北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスに登っていたころの写真記録、国内外の旅行、反戦平和への思いなどを備忘録として載せています。

30年前にカンボジアのプノンペンの街を撮影

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 プノンペンで見かけた子どもたち(1991年7月9日撮影)

 

 

 カンボジアは、世界遺産アンコールワットやアンコールトムがある国です。

 そのカンボジアの首都プノンペンに、30年前の1991年7月に行きました。世界遺産の写真は撮っていませんが、プノンペンの街の様子を撮影していますので備忘録としてアップしました。

 

 長い間続いた「内戦」が終わりかけていた時期で、日本政府は国連の要請もあって自衛隊の海外派遣を検討。自民党社会党公明党民社党の4党の政策担当責任者がカンボジアという国を見に行く❞というので、同行したわけです。

 

 極端な共産主義を目指したポル・ポト派による大虐殺という暗い過去を背負っている国ですが、プノンペン市内でカメラを向けた時の子どもたちの表情がとても明るかったのが印象的です。

 

 

目次

 

 

 

 

 

 

マレーシア(1991年7月7日)

 成田空港発の日航機でマレーシアに向かいました。

 

 

 写真は、クアラルンプール市内。

 

 カンボジアに向かおうとしているのは、

加藤六月自民党政務調査会長伊藤茂社会党政策審議会長▽二見伸明・公明党政審会長▽中野寛成民社党政審会長――の4人。

 

 

 一行は、7月7日はクアラルンプール市内に泊まりました。

 

 

 

マレーシア(7月8日)

 翌8日、クアランプール市内の外務省で、アブドラ・バダウィ外相と会談。カンボジア和平の見通しについて意見交換しました。

 

 

 

以下、クアラルンプールの街の様子です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一行は8日夕刻、マレーシアからタイに向かい、バンコク市内に泊まりました。

 

 

 

カンボジア(7月9日)

 タイ・バンコクから空路、カンボジアに向かいました。

 

 これがカンボジアプノンペン上空です。

 

 立派な建物が見えます・・・。

 

 

 プノンペンポチェントン国際空港に着陸しました。向こうにヘリが見えます。

 空港の名は、2003年から「プノンペン国際空港」に改めています。

 

 

 

 

 管制塔とその他の空港施設。

 

 

 駐機すると、空港スタッフらしき人が大勢、機に向かって歩いてきました。

 

 

 タイ・バンコクから乗ってきたプロペラ機。

 

 

 4党の政策責任者は、空港の一室でこれからの行動の打ち合わせ。

 

 

 ドアの上に、額縁。

 

 額の人は、ヘン・サムリン。「内戦」の時は親ベトナムの「ヘン・サムリン政権」を樹立して、カンボジア国家元首になった人です。

 

 

 「ポチェントン国際空港」を出て、市街地に向かいます。

 

 

 

 乗用車もダンプカーもバイクも三輪車も・・・。

 

 

 自転車の荷台はなんでしょう・・・。

 

 

 カンボジアの首相府ヘン・サムリン政権のホー・ナム・ホン外相(右端)と会談しているシーンです。

 

 

 

 首相府の出口。

 

 

 

 見えてきたのは、本日の宿泊所、ホテルカンボジアーナ

 メコン川とトンレサップ川の合流地点の右岸に建つ6階建ての高級ホテルです。前年の1990年にオープンしたばかりでした。

 

 

 客室。

 

 

 客室からは、王宮やメコン川を眺めることができるぜいたくなホテルです。

 

 しかし・・・目の前の川のほとりには、かやぶきの家が・・・。決して暮らしぶりは豊かではありませんね。

 

 ホテルカンボジア―ナの1階ロビーに展示されている模型は、超有名な「アンコールワット」ではなくて、アンコールトムの中心地にあるバイヨン寺院だと思われます。

 

 

 王宮。

 

 

 王宮の近くで遊んでいた子どもたち。

 

 みんな、ハダカん坊だね。暑いからね。

 

 

 くだものを売っています。

 

 

 街の風景・・・

 

 

 

 

 

