「船津胎内樹型」と呼ばれる、溶岩でできた丸いトンネル。大木の幹の形をとどめている。(2024年6月1日撮影)
富士山のふもとの河口湖近くには、富士山が大昔に噴火した時の溶岩流でできた洞穴(=洞窟のこと)がたくさんあります。
洞穴の中でも「溶岩樹型」と呼ばれる木の幹が燃えてなくなってできた不思議な洞穴の【探検ツアー】があり、スタッフの一員として参加しました。2024年6月1日(土曜日)のことです。
探検した3つの洞穴は、①船津胎内樹型(ふなつたいないじゅけい)②吉田胎内樹型(よしだたいないじゅけい)③雁の穴(がんのあな)――です。
観光地ではないので初めて耳にする名前でしょうが、国の天然記念物に指定されているんですよ。
吉田胎内樹型の内部は、ふだん非公開。雁の穴は陸上自衛隊北富士演習場の敷地内にある洞穴群です。
どちらも特別の手続きをして立ち入りの許可をもらいました。
2回に分けて、洞穴のようすを写真を添えて記録します。その1回目。
目次
- 「溶岩洞穴」ってなに?
- 「溶岩樹型」というのは?
- 観察した「船津胎内樹型」の話
- 中に入ってみると・・・
- できたのは1100年前
- 「溶岩樹型」はどのようにしてできるの?
- 「胎内樹型」のでき方はもっと複雑!
- 次は「吉田胎内樹型」の話
- 誕生は「船津胎内樹型」と同じ噴火のとき
- 【参考資料】
「溶岩洞穴」ってなに?
溶岩洞穴のひとつ、「富岳風穴」(2022年7月19日撮影)
火山の噴火で地中のマグマが火口からあふれ出し、溶岩となって斜面を流れ下った時に溶岩の中にできる「空洞」のことを「溶岩洞穴(ようがんどうけつ)」といいます。
溶岩洞穴のことを溶岩洞窟とか溶岩トンネル、溶岩チューブという人もいますが、同じことです。
「溶岩樹型」というのは?
「溶岩樹型」という場合は、溶岩流に「樹木」がかかわった洞穴、と考えれば理解しやすいですよ。
溶岩樹型は、噴火で流れ出した高温の溶岩が、樹林帯で樹木を包み込んだ場合にできます。
溶岩が冷えて固まったときに、溶岩の熱で木の幹の部分が燃え尽きてなくなり、「空洞になった洞穴」のことを「溶岩樹型」というんです。
「溶岩樹型」のうちで、内部の様子が人体の内部に似ているものが「御胎内(おたいない)」と呼ばれて信仰の対象になり、「胎内めぐり」と称して洞内をめぐる信仰行為が行われるようになりました。
船津胎内樹型と吉田胎内樹型がその代表例です。
観察した「船津胎内樹型」の話
船津胎内樹型は、山梨県富士河口湖町船津にある富士山の噴火でできた洞穴です。
1929年(昭和4年)に国の天然記念物に指定されました。
河口湖フィールドセンターという施設の敷地内に建つ神社の中に入口があるので、拝観料として高校生以上は200円、小・中学生は100円必要です。
中に入ってみると・・・
お賽銭箱の向こうの暗闇が、船津胎内樹型の入り口。
入り口から石段を3つ下がると、ほぼ水平に。とはいえ天井は低く、腰を折り曲げて進みます。
天井は、「溶岩鍾乳石」というのですが溶岩が鍾乳石のように垂れ、ユニークな模様を形成しています。
左の壁は溶岩が垂れて人間のあばら骨のように見えます。
赤みがかった天井の溶岩。赤は溶岩に混じっている鉄分らしい。
小さな丸い穴の奥。行き止まりです。
左にUターンして「母の胎内」に向かいます。
溶岩でできたトンネルの中は丸い。なにせ樹木の幹だった部分ですからね。
頭を何度も天井に打ち付けましたわ。横着してヘルメットをかぶらなかったことの報いか。
この先で、行き止まり。人の足が見えますね。
「母の胎内」の一番奥。神話に登場する女神・木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の像らしいです。
トンネルを戻るのですが、穴が狭くてすれ違いがたいへんでした。
ここは「父の胎内」。石像がありました。
出口が見えました。
地表に出たところです。この洞穴の長さは約70㍍。
図をみると、船津胎内樹型は横倒しになった5本の「溶岩樹型」が複雑に交差してできた洞穴だということが分かります。
できたのは1100年前
船津胎内樹型ができたのは、西暦937年(承平7年)。富士山の北側山腹から噴火した時だと推定されています。
静岡大学の小山正人名誉教授の研究によりますと、「日本紀略」という歴史書の「承平7年11月某日」の項に「甲斐国言、駿河国富士山神火埋水海」という短い記述があるそうです。
意訳すると「山梨県側からの情報によると、937年に富士山が噴火して、その時の溶岩流で湖が埋まった」という意味のようです。
また、船津胎内樹型があるあたりの溶岩の直下から10世紀ごろの陶器などが出土していることから、船津胎内樹型は937年の噴火でできたとみられるようです。
「溶岩樹型」はどのようにしてできるの?
