北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスに登っていたころの写真記録、国内外の旅行、反戦平和への思いなどを備忘録として載せています。

戦時下の満州での悲劇:強姦#シベリア抑留

 引揚船の船底

 

 東京・新宿の高層ビルの一室にある平和祈念展示資料館(別名:帰還者たちの記憶ミュージアム)に行ってきました。

 

 アジア・太平洋戦争が終わる直前の1945年8月9日未明、当時のソ連(=1991年に崩壊)は日本との間で結んだ「お互いに侵略しない」という約束を一方的に破り、日本が支配していた満州(=現在の中国の東北部)に攻め込んできました

 

 その時にソ連軍兵士が繰り広げた強姦や略奪ソ連による「日本人捕虜のシベリア抑留」という蛮行について、少しですが知ることができる場所です。

 

 国(総務省)が民間会社に運営を委託しています。入場無料です。

 以下、この資料館の展示内容の一部の紹介です。

 

 

目次

 

 

 

満州に27万人移住、8万人死亡

 満州には終戦の1945年当時、満蒙(まんもう)開拓団を含めて約155万人の日本人が住んでいました。

 日本政府は「国策」として「満州に行けば広い土地を与える」と宣伝。日中戦争が始まった1937年ごろから、地区単位で編成した「満蒙開拓団」を侵略した満州に積極的に送り込み始めました。

 多くは農地を相続できない農家の次男、三男でした。

 

 満蒙開拓団の人数養蚕業が盛んだった長野県の約3万3000人を筆頭に全国で約27万人(「満蒙開拓平和記念館」調べ)。入植した場所は、満州の中でも北東のソ連との国境線に沿う地域の多くが配置されました。

 

 開拓団のうち約8万人が戦闘に巻き込まれたり、病気、集団自決などで亡くなったといわれます。

 

 

満州」に日本人が渡ったわけ

 満州はもともと中国の領土です。が、日本は日露戦争でロシアに勝った結果、ロシアが持っていた南満州鉄道(略称:満鉄)の経営権を獲得しました。

 

 満鉄の「線路」を守るために配備された日本陸軍の部隊が関東軍です。

 関東軍満州全土を占領するため1931年、満鉄の線路を爆破する自作自演の謀略を起こし、中国軍の犯行だと主張して「満州事変」を引き起こしました。そして半年後、中国東北部に「満州国」という日本の傀儡(かいらい)国家をでっち上げました。

 

 当時の日本国内は、世界恐慌のあおりを受けて主力産業だった生糸が大暴落し、養蚕農家は借金を背負い、養蚕企業の倒産も相次ぎました。県は市町村を通じて住民に、「満州への移住」を促したのです。

 

 

ソ連の参戦

 日ソ両国は1941年4月に、相互の不可侵を約束する「日ソ中立条約」を結んでいました。

 ところが、です。1945年4月になって、ソ連はモスクワ駐在の日本大使に「1年後に条約の期限が切れるが延長しない」と、1年後の条約破棄を伝えました。

 ソ連それから間もない8月8日深夜、日ソ中立条約を破棄して宣戦布告してきました。

 翌8月9日未明、ソ連は150万人の兵士と5000両の戦車、5000機の航空機で国境を越えて満州に侵攻しました。

 

 

 

居留民を置き去りにし退却した「関東軍」トップ

 日本陸軍満州駐留部隊を関東軍といいました。

 

 アジア・太平洋戦争が始まった1941年ごろは満州に65万人もの関東軍が駐屯していましたが、戦況の悪化で主力部隊がフィリピンなど南方の激戦地に移動しました。

 そのため1945年夏、関東軍満州に住む18歳から45歳までの男性を「根こそぎ動員」し、兵士は数の上では70万人になりました。半面、各地の満蒙開拓団は女性と子供、高齢者だけになりました。

 

 ソ連が参戦した時、関東軍総司令部は大都市の新京(現在の長春に置かれていましたが、東京の大本営は8月10日早朝、関東軍総司令部に通化(つうか)まで退却し総司令官は「朝鮮を保衛すべし」と命令関東軍総司令官は12日午後、幕僚とともに新京から離脱しました。

 

 (戦史叢書「関東軍②」403ページ(防衛庁防衛研修所戦史室)

 

 

悲惨だった避難民

 終戦当時、満州には満蒙開拓団の27万人を含めて約155万人の日本人がいました。

 

 大都市の新京に住んでいた日本人の避難行動について作家・半藤一利は著書「ソ連満州に侵攻した夏」で、次のように書いています。

 

 「(8月11日未明から)正午ごろまでに18列車が新京駅を離れ(平壌に向かっ)た。避難できたものは新京在住約14万人のうちの約3万8000人。内訳は関東軍関係家族2万031余人、大使館など官の関係家族750人、南満州鉄道関係家族1万6700人。ほとんどないに等しい残余が一般市民である。」

 「11日も昼すぎになると、新京駅前広場は来るはずもない列車を待つ一般市民で埋まってきた。彼らは口々に、軍人の家族や満鉄社員の家族の優先に対する不満と恨みの声を上げたのである。」

 

 関東軍にとっては、居留民を守ることより戦闘作戦の方が大事だったのですね。

 

 

 

犠牲者が多かった満蒙開拓団

 満蒙開拓団として「千振(ちぶり)」などソ連との国境に近い地域に入植した人たちの避難行動は、恐怖の連続でした。

 上の写真は、漫画本「遙かなる紅い夕陽」の表紙。

 この漫画は、満州ソ連との国境近くから日本に引き揚げる時の体験者の「手記」をもとに書かれた冊子で、平和祈念展示資料館が無料で配っています。

 以下、しばらくその内容です。

 

