コロナ禍でマスクをした龍馬像。
(2022年1月9日 品川区の元土佐藩上屋敷近くの公園で撮影)
目次
京都で薩長同盟
背景に幕府が第二次長州征伐の動き
『薩長(さっちょう)同盟』というのは1866年(慶応2年)1月、犬猿の仲だった薩摩藩(いまの鹿児島県)と長州藩(山口県)が結んだ約束事です。
朝廷(=天皇と公家)と武家(=幕府)が一枚岩になって政治を立て直そうとする「公武合体(こうぶがったい)派」だった薩摩藩。これに対して、幕府に頼らないで天皇を中心とした政府をつくって外国勢力を追い払おうとする「尊王攘夷(そんのうじょうい)派」の長州藩。この両者の対立が解けたのです。
薩摩藩の小松帯刀。(国立国会図書館HP「近代日本人の肖像」から引用)
薩長同盟は1866年(慶応2年)1月22日、薩摩藩家老・小松帯刀(たてわき)が京都にいる時に住まいにしていた近衛家別邸・御花畑屋敷で結ばれました。
当事者は長州藩は桂小五郎(のち木戸孝允と改名)。薩摩藩は小松帯刀と西郷隆盛。
坂本龍馬が間に入って、6カ条からなる約束ごとを結びました。
内容は、近く始まるとみられた徳川幕府と長州藩の戦争に備えた対応策で、幕府側の出方によっては、薩摩藩が軍事行動に出ることも盛り込まれました。
薩長同盟の6カ条の内容
薩長同盟の目的は、第二次長州征伐に際して、薩摩藩が長州藩に対して物心両面で支援し、長州藩の名誉回復に努め、徳川幕府を倒して天皇中心の世をつくりましょう、という約束でした。
6カ条は以下の通りでした。(現代語訳)
①幕府と長州藩との間に戦争が起こった場合、薩摩藩は2000人余りの兵を鹿児島から来させ、京都にいる兵と合流させ、大阪にも1000人ほど配置し、京都・大阪を固めること。
②戦争が長州藩に有利となる気配がある時は、薩摩藩は朝廷に申し上げ、長州藩のえん罪が晴れるよう尽力すること。
③万一、長州藩の敗色が濃くなった場合でも、半年や1年で壊滅することはないので、その間に薩摩藩は長州藩のえん罪が晴れるよう尽力すること。
④このまま戦争にならずに幕府の兵が江戸に帰る時は、薩摩藩は必ず朝廷に申し上げ、長州藩のえん罪がすぐさま晴れるよう尽力すること。
⑤長州藩が兵を上京させ、一橋、会津、桑名その他佐幕諸藩がもったいなくも朝廷を擁して正義を拒み、長州藩の周旋尽力をさえぎる時は、薩摩藩はついには決戦に及ぶほかないということ。
⑥長州藩のえん罪が晴れたうえは、薩長両藩は誠意をもって協力し、皇国のために砕身尽力することは言うに及ばず、どの道を進もうとも、今日から双方皇国のために皇威が輝き、皇国が回復に至ることを目標にして、誠意を尽くすべく尽力すること。
龍馬が「裏書」した
薩長同盟は、薩摩藩と長州藩の実力者の間で結ばれましたが、口頭による約束でした。証文は作られませんでした。
薩摩藩としては、この時点では長州藩は天皇にそむいた「朝敵」であるうえ、幕府に知れると都合が悪いと判断したのでしょう。
そこで長州藩の桂小五郎は不安になったのでしょうか、桂は龍馬に確認を求めて手紙(1月23日付)を出しました。
その手紙には密約が6カ条にまとめて書かれており、龍馬は手紙の裏面に2月5日付で、
「表に御記し成され候六条は、小(=小松)、西(=西郷)両氏及び老兄(=桂)・龍(=龍馬)等も御同席にて談論せし所にて、毛(すこし)も相違これ無く候・・・(以下略)」
と、朱筆で表の内容に間違いはないと裏書して返答しています。(上の写真)
現物は宮内庁に保存されています。
この「薩長同盟裏書」は、薩長同盟があったことを証明する唯一の記録で、龍馬の業績を示す貴重な史料になっています。
長州藩の事情
薩長同盟の成立の裏には、両藩に事情がありました。
長州藩は孤立無援の状況にありました。
まず、1863年の「8月18日の政変」。長州藩の久坂玄瑞や三条実美(さねとみ)ら公家の一部が、天皇自身に軍を率いて「攘夷」を実行させようとひそかに画策したことに対して、天皇自身はそこまでして攘夷をする気はないことから、天皇は京都から長州藩と急進的な公家を排除することを決断。長州藩親子に謹慎を命じたうえ、薩摩藩兵150人と会津藩兵1888人が御所の門を閉鎖し、長州藩を一部の公家ともども京都から追放しました。これが「8月18日の政変」です。
