編み笠で顔を隠して瓦版を売り歩く江戸時代の新聞販売員
(江戸東京博物館で撮影)
目次
「さあ、てーへんだ(大変だ)、てーへんだあ、事件だよ!」と声を張り上げる羽織姿のおっさん。頭には手ぬぐいを巻いて、箸1本で紙面をペンペンとたたきまくる。
時代劇で目にする瓦版(かわらばん)を街頭で売る光景ですね。
ところがあんな光景は、事実ではない、というのです。
江戸時代は、瓦版は発行禁止。それにもかかわらず、売り子は編み笠で顔を隠して売ったのです。
瓦版は新聞の先祖です。「お上」(おかみ)には歓迎されないまま、この世に誕生したらしい。
瓦版のことを調べてみました。
瓦版とは
私が瓦版の売り子の「絵」をみたところは、東京都墨田区の江戸東京博物館です。「江戸の瓦版売り」という題のパネルでした。(上の写真)
瓦版というのは、江戸時代から明治の初めにかけて、街頭で売られた印刷物です。多くが一枚刷りでした。
庶民の間で、瓦版が最初に売り買いされたのは、1682年(天和2年)暮れに発生した世にいう『八百屋お七(おしち)火事』の時からだとみられています。
瓦版を「よみうり」と呼んでいた
新聞の戸別配達がない時代です。瓦版は、売り手が面白おかしく読み聞かせながら売り歩いたので、「読売(よみうり)」と呼ばれました。
売って歩く人物のことも「読売」と言いました。
「瓦版」と呼ばれるようになったのは、江戸時代末期から明治にかけてのころでした。
なんと、瓦版は発行禁止だった!
瓦版は、江戸で発行されて間もなく、発行禁止になりました。
幕府は1684年(貞享元年)、事件を速報する印刷物の発行を禁止するお触れを出しました。
庶民が瓦版で世の動きを知ることを快く思わなかったのですね。幕府を批判する声が広がるのを警戒したのでしょう。
そうはいっても、見たい、聞きたい、教えたいなどというのは、人間が持って生まれた欲求です。「違法」とされた瓦版は、固定した店先ではなくて街なかで歩きながら売られたのです。
老中・松平定信が出版取締令
18世紀後半になると、浅間山の噴火や悪天候で凶作が続き、各地で百姓一揆が発生。幕府への批判が強まりました。
そこで老中・松平定信は1790年(寛政2年)、出版取締令を出して、幕府の政治への風刺や批判を取り締まりました。
内容は、①時事問題など政治向きの事柄を一枚絵にして発行することは禁止②好色本の絶版③作者不明の書物の売買禁止④古い時代を装って社会の現状を批判した出版物の禁止など。
「本邦新聞史」(朝倉亀三著:国立国会図書館デジタルコレクション)によると、「その作者は直ちに逮捕せられ、斬罪の極刑に処せられしこと、その例、少なからず」ということでした。
顔を隠して売った
「本邦新聞史」(国会図書館デジタルコレクション)から引用。
瓦版を売る人は、用心のために、とんがり帽のような編み笠を目が隠れるほど深くかぶって顔を隠し、必ず2人1組で売り歩きました。
2人のうち1人がダミ声で、浪曲のような節をつけて瓦版の一節を読み上げながら歩き、もう1人は見張り役で、役人が来ないか周りをうかがいながら歩きます。
時には三味線を持った人が加わることもありました。
『お江戸でござる』(杉浦日向子監修:ワニブックス)には、次のように売り方が書かれています。
「編み笠をかぶって2人1組で、お昼ごろに地味に売り歩きます。内容は時事ネタが多く、売り声はありませんが、信ぴょう性があるので売れます。耳打ちするように、「何売っているんだい?」と、売り子に聞くと、こうこうこういうネタが入っているんだよ、と教えてくれるのです。
正規の出版物ではない瓦版は、おかみの取り締まりが厳しいので、地味に歩くほど面白いネタが入っているのでは、と思ってしまいます。ご政道を批判するような厳しいネタだと、取り締まりを恐れて印刷せずに、筆写(ひっしゃ)といって1枚の原稿をみんなで書き写して、パッと売ってサッと解散します。売る側だけでなく買った側も罰せられるので、読んだらすぐに燃やしてしまうのです。」
瓦版のネタ