赤いマグマが地表から溶岩流として流れ出し、途中で樹木を抱き込んでできた「溶岩樹型」という洞穴は、具体的にどのようにしてできるのでしょうか・・・。
「溶岩樹型」にもいろんなタイプがあるそうです。
まず上の図ですが、溶岩流が立ち木にぶつかって、立ち木が溶岩流の上流部に傾いたケースです。
その下の図は、立ち木が動かなかった場合で、溶岩が接触した方向が盛り上がってそのまま溶岩が固まった溶岩樹型です。
上の図は、溶岩流で倒された木と、溶岩に下半身が埋まりながらも立っている樹木が、溶岩に埋まった状態で交差しているケースです。
上の図は、溶岩流に倒されて横たわった樹木が、溶岩の中で重なり合い、地中で空洞になった部分が連結して形成されます。
「胎内樹型」のでき方はもっと複雑!
溶岩樹型の中でも、「船津胎内樹型」や「吉田胎内樹型」のようなひと味違うタイプ、つまり溶岩のトンネルの天井や壁に、鍾乳石のようなツララや人間のあばら骨のような模様は、どうしたらできるんでしょう。
本多力・日本洞窟学会評議員は、「1つの考え方」として次のように説明しています。
①溶岩が流れてきて、ナマの樹木が取り込まれる。木の周りの溶岩が冷やされ、固くなった表層(=クラスト)ができる。溶岩の熱で木が蒸し焼きにされる。すると、水蒸気が発生したり「木ガス」という気体が出て、クラスト内の圧力が上が手クラストが破壊される。
②木の周りのクラストを破った水蒸気と木ガスは、周りのまだ柔らかい溶岩の中に「空洞」を形成し、溶岩全体をモチのように膨らませる。
③さらに水蒸気と木ガスで空洞が膨れて、溶岩の外側の固い殻を破る。
④外側の固い殻が破れると、酸素が入ってきて木ガスが燃焼する。
⑤内部は高温になって内壁の表面を「再溶融」させ、天井から溶岩鍾乳石が垂れ下がる。
⑥溶岩鍾乳石が垂れると、側壁には肋骨のような筋が現われる。
筋の通った話だと思いますね。
次は「吉田胎内樹型」の話
吉田胎内樹型は、船津胎内樹型から700㍍ほど南東の富士吉田市上吉田にありました。
一帯に62基ある溶岩樹型の中で、代表的な1基が「吉田胎内樹型」と呼ばれ、信仰の対象になっています。
1929年(昭和4年)に国の天然記念物に指定されています。
わたしたちは「船津胎内樹型」にもぐったあと、「吉田胎内樹型」に向かいました。
車道わきの目立たない階段を上って樹林帯に入りました。
車道からここまで、12分。人が歩いた跡がなく、1人では不安ですね。
「吉田胎内樹型」の手前には、石造物が並んでいました。
入口にはカギがかけられています。特別の許可を得てカギを借りてきましたので、開けて入ってみました。
中は狭いです。当然、真っ暗。
横穴を13㍍ほど進んだ突き当りに、医師のホコラがありました。図面によると、脇に縦穴があって、その底からまた横穴が延びているようです。
周囲にはたくさん洞穴があり、いくつか見て回りました。そのうちの1つ。
「吉田胎内溶岩樹型第23」とプレートに書かれています。
背を丸めて進みますが、時々アタマを天井にぶつけます。持参したヘルメットが役に立ちました。
上の写真の位置で立ち上がると、目の位置に水平の穴(上の写真)がありました。木が交差していたんですね。
真上も穴が開いていました。暗闇の中から仰ぎ見る「緑」はとても新鮮でした。(小型デジカメでストロボをたいて撮影)
誕生は「船津胎内樹型」と同じ噴火のとき
吉田胎内樹型は、「船津胎内樹型」ができた西暦937年(承平7年)の噴火の時にできた、と研究者の間で推定されています。
「船津胎内樹型」は江戸時代に、富士山を信仰する人の集まり「富士講」によって発見されましたが、「吉田胎内樹型」は明治時代になってから富士講信者に発見されたそうです。
富士講の信者には、胎内樹型に入って外に出てくることによって「生まれ変わる」という考えがあるらしく、富士登山前には胎内樹型を訪ねて「胎内めぐり」をする習わしがあったそうです。
現在も毎年4月29日に「吉田胎内祭」が催され、地元の御師(おし)と呼ばれる神職による神事に続いて、富士講信者による「お焚きあげ」という儀式が行われるようです。
この神事のあと、ふだん非公開の洞穴内部が当日だけ一般公開されるようです。
【参考資料】
▼「富士山の歴史噴火総(小山真人著、『富士火山』所収)
▼シンポジウム「富士山貞観噴火と青木ヶ原溶岩」報告書(山梨県環境科学研究所、2006年)
▼論文「溶岩樹型の観察による形態区分と形成モデル」(立原弘、2002年)
ほか