北穂高岳で味わう至福のひと時

北アルプス登山、近所の散歩、旅行の記録や健康、反戦・平和への思いなどを、デジカメで撮った写真と一緒に載せています。

心の琴線に触れる「忠臣蔵」「赤穂浪士」・・・事件の舞台を歩く(下)

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大石内蔵助銅像 (泉岳寺の境内)

 

目次

 

 

 

事件の舞台 ④泉岳寺

 「それまでは ただの寺なり 泉岳寺

 

 これは、江戸時代に詠まれた川柳です。うまいことをいうもんですね。

 

 元禄の泰平の世に、降ってわいた赤穂浪士の吉良邸討ち入り。将軍綱吉によって切腹を命じられた浪士の面々が埋葬された泉岳寺は、江戸一番の有名な寺になりました。

 

 

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 泉岳寺にある赤穂浪士の墓地の入り口です。

 

 

 泉岳寺(東京都港区高輪2丁目)は曹洞宗の寺で、境内には赤穂浪士がつかえた藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の墓もあって、ともに国指定の「史跡」になっています。

 

 

 この泉岳寺、もともと徳川家康が現在の警視庁近くの桜田門に建てた寺ですが、寛永の大火(1641年)に焼けてしまい、3代将軍家光が浅野家などの大名に高輪に再建させたものです。

 その縁で播州赤穂藩の浅野家は、泉岳寺を江戸での菩提寺としたそうです。

 

 

討ち入り浪士45人の墓と、3つの供養塔!?

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 赤穂浪士の墓地の入り口に立つ門。浅野家の上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築されました。

 

 

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 討ち入り後に泉岳寺に引き上げる時の隊列の図。

 

 

 境内には、吉良邸に討ち入った浪士47人のうち、おあずかりの4大名の屋敷で切腹した「46人」が埋葬されました。

 

 

竹やぶを切りひらいて造った赤穂浪士の「墓地」

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 赤穂藩主・浅野内匠頭の墓。

 

 

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 泉岳寺の境内の案内図。

 上の図の中央左に「浅野(内匠頭)長矩公」と書かれた墓碑がありますが、その左は「竹やぶ」でした。

 

 泉岳寺としては、大勢の赤穂浪士を埋葬するスペースがなかったために、浅野内匠頭の墓碑の横の竹やぶをつぶして墓地にしました。切腹の時のままの裃(かみしも)を着用した姿で土葬に付したといいます。

 

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 竹やぶを切りひらいて造った墓地のスペース。

 

 

 

 

戒名に「刃」の文字

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 赤穂浪士の戒名は、みんな最初の文字が「刃」となっていて、「刃〇〇剱信士」と勇ましい名前が付いていますね。寺坂吉右衛門(てらさかきちえもん)を除いて・・・。

 

 

 

失踪した寺坂吉右衛門は「供養塔」

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 寺坂の戒名に、「刃」はありません

 

 吉良邸に討ち入った寺坂吉右衛門は「墓碑」ではなく、「供養塔」が泉岳寺によって建てられています。

 

 寺坂は切腹を免れていて、「遂道退身信士(ちくどうたいしんしんし)」という戒名が付けられています。

 「道を遂げ、身を退く」という意味のようです。「逃げた人」という意味なんでしょうかね。

 

 

 

寺坂はなぜ「失踪」?

 寺坂吉右衛門足軽という身分の低い者です。吉田忠左衛門の家来です。その寺坂、討ち入り後に浪士一行が吉良上野介の首をぶら下げて泉岳寺に向かう途中で、ひそかに行列から離脱したようです。

 

 逃亡したとみる説、大石内蔵助ら上層部の密命を帯びて浪士の遺族らに討ち入り結果を知らせるため姿を消した、などといった説があります。

 寺坂はのちに「寺坂信行自記」というメモ書きを残していますが、そこには「私儀(わたくしぎ)も上野介殿御屋敷へ一同押し込み相(あい)働き、引き払いの時、仔細候(しさいそうらい)て引き別れ申し候(そうろう)」と書かれていて、事情があって泉岳寺に向かう途中で離れたとしています。「事情」が何なのか今も分かりません。

 

 寺坂は討ち入りから1年後、幕府の大目付に自首しましたが、お構いなし。その後、吉田忠左衛門の縁戚に仕えたり、江戸・麻布の寺で過ごし、83歳で亡くなりました。

 

 

 「供養塔」は寺坂のほかに、あと2つあります。

 1つは、いったんこの墓地に埋葬されたものの、遺族が遺体を引き取った「間新六」の碑。もう1つは、討ち入り以前に周囲の反対にあって討ち入りに加われずに自害した「萱野三平」です。

 

 

 

 

赤穂事件はテロか、社会正義の実現か

 吉良上野介は、現行法に照らすと浅野内匠頭による殺人未遂事件の被害者であって、法律上、裁かれるものではないから、あの事件は単なる浅野によるテロだよ・・・。

 いまの法体系から赤穂事件をみると、そう考えるのも自然かもしれませんね。

 

 でも、あの当時は「喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)」という社会のルールがあった時代。そうした世の中でありながら、幕府の裁定は当事者の一方に厳しく、一方は無罪放免。

 赤穂浪士47人の武装蜂起は主君への「忠義」という側面があったんでしょうが、現代を生きる私らとしてはそういうものではなくて、社会正義を実現しよう、そのためには自分の犠牲をもいとわないというあたりに感動してしまいます。

 当事者の一方だけが処分されるようでは武士の面目が立たないとして、あえて時の権力者、徳川幕府を挑発する実力行使に訴えるというのは、時代背景を考えても理にかなった行動じゃないでしょうか。

 江戸庶民と同様、喝さいを送りたい気持ちになります。

 

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 赤穂浪士の墓の位置。右上は大石内蔵助の墓。

 

 

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 訪れる人が絶えません。

 

 

 

 

 

【主な参考資料】

①「花の忠臣蔵野口武彦 2015年12月講談社

②「東大教授の『忠臣蔵』講義」山本博文 2017年12月角川新書

赤穂義士記念館(泉岳寺境内)