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近衛文麿の杉並の邸宅「荻外荘」を一般公開、自決した書斎も

 戦時中のように復原された「荻外荘」。(2024年12月10日撮影)

 

 

 近衛文麿(このえふみまろ)って、何をした人なの? 名前は聞いたことがあるような気もするけど・・・・という方が多いかもしれませんね。

 

 近衛文麿は昔、日本が中国との間で「日中戦争」を始めた時の首相で、その後もアメリカと戦争を始める直前までの間に計3回首相を務め、結果的にアジア・太平洋戦争を推し進めた貴族出身の政治家です。

 

 その近衛文麿が住んでいた荻外荘(てきがいそう)という屋敷が東京都杉並区役所によって当時の姿に復原され、2024年12月9日から「荻外荘公園」として一般公開されました。

 荻外荘の東側半分(玄関、応接室、客間など)は一度、豊島区内の天理教の敷地内に移築され、宿舎として使われていましたが、杉並区がふるさと納税を募って移築された部分を手に入れ、復原したのです。

 

 荻外荘が建っている場所は、JR荻窪駅から南に歩いて15分ほどの杉並区荻窪の閑静な住宅街。

 戦時中はここで戦争指導者たちが会談し、意思決定した事実上の首相官邸なんです。

 

 当時、日本の指導者たちがどんな雰囲気の中で戦略を練ったのか体で感じてみようと、12月10日に入館料300円を払って建物の中に入りました。

 

目次

 

 

 

「復原」され一般公開された「荻外荘」

 

 昔のように復原された「玄関」と車寄せ。(上の間取り図の右下部分)

 

 玄関に入ってすぐ左手にかけられていた額。「荻外荘」という文字は西園寺公望の筆跡。

 

 玄関わきの応接室。近衛文麿はここで記者会見もしました。

 

 来客用のトイレ。便器は洋式でした。(復原)

 

 客間(復原)。ここで戦略などを決める重要会談が行われました。

 

 

「荻外荘」という建物のこと

 戦時中の荻外荘。(「近衛日記」から引用)

 

 荻外荘は、1937年(昭和12年)6月に45歳で首相に就任した近衛文麿が住んでいた邸宅です。1927年(昭和2年)の建築です。

 

 近衛はこの邸宅を大正天皇の侍医だった人物から譲り受けて入居しました。

 

 「荻外荘」という名前は、近衛の後見人だった元老の西園寺公望(さいおんじきんもち)が付けました。

 

 近衛文麿は1945年(昭和20年)12月に、書斎で服毒自殺するまでここで過ごしました。

 

 荻外荘は日本の政治史上、重要な転換点となる会談が行われた場所として、2016年(平成28年)3月に国の史跡に指定されています。

 

 

 

近衛声明『国民政府を対手(あいて)とせず』

 第1次近衛内閣は1937年6月に発足しました。

 発足して1ヵ月後の1937年7月7日、中国の北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)付近で日中両軍が衝突。この盧溝橋事件を機に日中戦争が始まりました。

 

 それから間もない1938年1月、近衛文麿は対中国政策に関して「帝国は爾後(じご)、国民政府を対手(あいて)とせず」という声明を、首相の名前で発表しました。これが後に有名になった『近衛声明』です。

 

 この声明で、蒋介石が率いる国民党による「国民政府」との和平交渉を打ち切ってしまったわけです。

 

 近衛は、国民政府を無視して中国に日本の傀儡(かいらい)政権を樹立し、その政権と和平交渉しようとたくらんだのですが、国民政府は降伏することも内部分裂することもなく、戦局は泥沼化していきました。結果として、「近衛声明」は日中戦争終結への道を閉ざしてしまったのです。

 

 アメリも日本を見る目が厳しくなり、やがてアメリカによる対日経済制裁が始まり、太平洋戦争へと日本は破滅への道を突き進んでいったのです。

 

 

 

 