次いで1864年6月の池田屋事件。長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派の志士10数人が夜、京都の旅館「池田屋」で会合を開いていたところを、新撰組の近藤勇、土方歳三ら9人が屋内に踏み込んで、志士数人を斬殺した事件です。
会合に出席した志士のうち、殺された者以外はほとんど残党刈りで翌日までに屋外で殺されたか捕縛(ほばく)されました。
幕府は襲撃に加わった新撰組隊士31人と死亡した3人に報奨金を与え、新撰組を支配している京都守護職で会津藩主の松平容保(かたもり)が、幕府の老中に礼状を出しました。
続いて1864年7月の蛤御門(はまぐりごもん)の変。禁門の変とも言います。1ヵ月前の池田屋事件に激怒した長州藩は、「8月18日の政変」に関して、「長州藩主あるいは藩には罪はない」とえん罪を訴え、天皇に直訴するために京都御所に軍を向けました。
リーダーの一人、久坂玄瑞は、「嘆願してえん罪を晴らす」ことのみが目的でしたが、御所の蛤御門付近で会津・薩摩両軍と武力衝突。長州軍は敗退し、久坂玄瑞は自害しました。
さらに1964年11月の「第一次長州征伐」。朝廷は「蛤御門の変」で長州藩の軍が天皇の住まいである御所に向けて発砲したことを理由に、長州藩を朝敵とみなし、長州藩追討の勅令を幕府に下しました。
幕府は西国の諸藩に出兵を命じ、長州藩を包囲しました。勝ち目がないと見た長州藩は、蛤御門の変で長州藩の兵を率いた家老3人を切腹させたため、戦闘に至らずに撤兵しました。これが第一次長州征伐。
薩摩藩の事情
一方の薩摩藩ですが、幕府の要請に応じてもう一度長州藩を攻めれば、薩摩藩の軍事力も経済力も衰えてしまうことは目に見えています。
幕府は武器や艦船を輸入して装備を近代化しようとしていることから、長州藩の次に薩摩藩を標的にするのではないか、という疑念がわいたようです。
龍馬が❝対話力❞を発揮した
薩長同盟が成立したのは、薩摩藩と長州藩が話し合いの場に着いてから実に10日以上も日数を費やしていました。
京都の薩摩藩の屋敷に入った桂小五郎ら長州藩一行は、薩摩藩の指導者・西郷隆盛と会った時、双方とも薩長同盟申し入れの口火を切りませんでした。口火を切れば、相手に援助を願い出ることになると考えたためのようです。
10日後、龍馬が長崎から京都の会談場所に到着。さっそく桂に会うと、桂が「私は長州に帰る」と言ったためビックリ。帰ってしまえば交渉決裂です。
桂は龍馬に、こう言ったそうです。「長州は幕府の大軍を迎え撃つため、もはや藩の命脈はいくばくもない。しかし、薩摩藩が生き残って、天皇・朝廷のために尽くすのであれば、天下のためには幸いだ。」
龍馬はすぐさま西郷隆盛に会い、「長州がかわいそうではないか」と、ひと言叫んで、沈黙したようです。
西郷は何を感じ取ったのか、薩長連合の申し入れを次の会合の時に薩摩藩側からすることにしました。
龍馬は持ち前のコミュニケーション能力というか、対話力によって、犬猿の仲にあった長州藩を慰め、薩摩藩に情熱をもって働きかけ、手を結ばせたのですね。
動き出した土佐藩
土佐藩の後藤象二郎。長崎市公式観光サイトから引用。高知県立歴史民俗資料館蔵)
土佐藩主の山内容堂(隠居前は「豊信」)。(国立国会図書館HPから引用)
山内容堂の墓。遺言によって土佐藩下屋敷のあった現在の品川区東大井にあります。
長州藩と薩摩藩が腕を組んで武力で幕府を倒そうとする動きを強めている中、穏便に事を進めたい土佐藩が、龍馬にすり寄ってきます。
後藤象二郎は「勤王の志士の敵」だったはずなのに・・・
後藤象二郎は土佐藩主・山内容堂の腹心の家老。公武合体を目指す山内容堂の命令で土佐勤王党を弾圧し、龍馬の盟友の党首・武市半平太を切腹に追いやった人物です。
龍馬とは仇敵同士です。
その後藤象二郎が、土佐脱藩の浪人・龍馬に会いたいというのです。
下心がありました。薩摩と長州が天下を取りそうな空気を察知した後藤は、龍馬を利用して政局に一枚加わろうとしたようです。一方の龍馬も、経営が苦しい亀山社中の運営に、土佐藩を取り込もうと考えたらしい。
1867年1月、後藤象二郎は長崎の料亭で龍馬と会談して意気投合。何度か会ったのちの4月、後藤は龍馬の脱藩の罪を赦免したうえで、亀山社中を「海援隊」という名前に改めて土佐藩を応援する組織とし、龍馬を隊長にしました。
