「九人の乙女の碑」・・・(2022年5月15日 稚内公園で撮影)
真岡郵便局の跡 (樺太)
目次
「九人の乙女の碑」
「皆さん これが最後です さようなら さようなら」――。
宗谷海峡を隔てて樺太を望む稚内市の高台にある稚内公園。そこに、こう刻まれた石碑がありました。「九人の乙女の碑」です。
何の知識もなくて公園をブラブラ散歩中にこれが目に入ると、ギョッとするでしょうね。そして碑の説明文を読むと、たぶん胸が締めつけられるでしょう。
2022年5月の北海道旅行で、そんな悲しい出来事が72年前にあったことを遅ればせながら知りました。
終戦の5日後に惨劇は起きた
碑には、次のように説明書きがありました。
「この碑は、終戦時、樺太の真岡(まおか:現・ホルムスク)郵便局で通信業務を死守しようとした9人の女性の慰霊のために建てられたものです。北緯50度線でソ連と国境に接していた樺太では、、1945(昭和20)年8月、ソ連軍の不意の攻撃を受け40年間にわたる国境の静寂が破られました。島民の緊急疎開が開始される中、戦火は真岡の町にも広がり、窓越しに見る砲弾の炸裂、刻々と迫る身の危険の中、真岡郵便局の電話交換手は最後まで交換台に向かいましたが、「皆さん、これが最後です。さようなら。さようなら・・・」の言葉を残し、青酸カリを飲み命を絶ちました。終戦5日後、8月20日のことでした。」
真岡(まおか)郵便局事件
真岡郵便局事件と呼ばれる惨劇は、アジア太平洋戦争が終わってから5日後に起きたのです。
事件の舞台は、樺太(いまのサハリン)の南西部の港町、真岡町(まおかちょう)にあった真岡郵便局。
ここの電話交換室に勤めていた17歳から24歳までの女性の交換手が集団で自決したのです。
(注:当時は、「電話局」というものはなくて、郵便局が電話業務を扱っていました)
使命感が強かった電話交換手
真岡郵便局の電話交換室。(樺太記念館の展示物から引用)
戦時中の電話は、戦後しばらくの間もそうでしたが、今のように携帯電話で数字のボタンを押せば相手に直接つながる仕組みではありませんでした。電話機にボタンはついていません。
電話と電話の間に「交換手」と呼ばれる人がいて、交換手が手動で回線をつないだんです。
電話のかけ方は、電話機に付いているハンドルをグルグル回して発電すると「交換手」が応答に出るので、交換手につないで欲しい電話番号を口頭で伝えて申し込みます。すると交換手が手作業で相手の電話番号のジャックに電話線プラグを差し込んでくれ、通話ができるのです。
あの当時は、「情報」をいち早く伝える手段が「電話」でしたので、交換手は使命感が強く、そしてプライドも高く、女性にたいへん人気のある職種だったそうです。
昔、樺太は日本の領土だった
樺太はいま、ロシアが支配していて「サハリン州」と呼ばれているんですね。
もともとはアイヌ民族などが住む土地で、そこにロシア人や日本人が移住して雑居したようです。
日本とロシアが戦った日露戦争後のポーツマス条約(1905年)で、北緯50度以南の「南樺太」が日本の領土になったんです。
大勢の人が移住して、製紙工場で働いたり漁業などに従事しました。終戦時には樺太に日本人が約38万人いたということです。
(注:日本はアジア太平洋戦争後のサンフランシスコ平和条約=1951年=で南樺太の領有権を放棄しました。とはいえ、それで南樺太がソ連(現・ロシア)の領土になったわけではありません。ソ連はサンフランシスコ平和条約に参加していないので現在のロシアには権益を主張する根拠がなく、南樺太はどこの国にも属していない、というのがわが日本の公式見解だそうです。とはいえ、南樺太はいま、ロシアが実質的に統治、実効支配しているんですね。)
ソ連軍が攻めてきた
「終戦の日」は8月15日です。
日本は1945年8月14日の御前会議で、ポツダム宣言を受諾して無条件降伏することを決め、連合国軍側に通告。翌15日の正午、昭和天皇がラジオを通じて国民に伝えました。玉音放送というものです。
これに先立って、ソ連は1945年8月8日、日本に宣戦布告しました。
翌9日には、国境を越えて満州に侵攻しました。
だがしかし、です。
