北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスに登っていたころの写真記録、国内外の旅行、反戦平和への思いなどを備忘録として載せています。

国立競技場に立つ「学徒出陣」の碑

 国立競技場にある石碑。

 

 

 

「出陣学徒壮行の地」という記念碑が建つ国立競技場

 

 東京・新宿の国立競技場の敷地内に、学徒出陣の記念碑があるということを知って、見てきました。

 

 碑の名前は、「出陣学徒壮行の地」。高さが3メートルもある立派な石碑でした。

 

 国立競技場は、アジア太平洋戦争(1941年12月~1945年8月)の時は明治神宮外苑競技場と呼ばれていて、在学中に徴兵されて戦争に行く大学生たちの「壮行会」が開かれました。

 79年前の1943年10月21日のことです。

 

 明治神宮外苑競技場は敗戦後、解体されて国立競技場ができましたが、その一角に、生還した有志が1993年10月、「出陣学徒壮行の地」の碑を建てました。「歴史的事実を語り継ぐ」ためでした。

 

 その国立競技場も古くなって建て替える時に、記念碑も別の場所に移されていたのですが、2年前に、もとあった位置に戻ってきたとのことです。

 

目次

 

 

 

 

 

戦前・戦中は「徴兵制度」があった

 出陣学徒壮行会。(国立公文書館所蔵「写真週報296号 昭和18年11月3日号」から引用)

 

 

 

 アジア太平洋戦争が終わる1945年までは、日本に徴兵制度がありました。

 満20歳になった男子は、徴兵検査を受けることが義務付けられ、合格すれば軍隊に入ることになっていました。

 ただし、大学生と高等専門学校生徒については、満26歳まで徴兵を猶予されていました

 

 ところが戦況が悪化し、少尉など尉官クラスの不足を補うために、東条英機(とうじょうひでき)内閣1943年10月2日、学生・生徒の徴兵猶予を全面的に取り消す勅令(=天皇の命令)を公布して、10月12日の閣議で、理科系・教員養成系以外学・高等専門学校満20歳に達した学生・生徒を、在学途中で徴兵することを決定しました。

 

 学生・生徒は本籍地で徴兵検査を受け、合格者は在学中、あるいは繰り上げ卒業で、1943年12月から、「学徒兵」として軍隊に入りました。

 

 

 

明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会

 明治神宮外苑競技場での出陣学徒壮行会。(「学徒出陣 戦争と青春」1998年 吉川弘文館発行から引用)

 

 

 

 文部省は「戦意高揚」のため、1943年10月21日、明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会を実施。これを手始めに11月末までに、大阪、仙台、神戸、名古屋、京都、札幌の6都市でも開催しました。

 

 

 

 「10月21日」の神宮外苑での壮行会の様子は、NHKが2時間にわたってラジオで実況中継したほか、宣伝用の映画「学徒出陣」が制作され、軍部による大衆扇動が行われました。

 

 土砂降りの雨の中、観客席を埋めたのは、黒っぽいスカートに白いブラウス姿の女子学生、徴兵が猶予された理系の学部生ら約5万人でした。

 

 そこに入場してきたのは、東京帝国大学(現・東大)を先頭に、南関東1都3県の出陣学徒、77校の約2万5000人(数は当時、機密事項)。

 詰め襟の黒の学生服に角帽、すねの部分にはカーキ色のゲートルを巻いた姿で、肩に三八式(さんぱちしき)歩兵銃を担いで泥しぶきをあげて陸上トラックを行進し、東条首相の閲兵を受けました。

 

 ダッ、ダッ、ダッという勇ましい足音は、全国の映画館で映し出され、これをみた若者を「よし、オレも行くぞ!」という気持ちにさせたようです。

 

 東条首相による訓示の後あと、東京帝大文学部の江橋慎四郎(えばししんしろう)「生等(せいら)もとより生還を期せず」と、命をなげうつ覚悟を示した答辞を読みました。

 