龍馬が後藤象二郎に「船中八策」を提示
1867年6月15日、土佐藩の後藤象二郎が土佐藩船「夕顔」で京都に向かう途中、同行した龍馬は大政奉還を盛り込んだ新しい国づくりのための8つの策を後藤に示しました。この策が、のちの大正時代になってから「船中八策」と命名されたものです。
龍馬が示した策は目新しいものではなく既に広く言われていたもので、龍馬は考えをまとめるため同行の海援隊書記、長岡謙吉という人物に文章化させたものでした。
大政奉還に向けた薩土盟約
1867年6月22日、土佐藩の後藤象二郎は龍馬とともに京都の料亭で、薩摩藩の家老・小松帯刀や西郷隆盛、大久保利通と会談しました。
「倒幕」の姿勢を明確にし始めた薩摩藩に対し、土佐藩は、政権を朝廷に返上する「大政奉還」と、天皇を頂点とする国家をつくる「王政復古」を提案し、両藩が実現に向けて協力することを約束しました。これが薩土(さつど)密約です。盟約の土台になったのは、龍馬が後藤に示した8つの策でした。
後藤象二郎は7月、土佐に入り、これを山内容堂に進言しました。
大政奉還
1867年(慶応3年)10月3日、土佐藩参政・後藤象二郎は、前藩主・山内容堂の名前で、大政奉還建白書を老中・板倉勝静(かつきよ)を通して将軍・慶喜(よしのぶ)に提出しました。
これを受けた将軍・慶喜は10月13日、二条城の大広間に京都にいる40藩の重臣を集めて、政権を朝廷に返上する決意を伝え、14日に朝廷に書面を提出。
朝廷は10月15日、この申し出を受理しました。大政奉還の成立です。これによって鎌倉幕府以来、700年近く続いてきた武家政治は終わりになりました。
暗殺!
龍馬が殺された近江屋の外観。(「京都見廻組秘録」菊地明著から引用)
坂本龍馬は33歳の誕生日に襲われ、命を落としました。
1867年(慶応3年)11月15日、潜伏先にしていた京都の土佐藩御用達しょうゆ商・近江屋(おうみや)で、訪ねてきた盟友の中岡慎太郎と意見交換していたところを急襲されたのです。
土佐脱藩の勤王の志士、中岡慎太郎。(ウィキペディアから引用)
襲ったのは京都見廻組
事件発生当時は、新撰組による犯行ではないかと思われたようですが、今は史料から、幕府の京都守護職の配下の京都見廻組(みまわりぐみ)による犯行というのが通説になっています。
龍馬がいた近江屋2階に踏み込んだ殺害の実行犯は、指揮官の佐々木只三郎と、今井信郎(のぶお)、渡辺篤、それに世良(せら)敏郎の4人ではないかと思いますが、世良は1階の見張りだったかもしれません。1階で見張りをしていた者の名前も定まっていません。
今井信郎が自供
今井は旧幕府軍が新政府軍とぶつかった戊辰戦争最初の戦闘の「鳥羽・伏見の戦い」直前、二条城から久しぶりに帰宅すると、妻に次のように言ったとされます。
「お前はこれからすぐ江戸へ帰れ。この刀を(剣術道場主の)榊原先生にお目にかけてくれ。これで坂本と中岡を斬ったのだ。守護職からの褒状もここにある」。
そう言って妻に長刀と褒状を渡しました。(『龍馬を斬った男』)
龍馬暗殺を自白していますね。
今井が言った「守護職」は、会津藩主でもある松平容保(かたもり)のこと。京都守護職は見廻組と新撰組を統括して、京都の治安維持を担当していたのです。
1870年(明治3年)2月の供述調書
しかし、今井は明治3年2月、嫌疑をかけられて政府の兵部省と刑部省で取り調べを受けた時の供述では、
●京都見廻組与頭(くみがしら)の佐々木只三郎の指図により、7人で近江屋にいった。
●龍馬召し捕りの理由は、寺田屋事件で捕り方役人2人を射殺したこと。
●指揮官の佐々木只三郎と渡辺吉太郎、桂早之助、高橋安次郎の4人が近江屋の2階に上がって、龍馬と中岡慎太郎を殺害した。
●自分(今井信郎)と土肥仲蔵、桜井大三郎の3人は、1階で見張り役をしていた。
今井が名前を挙げた7人のうち、今井を除く6人は、龍馬暗殺の1年後の鳥羽・伏見の戦いで戦死している人物でした。
今井は禁固刑に処せられました。その後、特赦で釈放され、静岡県内で村長などしました。
ぶれる今井の発言
1899年(明治32年)秋の『甲斐新聞』に連載された今井信郎の回顧談では、「坂本龍馬と中岡慎太郎を斬ったのは、実は私です」と告白しました。
(『京都見廻組秘録』)
渡辺篤の告白
