北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスに登っていたころの写真記録、国内外の旅行、反戦平和への思いなどを備忘録として載せています。

映画「永遠の0」の舞台の「筑波海軍航空隊」跡地を散策した

 旧・筑波海軍航空隊司令部庁舎 (2022年9月17日撮影)

 

 

 

 

 「永遠の0(ゼロ)」という特攻隊を扱った映画が10年ほど前に大ヒットしました。

 岡田准一が、主人公の「ゼロ戦」搭乗員を演じました。「生きて家族のもとに帰る」という強い意思を抱きながらも、筑波海軍航空隊での教え子が次々と特攻隊で死んでいくなかで、結局は「戦争」の渦には抗しきれずに妻との約束を果たせなかったという不条理を描いた作品でしたね。原作は百田尚樹のベストセラー「永遠の0」。たくさんの人の心を揺さぶりました。

 

 その映画のロケが行われたのが、茨城県笠間市にある筑波海軍航空隊の司令部庁舎

 

 映画は架空の物語ですが、「筑波海軍航空隊」は実際に戦時中に存在した海軍部隊です。「神風特別攻撃隊」がここでも編成されて、73人の二十歳そこそこの若い男性が沖縄やフィリピンに向けて出撃。命を落としました。

 

 いまも戦争遺跡がのこる航空隊の跡地を9月17日、散策してきました。

 

 

目次

 

 

 

 

 

「史跡」になった「筑波海軍航空隊」施設

 司令部庁舎の全体像

 

 映画のロケが行われたのは、司令部庁舎です。

 岡田准一さんはこの航空隊の「教官」で、学徒出陣で入隊させられた大学生らに「ゼロ戦」の操縦方法を指導するという役回りでした。

 

 司令部庁舎は「永遠の0」のロケの直前まで、茨城県立病院として使われていましたが、別の場所に移転ずみ。ロケが終わったら古い司令部庁舎は取り壊されることに決まっていたのですが、映画は2013年12月に公開されると大ヒット。一般公開された司令部庁舎には見学者が大勢詰めかけました。

 

 そこで目覚めたのが、地元・笠間市。「司令部庁舎」は保存する価値があると認識するようになり、市長や市議会議長が知事に、取り壊さないで存続させるよう陳情。これが認められて、笠間市は2018年、司令部庁舎を文化財に登録し、「史跡」として保存することにしたのです。

 

 戦争遺跡といえる「遺構」は、司令部庁舎のほかに、号令台、滑走路、地下戦闘指揮所などがあります。

 

 

 

 

ゼロ戦」搭乗員の訓練部隊だった

 ゼロ戦」の胴体部分の残骸。機体全体の4分の1相当。ラバウル航空隊に所属していた機とみられ、ソロモン諸島で回収されました。

 司令部庁舎の隣の「展示室」で公開されています。

 

 

 

 筑波海軍航空隊は1934年(昭和9年)、戦闘機に乗る操縦士の教育訓練をする部隊としてスタートしました。「霞ヶ浦航空隊」の「友部(ともべ)分遣隊」として編成され、1938年に筑波海軍航空隊となりました。

 

 当初は、「赤トンボ」と呼ばれた、機体がオレンジ色に塗られた飛行機で操縦を練習。敗戦色が濃くなった1944年春からは、「ゼロ戦」を使って訓練を始めました。

 

 

 

 

 

筑波海軍航空隊で訓練を受けた73人が神風特攻隊で死んだ

 「展示室」にある写真

 

 

 戦況が悪化してくると、筑波海軍航空隊でも神風特別攻撃隊が編成されました。

 

▼1944年11月19日

 大本営(=天皇直属の最高統帥機関)は、戦闘機の練習航空隊だった筑波茨城県、神ノ池(茨城県)、大村(長崎県)、元山(北朝鮮)の各航空隊に、「特攻隊」の編成を命令しました。爆弾を抱えた戦闘機ごと米艦船に体当たりする部隊です。

 筑波海軍航空隊からは、「教官」を中心に編成された特攻隊25人がフィリピンに転出し、神風特別攻撃隊「金剛隊」と名付けられました。

 25人のうち13人がフィリピンの海に突っ込んで戦死しました。

 

 

▼1945年2月10日

 筑波海軍航空隊では予備学生出身者64人だけで、神風特別攻撃隊を編成することになり、特攻隊員の「名簿」が発表されました。1隊8機編成で、8隊、計64人です。急降下など特攻のための訓練が筑波で始まりました。

 ※海軍予備学生=学徒動員令で海軍に召集された大学生らで、操縦訓練を受けた後、「少尉」になりました。

 

▼1945年2月28日

 筑波海軍航空隊司令の中野忠次郎大佐がグラウンドの「号令台」に上がり、整列した特攻隊員に対し、「神風特別攻撃隊・筑波隊」と命名したことを告げました。

 

▼1945年3月28日

 神風特別攻撃隊「筑波隊」に海軍兵学校出身者20人があらたに組み込まれました。これで沖縄戦」のための特攻隊員は総勢84人になりました

 上の写真には、下の説明が付いていました。

 

▼1945年4月1日

 米軍が沖縄本島に上陸開始しました。

 

▼1945年4月5日

 「筑波隊」の第一陣20機が、鹿屋(かのや)基地(鹿児島県)に移動。

 

 

▼以後、筑波隊は続々と鹿屋基地に移動。

 「沖縄戦」のために出撃した筑波からの特攻隊員84人のうち60人が6月22日までに沖縄近海で戦死しました。

 

 フィリピン近海で死んだ「金剛隊」13人を合わせますと、筑波海軍航空隊で操縦訓練を受けた二十歳そこそこの青年73人が、沖縄周辺やフィリピン海域で米艦船に突入を図って戦死したわけです