 

 笑顔なんですよね。

 

 この人もニコニコ。車体に「みろく屋」って書いてあります。

 

 

 写真は、カンボジア迎賓館でのチア・シム国会議長(長椅子の右の人との会談場面。


 カンボジア迎賓館の外観。

 

 

 写真は、独立記念塔

 1953年にフランスから独立して「カンボジア王国」となったのを祝って、シアヌーク殿下が建造したモニュメント。

 

 

 アパートでしょうかね。

 

 

 

 カンボジア国立博物館。王宮の隣。

 

 ニッコリ。

 

 アパートですね。窓に腰かけている子も。

 

 

 

カンボジア(7月10日)

 床屋さん。読書しながら客待ちのよう。

 

 

 

 

 トンレサップ川にかかっている壊れた橋は「日本・カンボジア友好橋」です。通称、日本橋――。

 1963年に日本の資金援助で建設され、プノンペンと地方を結ぶ大切な道になっていましたが、「内戦」で1972年に爆破され、通行できなくなりました。

(その後、カンボジア政府からの要請で日本政府は約28億円の無償資金協力を行い、日本橋」は1994年2月に復活しているとのことです。)

 

 

 

 

 

 プノンペンの空港。

 

 プノンペンからタイ・バンコクに向かいます。

 

 さようなら、カンボジア・・・

 

 

 国会議員の一行はバンコクに着いたのち、タイ外務省でアーサー・サラシン外相と会談しました。

 

 

タイ(7月11日)

 一行は、バンコク市内の滞在先のホテルで、ソン・サン派ソン・サン首相と会談。続いて、市内のシアヌーク派事務所で、ラナリット殿下と会談。さらに市内のタイ首相官邸でアナン首相と相次いで会談しました。

 

 

帰国の途(7月12日)

 午後7時すぎ、成田着のタイ国際航空機で帰国しました。

 

 

 

 

カンボジアの歴史

「内戦」の歩み

 

 カンボジアは第二次大戦後、シアヌーク国王の下でフランスから独立しました。

 その時、隣のベトナムでは、領土が「北ベトナム」と「南ベトナム」に分かれて対立。

 

 そうしたなかで、共産党政権の「北ベトナム」は、「南ベトナム」を吸収して1つの国にしようとして、南ベトナム解放民族戦線」(通称:ベトコン)による南ベトナムでの反政府活動を支援しました。

 

 これに対してアメリカは、「ベトナム全土の共産化は、東南アジア全域の共産化につながる」というドミノ理論に基づいて、これを阻止するとして1965年から本格的に軍事介入。北ベトナムへの空爆(=北爆)をはじめ、地上部隊を南ベトナムに派遣して全面的な戦争に突入しました。これがベトナム戦争です。

 

 

ベトナム戦争の影響があった

 アメリカが北ベトナムと戦争を始めた時、カンボジアはどちらの陣営にも肩入れせず、北ベトナム軍がカンボジア領内を通って南ベトナムの「ベトコン」に武器など軍需物資を届けるのを黙認しました

 

 これに怒ったのがアメリカです。

 

 1970年3月アメリカはシアヌーク殿下が国を留守にしてモスクワを訪問している間に、親米派ロン・ノル将軍を後押しして軍事クーデターを起こさせ、シアヌーク殿下を追放政権を掌握させました

 そしてカンボジア国内を通る北ベトナム軍をたたきつぶすために、ロン・ノル政権は米軍機が自国領土を爆撃するのを許容したのです。

 

ここから23年間の「内戦」が始まりました。

 

 

内戦状態

 1970年4月、アメリカのニクソン大統領は米軍をカンボジアに侵攻させました

 北ベトナム軍が南の「ベトコン」支援のための物資補給ルートである「ホーチミン・ルート」を遮断する、という狙いからで、ベトナム戦争カンボジアにまで拡大しました

 

 同時に、カンボジア国内は、ロン・ノル政権とシアヌーク殿下の旧政府軍、ポル・ポトの率いる「クメール・ルージュ」の三つどもえの内戦状態になりました。

 