 

 

退場する出陣学徒に駆け寄った女子学生たち

 閉会後、出陣学徒が退場のため行進してゲートに差し掛かった時のことを、当時、旧制千代田女子専門学校(現・武蔵野大学)1年生だった作家の杉本苑子が次のように書いています。

 

 「・・・私どもはずーっと軍国主義教育の真っただ中に育ってきましたから、学生たちが去って行く時、カチカチに感激してしまいました。涙をボロボロこぼし、わあわあ泣きながら、みんなは、雪崩を打ったように学生たちの方へ駆け出しました。・・・あの日、行く者も残る者も、ほんとうにこれが最後だと、なんというか、一種の感情の燃焼がありました。この学生たちは一人も帰ってこない、自分たちも間違いなく死ぬんだと」(「サンデー毎日」1973年10月28日号)

 

 壮行会の後、学生らは徴兵検査を受け、1943年12月に陸軍に入営、または海軍に入団しました。

 

 

 

学徒兵の戦没者数は?

 国立競技場・千駄ヶ谷門近くにある石碑。

 

 

 全国で、学徒兵として出征した人の数は、日本政府はつかんでいません。敗戦が決まった途端、軍部や政府機関はGHQから戦争犯罪人として摘発されるのを免れるために書類をほとんど焼いています。大学も空襲に遭ったり戦後の学制改革時に資料をなくしたけーすもあるようです。

 「学徒動員」の全体像は分からなく、各大学の調査に期待するしかないようです。

 

 

 

京大の場合

 大学独自の出陣学徒壮行会(1943年11月20日)のあと、分列行進で正門を出る出陣学徒。(「京都大学百年史 写真集」から引用)

 

 京都帝国大学(現・京大)の場合、大学文書館の調査によりますと、在学の身分のまま入隊した出陣学徒数は、4440人戦没者は252人で、学部別の内訳は、法学部109人、経済学部63人、文学部46人、農学部26人、工学部4人、医学部3人、理学部1人。全入隊者の6%弱が戦没した計算になります。

 ただ、「学内資料の記載事項にも不十分な点があり、他の資料と突き合わせることによって、合計がもう少し増えると考えられる」と付記されています。

(データは、京都大学大学文書館企画展「京都大学における学徒出陣」=2006年開催=からの引用)

 

 

 

 

東北大の場合

 東北帝国大学出陣学徒壮行式。1943年10月8日、片平キャンパスの運動場。総代として答辞を読んだ学生(上の写真)は1945年4月、沖縄近海で特攻作戦「菊水1号作戦」で出撃して戦死。(東北大学史料館紀要第11号2016年3月発行から引用)

 

 

 東北帝国大学(現・東北大)は文部省主催の壮行会に先立つ1943年10月8日、独自に壮行式を実施。

 「1943年12月に陸海軍に法文学部学生767人が入隊したが、その後の入隊者を含めると、入隊者は終戦までに千数百人まで膨らんだと思われる。学徒出陣者の戦没数は、100人を軽く超えると推測される」と、史料館紀要第11号に書かれています。

 

 

 

 

慶応大の場合

 1943年10月21日、明治神宮外苑競技場の出陣学徒壮行会で行進する慶應義塾大学生の先頭集団。他大学の角帽に対し、丸帽で人数も多いため目立ったそうだ。(「太平洋戦争と慶應義塾慶應義塾大学出版会1999年発行 から引用)

 

 

 軍事教練で日吉キャンパス第一校舎前を行進する予科生。

 

 

 慶応義塾大学では、出陣学徒壮行会以降の出陣学徒数は約3500人と推測されており、「現在までに分かっている範囲で、在学生の385人が戦没している」と記録されています。10%以上が亡くなっている計算です。

(「塾」2016年WINTER=慶應義塾広報室編集=)から引用。(上の写真も)

 

 

 

 