 

 

 

 

 

いまも残る遺構の数々

 筑波海軍航空隊の敷地の中には、数多くの戦跡が、ほぼ当時のままの状態で残されています。1つひとつ、見ていきました。

 

 

 

司令部庁舎

 案内版から接写。屋上に軍艦旗

 

 

 司令部庁舎は、戦後、1946年から旧制水戸高等学校の校舎、1960年からは県立友部病院の管理棟としてそれぞれ使われました。

 

 2018年12月、笠間市教育委員会は市の史跡に指定し、文化財として保護することに決定。管理を民間会社に委託しています。

 

 司令部庁舎の中の階段

 

 

 

 茶色の大きな扉は、海軍時代から残る書庫

 

 窓は昔のまま

 

 

 

 

 

 


滑走路は生活道路に

 滑走路は3本ありました。風向きによって、使う滑走路を変えるのは今も昔も同じ。

 いまは生活道路になっています。

 

 

 上の図の①と②が交差するところがガソリンスタンドです。

 右の道路が図の①で、長さ800㍍の滑走路

 左の道路が②で長さ700㍍の滑走路

 

 

 

 ①の800㍍滑走路

 

 ②の700㍍滑走路

 

 図の④の500㍍滑走路。

 以上、①②④の3本の滑走路の幅はいずれも「40㍍」でしたが、現在は道幅が狭くなっています。

 

 

 

 図の③の道ですが、ここは滑走路ではなく、格納庫から出してきた機の待機路ではないかと思われます。この道路の左側が格納庫がありましたから。

 

 

 

 

格納庫跡

 格納庫前のゼロ戦

 

 格納庫があった場所は、国土交通省友部航空無線通信所になっていてオフ・リミット

 

 

 

号令台

 グラウンドに残る「号令台」

 

 

 

正門の門柱

 筑波海軍航空隊の正門

 

 昔の「正門」の写真。正門の奥は桜並木。

 正門を通ると右手に「衛兵詰め所兼面会所」がありました。特攻が決まった隊員の家族はこの面会所で別れの挨拶したとか、出撃に間に合わなかった、という話も聞きます。

 

 

 

 

筑波神社跡

 航空隊の敷地内にあった「筑波神社」の跡。この岩の塊は、鳥居の基礎部分。戦後、住民が壊したそうです。ここで特攻隊が編成されていたことから、住民はGHQによる追及を恐れたのかもしれません。

 

 「展示室」で接写。写真説明は、下

 

 

 

 

コンクリート

 

 

 

 

 

「地下戦闘指揮所」は8月から公開された

 地下戦闘指揮所の入り口。2022年8月から公開されたばかり。この地下要塞は、司令部庁舎から1㌔南の杉林の中にありました。

 

 

 米軍による空襲で、司令部庁舎を使えなくなった時のために造った「地下要塞」ということです。どれほど意味があるのか知りませんが、当時は当時なりに、必死だったんでしょうね。

 1945年2月に完成しましたが、使うこともなく、戦争終結。ほぼ当時のまま残っています。

 

 

 地下戦闘指揮所と名付けられている地下壕は、公開前はこんもりとした山の上に直径20~30㌢もの木が何本も植わっていましたが、公開直前に伐採され、駐車スペースも確保されています。

 

 

 

 中に入ります。薄明りはつけられています。

 

 入ったすぐのところは、緩やかな傾斜です。

 

 通路わきの説明板。「北側通路」から入りました。

 壕の中には、かまぼこ型の部屋が6つあります。両脇が通路。奥行きは30㍍です。

 出入口は4カ所あるんですが、うち2ヶ所は墓地になっているため使用していませんでした。

 

 

 大部屋ですね。

 

 

 隣の小部屋への入り口

 

 

 

 小部屋①です

 

 通気孔がありました

 

 

 いったん、南側通路に出ました

 

 

 「通信室」だそうです

 

 

 

 

 

 また、大部屋

 

 

 

 

 

 

 

 出口です

 

 

 地下壕の外に出て、小山の上を見ると、排気孔らしきものがありました

 

 

 

 上の2つが、使用禁止の出入り口です。お墓の側からの写真です

 

 

 こんもりとしたところが地下戦闘指揮所です。

 造り方は、まず、もともと平地だったところをプールのように2㍍ほど長方形に掘り下げます。そして木の枠を使ってコンクリート製の部屋を次々と造り、天井部分には土を盛ってカムフラージュしました。

 

 

 

地下応急治療所

 これは「非公開」になっていて、私も見ることはできませんでした。

 「地下戦闘指揮所」と同じような造りだそうで、2015年に発見された時は、短期間、公開されたようです。

 当時の記録によりますと、場所は地下戦闘指揮所のすぐ近くの杉林の中。かまぼこ型で広さは16畳ほど。戦時中は実際に包帯や薬の便が常備されていたようです。

 ここは戦後、地主が盛り土を削って周りと同じように平らにしたため、長い間、部外者に知られませんでした。

 「私有地」にあるようで、所有者が一般の人が立ち入るのを嫌がっているのかもしれませんね。

 

 

 

筑波海軍航空隊司令部庁舎は、「筑波海軍航空隊記念館」という名称で一般に公開されています。入場料が必要です。

 現地にJRで行く場合は友部駅で下車。バスで10分の距離ですが、本数が少ないため、私は駅前で自転車を借りました。

 

 

 「特攻隊」をカッコイイと感じる人もいるようですが、それは違いますね。悲しみだけです、もたらされるのは。

 アジア太平洋戦争の遺構は、「戦争」が何をもたらすかということを、明日の日本を担う子どもたちに考えさせるきっかけになると思うんですが、いかがでしょうか。

 

 

 

 

 

 

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