北穂高岳で味わう至福のひと時

北アルプスに登った記録、登山にまつわる体調のトラブル、旅行、反戦平和への思いなどを備忘録として載せています。

続・見えなくなってきた戦争の傷跡・東京都大田区の場合

 東京・羽田空港の大鳥居(2023年1月29日撮影)

 

 

 ロシアのプーチンが始めた侵略戦争は終わる気配がないですね。

 日本も昔、侵略戦争をして返り討ちに遭いましたが、その「痕跡」はほとんど消えてしまいました。また、「戦前」になった気配・・・。

 

 2年前に書いたブログの続編です。

 

 

 

目次

 

 

 

 

軍用トラックをつくっていた

東京瓦斯電気工業㈱大森工場】

 100年も前ですが、1917年(大正6年)に、東京瓦斯(がす)電気工業という会社の大森工場が存在しました。「瓦斯電(がすでん」と略して呼ばれました。 

 いすゞ自動車日野自動車工業日立航空機の母体です。

 

 

 写真は、イトーヨーカドー大森店の駐輪場からみた「大森ベルポート

 

 

 東京瓦斯電気工業の工場は、いまのJR大森駅の東側の「大田区大森北2丁目」から「品川区南大井6丁目」にかけた広い範囲にありました。

 跡地にはいま、イトーヨーカドー大森店、大森ベルポート西友などが建っています。

 

 

 東京瓦斯電気工業の親会社はいまの「東京ガス」の前身の「東京瓦斯会社」ですが、陸軍省の要請で軍用トラック、発動機、航空機用エンジンなどを製造するため、この会社がつくられたのです。

 

 アジア太平洋戦争が終わった後、米軍に一時、接収されたものの、いすゞ自動車が自動車の製造を再開したが、1961年(昭和36年)に藤沢工場をつくって移転。

 

 翌1962年5月、跡地に7階建てのアサヒビール東京大森工場が建ち、この地でヒット製品の「アサヒスーパードライ」を産み出しました。

1962年に撮影されたアサヒビール東京大森工場

 

 

 

 

 そのアサヒビールの工場も2003年、閉鎖しました。

 

 イトーヨーカドー大森店前の植え込みに置かれているアサヒビール工場跡を示す「看板」


 

 

 

 

兵隊慰問用の「ドロップ」を製造

【新高(にいたか)製菓㈱第三工場】

 

 

 「新高(にいたか)製菓」という会社は、佐賀県出身の森平太郎という人物が1905年(明治38年)に、台湾・台北市に渡って創業したお菓子屋さんです。日本が日清戦争に勝利して「台湾」を領有したことがきっかけです。

 台湾バナナを使って「バナナキャラメル」や「風船チウインガム」などを考え出して売り出し、成功しました。

 

 台湾で事業に成功してから1923年(大正12年)に日本に進出、大阪に工場を建てました。

 1928年(昭和3年)1月には、当時の「東京市大森区3丁目233」の内川沿いに「第三工場」を建設。新高ドロップ」と呼ばれたあめ玉や、「新高バナナキャラメル」を売りました。

 

 

 ドロップの缶

 

 

 いまでもメルカリに出品される「新高ドロップ」のブリキ缶には、「皇軍慰問用」と書かれています。

 戦時中は戦地に赴いた兵隊を励ますために、残された家族や地域の婦人団体などが「慰問袋」をつくって、その中に氷砂糖やドロップ、キャラメルを詰めた缶を、陸海軍に届けたそうです。

 その慰問品を、この新高製菓がつくっていたということです。

 

 戦時中の「新高製菓」工場の地番は、「東京市大森区大森3丁目233」と表記されていましたが、戦後の住居表示は「大田区大森西1-8-20」。「牛丼すき家」のとなりあたりですね。

 工場は敗戦直後に創業者が亡くなって以降、業績が芳しくなく、1965年(昭和40年)に消滅したようです。

 

 

 

 

 

兵隊の防寒服を縫製

【鬼足袋(おにたび)工業㈱】

 