日本とソ連との間には日ソ中立条約(1941年4月締結、有効期間5年)という約束事があって、1945年4月5日にソ連側から1年後に迎える条約の期限は延長しないと通告があったものの、当時はまだ有効で、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦したのです。
そして8月11日、ソ連は北緯50度の国境を越えて南樺太にも侵攻、日本軍の守備隊との戦闘が始まりました。
そればかりか、日本が8月14日にポツダム宣言を受諾して降伏の意思を明確にしたのちも、ソ連軍は攻撃を続けたのです。
さようなら さようなら 9人の最期
9人の最期のようすは、自決の現場を見た人が極めて少ないうえ、関係者で生存している方も数少ないため、いまとなってははっきりしません。
ただ、唯一といってもよいと思いますが、信頼性があって参考になるのは、樺太生まれで北海道の地元紙・北海タイムスの記者だった金子俊男氏の著書「樺太一九四五年夏――樺太終戦記録――」(1972年8月4日発行 講談社)です。
著者は、樺太からの引揚者からの聞き取りや、事件関係者が書いた記録をもとに「樺太終戦ものがたり」と題して「北海タイムス」に長期連載。これに追加取材した内容を加えて出版しました。
以下の記述は、基本的にこの著書の抜き書きです。
真岡郵便局。(金子氏の著書から引用)
事件の舞台は、樺太南西部の真岡町(まおかちょう)の真岡郵便局。
終戦後の8月16日、彼女たちの上司の上田豊蔵・真岡郵便局長に対し、豊原逓信局から「女子職員を緊急疎開させるように」と電話があった。
上田局長は女子職員を集め、ソ連軍が真岡に進駐した後の予想される事態を語り、この町から引き揚げるよう促した。
ところが電話交換手の全員が、電話の機能が止まった場合にどうなるか、重要な職務にある者としてそれは忍びない、と主張して譲らなかった。特に、班長の高石ミキさん(24)が強硬だった。
上田局長はのちに、「私は感動した。しかし、その決意を肯定することはできない。ソ連軍進駐後はどのような危難が女子の上にふりかかってくるかと思うと、私は慄然となる」と書いている。
写真は、送受話器を耳に当てている電話交換手。(九人の乙女の碑)
8月20日午前5時半ごろ、電話交換室の高石さんは、真岡町の北8㌔の幌泊(ほろどまり)監視硝から「ソ連軍艦らしいのが4、5隻、真岡に向かった」という連絡を受け、ただちに関係方面に連絡した。
高石さんから電話連絡を受けた上田局長は、職員に非常招集をかけた。ソ連軍の艦艇は真岡港に突き進み、兵隊の上陸とともに市街地に向けて砲撃を始めた。
電話交換手たちは懸命に通信連絡をしていた。真岡の東、広瀬郵便局の局長夫人は、交換手を豊原に避難させたあと、1人で電話交換台についたが、その時、真岡から豊原の師団司令部へ火急を告げる連絡電話を傍受して、真岡局を呼んだ。
応答があった。可香谷シゲさん(23)の声だった。しかし、その声は銃砲声にかき消されそうになるほど。「外を見る余裕なんかないのよ」。可香谷さんの悲痛な声は、いまでも夫人の耳朶(じだ)にこびりついている。そのころは既にソ連軍は自動小銃や機銃を浴びせながら市街に侵入していたのであろう。夫人はその後も断続的に真岡を呼んだが、午前6時半ごろには回線は砲撃で切断されてしまったのか、不通になった。
真岡の北の泊居(とまりおろ)郵便局の局長の記憶によると、午前6時半ごろ、真岡の交換手、渡辺照さん(17)が「いま、みんなで自決します」と知らせてきた。
局長は受話器を固く握りしめて「みんな死んじゃいけない。絶対、毒を飲んではいけない。生きるんだ。白いものはないか、手ぬぐいでもよい、白い布を入り口に出しておくんだ」と懸命に叫んだ。涙声で同じ言葉を繰り返した。しかし、その声を、ひときわ激しさを増した銃砲声が吹き飛ばした。
「高石さんはもう死んでしまいました。交換台にも銃弾が飛んできたし、もうどうにもなりません。局長さん、みなさん・・・・・、さようなら。長くお世話になりました。おたっしゃで・・・・・、さようなら・・・・・。」
局長も交換手も顔を覆って泣いた。無情に、電話が切れた。だれかが「真岡、真岡、渡辺さん・・・・・」と呼んだが、応答はなかった。
9人の名前。(九人の乙女の碑)