京都見廻組にいた渡辺篤(あつし)という人物が1880年(明治13年)6月25日付でつづった口述書の中で、自分が龍馬暗殺の実行犯の1人だったことを認めていました。
この人物は、『渡辺家由緒暦代系図履暦書』(⇐原文どおり)という題で、自身の履歴を書いていました。公表を前提としておらず、子孫に伝えるためでした。
その中で渡辺篤は、
「土佐藩士の坂本龍馬というものは、ひそかに徳川将軍を覆そうとはかる者で、ほかに累を及ぼしかねないため、組頭の佐々木只三郎と自分のほかに5人が申し合わせ、夕方から龍馬の宿へ急に踏み込んだところ、5、6人の慷慨(こうがい)の士が居合わせ、彼らと軽く戦って、首尾よくことごとく討ち果たした」(現代口語訳)と記しています。
襲撃の動機は、龍馬が幕府転覆を計画しているためだとして、渡辺篤が実行犯の一人であることを自白したのです。
渡辺篤はさらに、襲撃現場に遺留されていた刀のさやの持ち主について、次のように書いています。
「刀のさやを忘れて残して帰ったのは、世良敏郎という人で、書物は少々読めても武芸に秀でておらず、刀のさやを残して帰るという失態を起こした。帰りには、ふだん剣術をあまり学んでいないために、呼吸も切れて歩くことができないような様子なので、私が世良の腕を肩にかけ、さやのない刀を私の袴の中に縦に入れて隠し、世良を保護して連れ帰った。」(『坂本龍馬 近江屋事件の現在』ほか)
桂早之助の刀
桂早之助という人物は、今井信郎の供述調書に出てきた名前です。
京都の霊山歴史館には、この桂が龍馬を斬る時に使ったという脇差が展示されているそうです。桂の子孫から寄贈されたようです。
これをみて、桂早之助という人物も実行犯の一人かな、と考える人もいるようです。
暗殺を促がした「黒幕」はだれだ?
佐々木只三郎の兄の話
佐々木只三郎という名前は、2つの伝記に出てきます。
1つは、佐々木只三郎の実兄である会津藩士・手代木直右衛門の養子(手代木良策)が1923年(大正12年)に私家版で刊行した『手代木直右衛門伝』。
もう1つは、佐々木只三郎の子孫(大田収)の依頼で高橋一雄なる人物が1938年(昭和13年)に刊行した私家版の『佐々木只三郎伝』です。
『手代木直右衛門伝』によると、手代木は亡くなる数日前に、人に次のように話をしたと言います。
●龍馬は薩長の連合を図り土佐の藩論を覆して倒幕に一致させたため幕府から嫌われた。
●佐々木只三郎は、「某諸侯の命」を受け、部下2人を同行させて、龍馬の隠れ家を襲って斬殺した。
この「某諸侯」ってだれでしょう、ということになりますが、『佐々木只三郎伝』に名前が出てきました。
『佐々木只三郎伝』によると、「某諸侯」は京都見廻組が属した京都守護職の松平容保(かたもり)、つまり手代木が所属する会津藩の藩主だったとしています。
佐々木只三郎の兄の手代木は、この事実を公にすると、会津藩に累を及ぼす恐れがあるので沈黙を守っていた、としています。
黒幕が松平容保だとすれば、直接、佐々木只三郎に暗殺を命じたのでしょうか、それとも佐々木只三郎が松平容保の心中を❝そんたく❞したのでしょうか。
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龍馬は初太刀で前額部を斬られ、全身に大小34ヵ所の傷を負っていたとされていますが、だれが初太刀を浴びせたのか分かりません。
幕末史研究家の菊地明氏は、2階に上がった殺害の直接の実行犯は、指揮官で検分役の佐々木只三郎と、今井信郎、渡辺篤、それに世良敏郎の計4人とみています。
今井が名前を挙げた7人については、今井本人以外は戦死してこの世にいない人物であることから、刺客のうちその時点での生存者に迷惑にならないように配慮したのではないか、と推測します。
どうなんでしょうか。幕末史は面白いです。
≪参考資料≫
●「坂本龍馬と明治維新」 マリアス・ジャンセン 1965年4月 時事通信社
●「坂本龍馬を斬った男」 今井幸彦 1971年12月 新人物往来社
●「坂本龍馬復権論と薩長同盟」 山岡悦郎 2021年6月 清文堂
●「坂本龍馬 近江屋事件の現在」 菊地明 国立国会図書館月報第596号
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