 JR蒲田駅近くの「あやめ橋交差点」から東邦大学大森病院の前を通て環状七号線に抜ける通りは「東邦医大通り」と名付けられています。この通りを戦前は、「鬼タビ通り」と呼んでいたようです。

 

 通りの途中の「大田区立大森第八中学校」の位置に、鬼足袋(おにたび)工業㈱」という工場があったからです。

 

 屋外の看板(「まちがやって来た」から引用)

 

 

 鬼足袋工業㈱は、「鬼足袋」というブランドの足袋(たび)をつくっていた工場。社名は、ここでつくられる地下足袋(じかたび)が鬼のように丈夫だということをアピールするために名付けられたらしい。

 

 1920年(大正9年)に現在の浜松市から現在の大田区大森西二丁目21番(当時、大森3丁目62番地)に転入してきました。

 

 この工場について、地元住民たちは1979年(昭和54年)に発行した冊子で、こう書かれています。

 「鬼足袋工場の進出は、その社名のユニークさもあいまって、人々の印象に強く残ったらしく、工場西側にできた蒲田方面に通じる道路をいまだに『鬼足袋通り』と呼んでいます。通りに面した一角には、丸に平の字のトレードマークをかたどった大きなイルミネーションが立てられ、夜には明かりが灯されて、東海道本線の汽車の窓からはっきり見えたそうです。東京を離れる旅人の目に、ああこのへんで東京とお別れかと思わせ、帰ってくる人にはやっと東京にもどったのだな、という感慨をもよおさせたそうです。東海道本線(今の京浜東北線)と鬼足袋通りの間には、家らしい家もなく、ポツリポツリと町工場が出てき始めたのは、昭和の初期からであったということです。」

 

 その後、アジア太平洋戦争が始まるころには、軍の指導で民生用の「足袋」から、下士官や兵隊用の「外套(がいとう」(=防寒着)の縫製にシフトしたようです。

 

 アジア太平洋戦争中の1943年(昭和18年)7月には、東京都立大森高等家政女学校(=都立雪谷高校の前身)の生徒で、夏休みの臨海施設への不参加者は、鬼足袋㈱工場に、航空服の縫製をする勤労奉仕に参加させられました。(⇐都立雪谷高校同窓会HP)

 

 1944年(昭和19年)から、品川区旗の台にある私立香蘭女学校特別教室が、鬼足袋㈱の工場として使われるようになり、生徒300人のうち低学年の生徒は学校内の工場で、また高学年の生徒は校外の鬼足袋㈱工場に勤労動員され、軍服をつくりました。

 

 1945年4月15日、大森地区は米軍機による空襲に遭い、大森一帯は灰燼に帰しました。

 

 空襲に遭う前の1937年(昭和12年)12月に測量された地図。㈱日本地形社発行。

 地図の「内川」の上(北側)に、「鬼タビ工場」「大森高等小学校」という記載があります。(「大田区文化財第25集『地図でみる大田区2』から引用)

 

 

 「内川」(上の写真の右下)の横の鬼足袋㈱工場跡地に建っている大田区立大森第八中学校と、東邦医大通り

 

 

 

 戦後の1947年(昭和22年)4月、鬼足袋㈱工場の跡地の隣に「大森第八中学校」が開校。翌年、工場の跡地も区が買収して学校の敷地を増やしました。

 

 工場は空襲で消え、工場前の道路は「東邦医大通り」という新しい名前が付けられましたが、いまでも地元では『東邦医大通り(鬼タビ通り)』と表記されることがあり、地名に工場の名残をとどめています。

 

 

   ◆     ◆     ◆

≪参考資料≫

①「大森の春秋」(大森消防署地誌編集委員会編、平成12年発行、非売品)

②「地域研究 鬼足袋通りを行く」(2012年発行、非売品)

③図録「まちがやって来た」(大田区郷土博物館編、2015年発行)

④「大森・澤田 昔」(澤田4地区地名保存委員会発行、昭和54年、非売品)

⑤「アサヒビールの120年」(アサヒビール株式会社発行、2010年発行)

ほか

 

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