 しかし、1973年3月、アメリカのニクソンは国内外の反戦運動の高まりで、「南ベトナム」からの撤退を宣言し、後ろ盾を失ったロン・ノル政権は弱体化。

 

 1975年4月南ベトナムサイゴンが陥落、ベトナム北ベトナムによって統一されると、こんどはポル・ポト派ベトナム軍の支持を得てカンボジアの首都プノンペンに乗り込みました。

 変わってできたのがポル・ポト政権で、旧ロン・ノル軍の兵士をことごとく処刑しました。

 

 ポル・ポト政権は、「原始共産主義」という思想を掲げて貨幣・私有財産を廃止。プノンペンの病院、学校、図書館、寺院などを封鎖。都市住民を農村に強制的に移住させ、農業に従事させました。

 このポル・ポト政権は、教育を受けた人々の「反抗」を警戒して、僧職や医師、学者、教員ら「知識人」や技術者を特に敵視。4年足らずの間に約170万人を拷問や飢え、病気で虐殺しました。

 

 1978年にポル・ポト派幹部だったヘン・サムリンベトナムに助けを求め、ベトナム軍がカンボジアに侵攻。1979年1月ポル・ポト派はタイ国境のジャングルに敗走し、親ベトナムン・サムリン政権」ができました。

 

 その後も内戦は続きましたが、1991年に国連の主導によって紛争当事者間で和平が実現。1991年10月パリで、内戦を繰り広げていた4派(ヘン・サムリン政権、シアヌーク派、ソン・サン派ポル・ポト派)が和平協定を結びました。

 与野党の政策担当責任者が「カンボジア」を下見に行ったのはこのころです。

 

 

 その後、国連は1992年に国連カンボジア暫定機構(UNTAC)を設立して、停戦や武装解除の監視、選挙を行うPKO(国連平和維持活動)に着手しました。

 

 日本は、UNTACの要請を受けて、1992年9月以降1993年7月まで、カンボジアに停戦監視要員の自衛官、道路や橋を造る自衛隊施設部隊、警察要員、選挙監視要員を派遣しました。

 

 1993年にカンボジアで総選挙が行われ、新しい「カンボジア王国」ができました。

 

 

ポル・ポト派」のその後

 ポル・ポトの写真(1991年7月プノンペンで撮影)

 

 

 ポル・ポト派は1993年の新政府成立後、内部分裂が起こり、兵士の投降も相次ぎました。

 

 ポル・ポトは「ポル・ポト政権」当時は「首相」でしたが、党内抗争のなかでタ・モク軍参謀総長によって身柄拘束され、1998年4月カンボジア北西部のタイ国境の山岳地帯にあるアンベロンという村で死亡しました。

 死因はタ・モクに毒殺されたとも心臓発作だともいわれましたが、すぐに火葬されており、真相は分かりません。

 

 ポル・ポト政権による大虐殺を裁くカンボジア特別法廷が2006年、国連の支援で設置され、7月から活動を始めました

 裁かれたのは5人で、いずれも政権幹部。裁判の結果は次の通りです。

 

●【ヌオン・チア元人民代表議会議長】

ポル・ポトに次ぐ序列第2位。

公判中の2019年に93歳で死去

●【イエン・サリ元副首相(外交担当)】

序列第3位。

公判中の2013年に87歳で死去

●【イエン・チリト元社会問題相】

イエン・サリの妻。認知症と認定されて公判途中で裁判停止。

2015年に83歳で死去

●【カン・ケック・イウ元トゥールスレン政治犯収容所所長】

終身刑」が確定。服役中の2020年に77歳で死去

●【キュー・サムファン元国家幹部会議長(国家元首)】

特別法廷で裁かれたポル・ポト政権の幹部で唯一の生存者。

2022年9月に終身刑」が確定、服役中。

 

 

 ポル・ポトを拘束した【タ・モク元軍参謀総長は、大量虐殺を主導したといわれていましたが、特別法廷が始まる直前の2006年7月、プノンペン市内の病院で死去しています。

 

 

 

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