 

 満州の主な都市。図の右端が「千振(ちぶり)」。

 

◆手記の筆者の夫は、数日前に「赤紙」という臨時招集令状が関東軍司令部から届き、出征。開拓団には女と子ども、高齢者だけが残された。

手記の筆者は子ども3人(長女、長男=漫画本の著者、次女)を連れて、千振から綏化(すいか)新京を経て葫蘆島(ころとう)まで逃げた。

◆8月11日の夜になって国境守備隊から開拓団本部に緊急電が入り、ソ連軍がもうすぐ攻めて来るから翌朝飛行場に集まれ、とのこと。

◆12日はその場に野宿。13日午後、千振駅まで行って避難列車に乗り込んだ。

◆列車は屋根のない貨車。目的地はだれも知らない。列車は予告もなくとまり、予告もなく走り出す。

◆8月15日以降に綏化(すいか)に着き、日本の敗戦を知った。収容所に入れられた。陸軍が使っていた飛行機の格納庫で、何の生活設備もなかった。

 

8月18日すぎ、ソ連軍の先行部隊がやって来た。

 ソ連兵は避難民の荷物を奪うだけでなく女性を強姦した。女性たちはソ連兵を恐れ、女性に見えないように頭髪を丸刈りにした。ソ連兵に連れ去られて強姦され、戻って来てその日のうちに首をつった女性もいた。

 

4歳の次女発疹チフスにかかり、8月末に息を引き取った。

◆9月半ばに南下の指示が出た。再び乗った列車は天井も囲いもない、車輪の上に板を敷いただけのマナイタ車両だった。列車から振り落とされる人が続出した。

武装した匪賊が線路上で待ち伏せし、青龍刀や小銃で避難民を脅し、手当たり次第持ち物を取り上げては去っていった。

◆9月半ばに新京にたどり着き、満鉄の寮が新しい収容所になった。働けるものはソ連兵目当てのたばこ売り、靴磨き、中国人農家の手伝いなどした。

◆1946年7月15日、1年近くを過ごした新京を列車でたち、引揚船が停泊している葫蘆島へ。

 

◆長かった収容所生活で体調を崩していた長女は、引揚船の船内で死亡した。遺骸は水葬されることになり、船尾から海に葬られた。

◆1946年8月19日、佐世保に上陸。故郷の長野県下伊那に向かった。

 

 

 

 

 

 

シベリア抑留の目的は労働力の確保

 「シベリア抑留」というのは、満州に攻め込んだソ連軍が終戦で投降した関東軍兵士らをソ連・極東地方のシベリアなどに送り込み、強制労働に従事させた問題です。

 

 指示したのは、ソ連の最高指導者スターリンでした。

 

 スターリンは8月23日、部下の内務大臣らに極秘指令を出しました。「日本人捕虜50万人をソ連全域の10地域の収容所に配置し、働かせよ」という指示です。

 

 ソ連はドイツとの戦争(=独ソ戦)で大勢の死者を出して働き手を失ったため、荒廃した国土を建て直すための労働力を確保したかったのではないかとみられています。

 

 

シベリア抑留は60万人、死者は6万人

 ソ連の参戦で、終戦時に満州からシベリアに抑留された人は、厚生労働省の調査では約57万5000人

 このうち約47万3000人は帰還しましたが、死者が約5万5000人に上ったとみています。

 

 

 抑留者は、ラーゲリと呼ばれた収容所に入れられました。

 収容所の外周は丸太の塀や有刺鉄線で囲われ、四隅には監視塔がありました。銃を持ったソ連兵が常に抑留者を見張っていました。

 敷地内には宿舎のほか、食堂、トイレ、医務室、風呂場などがありました。

 

 抑留者はいろんな労働を強いられました。森林の伐採、鉄道建設、道路工事、荷役、農作業などで、地域や収容所で異なりました。

 

2人で樹木を伐採するノコギリと斧。

 

 手製の靴下。

 

 

女性の抑留者もいた

 従軍の看護師も抑留されました。

 

 満州の中でも一番東の国境沿いにある「佳木斯(じゃむす)」第一陸軍病院の看護師が戦後、次のように証言しています。

 

 「われわれ看護婦女子隊150人は8月20日ごろ、ソ連軍の捕虜となり、行く先も知らされないまま行軍し、港に着きました。衛生兵と女子5人が乗船したところで打ち切られ、夕やみ迫る港に軍医と残りの女子隊が取り残されました。その後、いま来た道を引き返すため真っ暗な道を無言のまま急ぎました。突然前方にジープが現われ、ライトの中にソ連兵がマントを翻して立っているのが見えました。直後、全員が蜘蛛の子を散らすように逃げました。『婦長殿、助けて!』の声を残して、1人拉致されたのです当初、病院長より女子全員に青酸カリの小瓶を渡され、『いざという時には大和なでしこらしく潔く身を処するように』といわれ、常に胸のポケットにだいじに入れていました17歳だったAさんは、うら若き命を処したのでしょうか。消息不明のまま50年が過ぎました。

 「9月末に移動のため乗船し、到着したのがハバロフスクの収容所でした。。」

 「病院勤務ののち1947年6月、ナホトカから引揚船に乗り、鳥取県に復員しました。」

 

 戦争には「性暴力」がつきものです。だれもが口を閉ざすため、史実として明るみに出ないだけです