幕末の1855年(安政2年)10月2日に江戸で発生した直下型の【安政の大地震】の時に出た瓦版の1つ。 (江戸東京博物館で撮影)
一番売れたのは火事
ご政道批判記事を除くと、最も売れたのは「火事」だったようです。
【安政の大地震】では、家屋倒壊と火災で4200人余りが死亡。武家の死者数は不明。
1枚刷りや冊子仕立ての瓦版が匿名で、数百種類出ました。
上の瓦版は、「安政の大地震」で大名の家族が家来もろとも立ち退くところを書いた第一報。(「かわら版物語」小野秀雄著:雄山閣出版から引用)
これは1792年(寛政4年)5月の深夜に発生した大阪の大火の瓦版。黒い部分が焼け跡。(「かわら版物語」から引用)
当時は木造家屋ばかりでしたので、火事ともなれば被害甚大。どこが焼けたのか、知り合いは無事だったのか、知りたいでしょう。
以下はもう1度、『お江戸でござる』からの引用です。
「最も売れた瓦版は、火事の速報をする『焼け場方角附(やけばほうがくづけ)』。どの地域がどれくらい燃えたかをその日に刷って売り歩きます。なぜその日にできたかというと、地図の部分に『切絵図』という既存の版下を使ったから。その上から、燃えたところを赤で塗るのです。これは皆が競って買い求めます。火事のお見舞いに行かなければならないからです。商いのお得意様が無事かどうか、親族が無事かどうかを知って駆け付けます。これを買い求めるのが遅れると、あいつは人情がない奴だということで疎遠になってしまいます。刻々と状況が変わっていくので、二版、三版と刷りが重ねられていきます。」
飛脚が瓦版を地方に運んだ
江戸で発生した火事の地方への連絡は、飛脚(ひきゃく)が担いました。宅配便の元祖ですね。
飛脚には、幕府の書状を運ぶ「公用飛脚」、諸大名が江戸と国元の間で書状や荷物を運ぶ時に使う「大名飛脚」、それに民間の商人が始めた「町飛脚」がありました。
火事を知らせる一枚刷りの瓦版は、町飛脚が運んだのです。
江戸は地方出身者が多いことから、文字を書く道具のない庶民のために「手紙文」も作られました。その文章は――
「一筆啓上つかまつりそうろう。去る21日、神田佐久間町より出火これあり、別図絵図面のとおり町々類焼つかまつりそうろう。まずまず私こと無事にこれありそうろう間、ご案じくだされまじくそうろう。以上」
とあり、火事の瓦版を買おうとする人は、手紙文に日付や名前などを書き込んでもらって、飛脚に運んでもらったそうです。(「江戸の情報屋」吉原健一郎著:日本放送出版協会発行から引用)
飛脚は瓦版屋の情報源だった
「飛脚」は書状を先方に届けることだけが仕事ではありませんでした。配達途中に見聞きしたことを、飛脚を仕立てる「飛脚問屋」におしゃべりしたようです。
瓦版屋はその「飛脚問屋」に出入りして、ネタを拾ったようです。
「かたき討ち」も売れた
兄のかたきを討とうとした妹が、叔父の助太刀でみごと本懐を遂げたというお話。女性によるかたき討ちは珍しかったため、瓦版が数種類出たといいます。(「かわら版物語」から引用)
江戸時代は、父母や兄が殺された時、仕返しとして加害者を殺すことをかたき討ちとかあだ討ちといい、幕府が公認していました。
心中事件も売れた
養父母に対する愛情と妻に対する愛情の板挟みにあった男が、しゅうとめから嫌われている妻と心中した話。(「かわら版物語」から引用)
この世をはかなむ「心中」は徳川幕府による政治を批判するものだ、と幕府はみなし、心中事件を扱った瓦版を厳しく取り締まりました。
でも、売れました。
衰退する今の新聞業界
瓦版を引き継いできたのが、「新聞」です。
憲法によって「表現の自由」が保障されているので、新聞社が政府から言論統制を受けることは今のところありません。
ですが、インターネットの家庭や個人への普及で、だれでも「情報」を発信できるようになって、新聞社が情報を独占した時代は事実上終わりました。
若い皆さんが紙の新聞を読まなくなって、新聞の部数減に歯止めがかかりません。
新聞 販売部数ランキング
最近の「新聞」別の販売部数を表にしてみました。新聞社が発行した部数ではなく、販売店に販売を委託して店から代金をもらった部数です。