東大、一橋大の場合

 蜷川壽惠『学徒出陣 戦争と青春』(1998年、吉川弘文館)によりますと、東京帝国大の場合、1943年12月の入隊者は、2884人で、戦没者は279人戦没率は9.6%

 もう一つ、京商科大(現・一橋大)は、821人入隊し、75人が戦没戦没率は9.1%となる。

 このため1943年12月の入隊者総数を大まかに5万人と考えると、2大学の平均値9.3%を乗じて、約4600人が出陣学徒戦没者と推定される、と書いています。

 

 

 

 

 

答辞を読んだ東京帝大生のその後

 生等(せいら)、もとより生還を期せず」という、いまや有名な言葉なった決別の辞を残して軍に入った東京帝国大学江橋慎四郎さん。その後、どんな歩みをしたのか、少し気になりました。

 

 

 調べると、戦後も重責を担われていました。

 

 毎日新聞が、あれから70年後の2013年に、取材に応じてもらっていました。

 「毎日」によりますと、江橋さんは壮行会後の1943年12月、陸軍に入営。配属されたのは、戦闘機の性能を検査する陸軍の「航空審査部」でした。航空整備兵として立川市の基地など国内を転々とし、戦地に向かうことなく少尉で終戦を迎えました。

 戦後、文部省体育局勤務を経て東大教授。その後、日本初の国立の体育大学である「鹿屋(かのや)体育大学)」の創設に尽力して初代学長に就任していました。

 「毎日」の取材に対して、これまで沈黙を保っていたことについて「僕だって生き残ろうとしたわけじゃない。でも、『生還を期せず』なんて言いながら死ななかった人間は、黙り込む以外、ないじゃないですか」と語っています。

 江橋さんは「わだつみ会」にも軍人会にも入ることなく、97歳で心不全のため亡くなりました。

 

 

 

 

「10.21国際反戦デー」へ

 神宮外苑で出陣学徒壮行会が行われた「10月21日」は、戦後の一時期、「国際反戦デー」とされ、反戦集会やデモ行進が全国で繰り広げられました。

 

 

 

ベトナム戦争反対」がきっかけ

 「出陣学徒壮行会」が行われた「10月21日」という日はその後、「じゅってんにいいち」という祈念日になります。「左翼」(←今や死語)にとってですが・・・。

 

 「10.21(じゅってん・にいいち)国際反戦デー」のきっかけをつくったのは、日本社会党という政党の支持基盤で、労働組合の全国組織だった総評日本労働組合総評議会)でした。

 

 東南アジアの「ベトナム」では戦後、北緯17度線を境にして南北に勢力が分かれていたのですが、米国は1965年、ベトナム全土の共産化は東南アジアの共産化につながると判断。南ベトナム政府を支援して北ベトナム空爆し、ベトナム戦争を始めました。

 

 「北爆」はその後も続いたため、総評は1966年10月21日、米軍による北爆に抗議する「ベトナム反戦統一スト」を実施。世界各国の労働組合ベトナム反戦への連帯行動を呼びかけました。

 

 以後、この日は「10.21国際反戦デー」となり、毎年東京での中央集会のほか、総評傘下の各県評(県労働組合評議会)が集会やデモ行進を実施しました。

 

 当時は学生運動が活発で、沖縄返還協定反対闘争では全学連全日本学生自治会総連合)各派(日共系・革マル派中核派社青同解放派)が県評のデモ隊のケツにくっつくか、別会場で独自集会を開いてデモをしました。

 学部自治会旗を振りながら車道をジグザグ行進すると、ジュラルミンの盾を持った出動服姿の機動隊にサンドウィッチ規制され、「諸君の行動は道路交通法違反である。止めないと全員検挙する!」と脅されたものです。

 時は流れ、1980年代以降は総評の分裂・解体、日本社会党の解党、学生運動の衰退で、沖縄県以外では影も形もなくなったと思います。

 

 

 「出陣学徒壮行の地」の石碑のわきにある説明版です。

 

 

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