。

 

 長屋には非番の家臣が寝間着姿で寝ていたわけですが、赤穂浪士は長屋の出入り口を「火事だ!」と叫びながら固めて、動きがあれば容赦なくを射込み、あるいはで突きかかったために、吉良の家臣は外に出るに出られずの状態。そこに60本用意してきた「かすがい」で長屋の戸口を外から打ち付け、閉じ込めてしまいました。

 赤穂浪士の気迫に押されて、手も足も出なかった、ということのようです。

 

 赤穂浪士に応戦したのは、母屋を中心にして50人弱でした。

 

 

 

吉良側の死者17人

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 吉良邸跡に設置されている石碑。討ち入りで殺害された吉良の家臣として20人の名が刻まれています。

 

 

 吉良邸から赤穂浪士が撤収した後、幕府目付2人が到着し、検視しました。その結果をまとめた「吉良本所屋敷検使一件」によりますと、吉良側の死者は吉良を含め17人でした。

 

 また、赤穂市市史編纂室編「忠臣蔵」第3巻によりますと、負傷者は吉良の孫の吉良義周(よしひさ)ら28人けがをしなかった者が101人でした。

 

 

 

 

「鎖かたびら」を着込み、死者ゼロの赤穂浪士

 一方の赤穂四十七士には死者はなく、重傷が1人だったと言います。軽いけがは何人かいたと考えられますが、はっきり分かりません。

 ただ一人、大けがをしたのが、近松勘六。相当腕の立つ男と斬り結んで相手を池に追い落とし、自分も飛び込んで仕留めようとしたところ、相手が倒れながら刀を立てていたのに気付かず、太ももに突き刺さったといいます。

 

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 吉良邸を出て泉岳寺に向かう赤穂浪士。けが人に肩を貸しています。(「東大教授の『忠臣蔵』講義から引用)

 

 

 赤穂浪士の❝勝利❞の理由は何だったのでしょう。

第一に、「装備」の違いだと思います。泉岳寺の「赤穂義士記念館」に陳列されている遺品を見ますと、鎖帷子(くさりかたびら)を頭から膝あたりまで着込んでいたことが分かります。鎖帷子は、刀で斬りつけられた時に身を守るための装備で、麻の厚い生地に鎖を細かく編み込んだもの。刀が当たってもきずが付きにくい。

 展示品には、鎖を縫い付けた胴着や帽子、籠手(こて)、手甲、脚絆(きゃはん)などが、大石内蔵助の兜(かぶと)と一緒に並んでいました。2メートル余りの槍も弓矢も展示されていました。

 

 勝因の第二は、不意を突いた夜襲で、吉良側に身も心も戦闘の準備をする余裕を与えなかったこと。

 第三に、長屋に100人もいた武士を封じ込めることができたこと。

 第四に、吉良個人への復讐という強い執念があったこと。

などだと思いますね。

 

 

 

吉良の「首受け取り状」

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 泉岳寺にある「首洗い井戸」。

 

 

 吉良殺害の後、赤穂浪士は主君・浅野内匠頭の墓のある泉岳寺(東京都港区高輪)まで3時間半かけて歩きました。寺の井戸(上の写真)で水を汲んで吉良の首を洗ってから、浅野の墓前に供え、本懐を遂げたことを報告しました。

 大石はその後、首はもう不要だからと住職に渡しました。

 

 吉良の首はその後、吉良邸から使いの者が泉岳寺に来て返還を要請。泉岳寺の僧2人が返しに行きました。その際、吉良家の家老2人がしたためた「首受け取り状」の実物が、赤穂義士記念館に展示されています。

 

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事件の舞台 ③大石が切腹した細川家下屋敷

今は中学校の敷地に

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 細川家下屋敷跡 (現在の港区高輪1丁目)。

 

 

 幕府は討ち入した赤穂浪士47人のうち、途中で離脱した1人を除く「46人」を4つの大名家に預けました。

①肥後熊本藩細川家 (大石内蔵助ら17人)

三河岡崎藩水野家 (9人)

伊予松山藩松平家 (10人)

長門長府藩毛利家 (10人)

 

 

 幕府は元禄16年(1703年)2月4日、赤穂浪士の行動を「徒党」と認定して「重々不届き」であるから「切腹」に処す、と46人にハラキリを命じました。

 

 これに対し大石内蔵助は、「どのように仰せつけられるか測りがたいと存じておりましたところ、幸運にも切腹を命じていただいたこと、ありがたきしあわせに存じ奉ります」と返答しました。

 

 

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 細川家下屋敷跡に立つ説明板。

 

 

 大石内蔵助ら17人が預けられた細川家下屋敷の敷地はいま、港区立高松中学校になっており、敷地の一部を塀で囲って「切腹の跡地」として東京都が保存しています。

 

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 上の写真の中央の石あたり大石内蔵助切腹したそうです。

 

 

 

【主な参考資料】

①「花の忠臣蔵野口武彦 2015年12月講談社

②「東大教授の『忠臣蔵』講義」山本博文 2017年12月角川新書

赤穂義士記念館(泉岳寺