悲劇の現場、真岡郵便局の上田局長は、泊まっていた真岡郵便局分室で交換室の高石ミキさんから緊急電話を受けると、自らも郵便局に駆け付ける途中、銃撃を受けて腕にけがをし、ソ連兵に海岸の倉庫に連行された。しばらくすると、交換手の1人が駆け寄って来て「局長さん、高石さんら宿直の交換手全員が自決したらしいんです」と叫んだ。
上田局長は見回りに来たソ連軍将校に、部下の局員の遺体を引き取るために郵便局舎に入ることを認めて欲しいと訴え、8月23日に立ち入ることが認められた。
局舎に入り、階段を駆け上って交換室の戸を開けた。真っ先に目に飛び込んできたのは班長の高石ミキさん(24歳)の遺体だった。机の上にはその日の交換証のつづりと事務日誌がきちんと重ねられて、そのわきに睡眠薬の空き箱が2つ転がっていた。
吉田八重子さん(21)は市外交換台にプラグを握ったままうつ伏せになり、隣の市外交換台前では、コードをつかんだままの渡辺照さん(17歳)が横倒しになっているイスの上に覆いかぶさるようにして死んでいた。この2人はブレスト(ヘッドホン式の送受話器)を頭に付けたままで、最後まで他局からの呼び出しに応じるため、薄れゆく意識の中で、交換台にしがみついていたのだろう。プラグを握り、コードをつかんだ右手の指先に、彼女らの仕事に対する執念を見た思いだった。
可香谷シゲさん(23歳)、伊藤千枝さん(22歳)、沢田キミさん(19歳)、高城淑子さん(19歳)、志賀晴代さん(22歳)の5人は、肩を寄せ合って倒れていた。
松橋みどりさん(17歳)は南側の窓ぎわで亡くなっていた。最期の瞬間まで、生きたい、と願ったのだろうか。
睡眠薬の空き箱があることからみて、最期を見苦しくしたくないという気持ちから、睡眠薬を飲んでから青酸カリを飲みくだしたのだろう。
9人は白っぽい制服にモンペを着けていた。午前3時に就寝したはずだから、熟睡中を起こされたであろうに、その乱れはみじんも見受けられなかった。
交換台には5、6発の弾痕があった。街には激しい銃声とともに恐ろしいソ連兵が押し寄せている中で、若い乙女たちにして、自ら命を絶つ以外、道があっただろうか。
自決しなかった交換手のベテランは当時、真岡郵便局長に対し、「交換手のほとんどが万一の時の用意として、工務の技術官駐在所から青酸カリをもらって所持していた」と話していた。
交換手たちが自ら命を絶ったわけは?
碑がある稚内公園に咲く花。
北海道の女子高生が、自分と同じ世代の女性がどうして自ら命を絶ったのか知りたいと考え、自決した電話交換手の元同僚、栗山知ゑ子さん(93歳)から話を聞いています。
NHKのHPの「戦跡――薄れる記憶――」というサイトに載っていました。
栗山さんは9人が自決する数日前に、家族と一緒に本土に疎開するため電話交換手の仕事を止めていました。
女子高生が「もし栗山さんが9人が自決した8月20日に一緒にお仕事をされていたら、どのような判断をされましたか」と聞くと、栗山さんの返事は「やっぱり同じことをやったでしょうね。1人だけ嫌だって逃げるわけにはいかないんでね」。
納得できない女子高生は、さらにこう続けます。
「もし私が同じ時代に生きていたら、自分のやりたいこともあるし、未来もあるので、1人だけでも薬を飲まずに助かりたいと思うんですけど、なぜ一緒に自決しようというかんがえになるんですか」。
すると栗山さんは一瞬、言葉に詰まる様子をみせてからこう話しました。
「当時は、戦争に負けて、もしロシア兵が入ってきたら、女の人をみんな倒して体に触られるとかっていうのを聞かされていたんだよね。」
つらい話をしてくれたことに丁寧にお礼を伝え、栗山さんの家を後にしました。女子高生は「9人は本当は生きたかったんだ」という思いに至りました。
「氷雪の門」という碑。「九人の乙女の碑」の隣にあります。
碑の左端の面には、9人の名前入りのプレートと、碑文がはめ込まれています。
碑文の末尾は、「昭和38年8月15年」「稚内市長 浜森辰雄」「寄贈 東京都・本郷新、 札幌市・上田佑子」と記されています。
碑の右端の面には、送受話器を耳にかけた交換手のレリーフです。
★沖縄戦でのひめゆり学徒隊のこと、ソ連軍の満州侵攻時の暴行、そして現在進行形のロシア・プーチンによるウクライナ侵略のこと、数々の悔しいことが脳裏を駆けめぐる旅でした。