「荻外荘」での出来事

日独伊三国同盟につながった「荻窪会談」

 第2次近衛内閣は1940年(昭和15年)7月に発足しました。

 その発足直前の1940年7月19日近衛文麿荻外荘に閣僚就任予定者を招いて内閣の基本方針を調整する荻窪会談」を開きました。

 招いたのは、松岡洋右・次期外相吉田善吾・次期海相東條英機・次期陸相の3人です。

 「客間」で行われた「荻窪会談」。写真左から、近衛、松岡、吉田、東條。(「近衛日記」から引用)

 

 この会談で、ヒトラー率いるドイツと、ムッソリーニ率いるイタリアとの連携を強める方針を決めました。これが2ヵ月後の日独伊三国同盟の締結につながったのです。

 

 

 

山本五十六が語った対米戦の見通し

 「荻窪会談」から少し経った1940年9月、連合艦隊司令長官山本五十六近衛文麿首相の要請で荻外荘を訪れ、近衛と懇談しました。

 席上、山本五十六日米戦への見通しについて近衛から尋ねられると、「是非やれと言われれば、はじめ半年や1年の間は、ずいぶん暴れてご覧に入れる。しかしながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約ができたのはいたしかたないが、かくなりましては日米戦争を回避するよう極力、努力願いたい」と語りました。

 

 山本五十六三国同盟に反対し、日米開戦にも反対だったとされています。

 

 首相だった近衛は山本五十六との会談で、対米開戦を避けたいという思いを強めたかもしれませんね。

 

 


東條英機の説得に失敗した「荻外荘会談」

 第3次近衛内閣は1941年(昭和16年)7月に発足しました。

 近衛首相は太平洋戦争直前の10月12日、米国への対応を協議するために荻外荘に東條英機陸相及川古志郎海相豊田貞次郎外相鈴木貞一企画院総裁の4人を呼んで「荻外荘会談」を開きました。

 

 近衛は当時、対米戦争を避けるためにアメリカとの外交交渉を考えていましたが、アメリカは日本陸軍が中国から撤退することが先だと主張しており、交渉ははかどりませんでした。

 この荻外荘会談で、東條英機陸相は撤退を「拒否」してアメリカとの開戦を主張したため、近衛は政権を投げ出す決断をし、閣内不統一を理由に第3次近衛内閣は6日後に総辞職してしまいました。

 

 代わって登場した東條英機内閣が太平洋戦争に踏み切ったわけです。

 

 

真珠湾攻撃の日に敗北を予想

 日本軍が真珠湾攻撃をして対米戦争を始めた1941年12月8日、第2次近衛内閣の時に首相秘書官を務めた細川護貞(もりさだ)が東京・霞ヶ関華族会館(現在の霞会館)に近衛を訪ねました。

 

 周囲の人々は真珠湾の勝利にざわめいていましたが、近衛は浮かぬ顔をして沈痛な声で細川にこう言ったそうです。

 「えらいことになった。僕は悲惨な敗北を実感する。こんなありさまはせいぜい2、3ヵ月だろう。」

 

 

GHQに出頭する日に荻外荘で自殺

 終戦後に荻外荘でカメラに収まった近衛文麿。自殺直前で、最後の写真とされています。(「近衛日記」から引用)

 

 

 

 アジア・太平洋戦争が終わり、近衛文麿が長野県軽井沢の別荘に滞在していた1945年(昭和20年)12月上旬のこと。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部は近衛をA級戦犯容疑者として逮捕指令を出し、12月16日巣鴨プリズンに出頭するよう命じました。

 

 軽井沢から荻外荘に戻った近衛は出頭日の前夜、次男に「僕の心境を書こうか」と言って、すずり箱のフタを下敷きにして鉛筆で遺書を書きました。

 

 出頭日の12月16日午前6時ごろ、近衛が寝室にしていた書斎の明かりがついているのに夫人が気付き、部屋に入ると、すでにこと切れていました。

 茶色のビンが空になっており、青酸カリを飲んで自殺したのでした。54歳でした。

 自決した書斎近衛家の人々はこの部屋を「とのさまのへや」と呼んで大切にし、現在まで大きく改変されることはありませんでした。

 

 遺書には、次のように記されていました。(原文のまま)

 「僕は支那事変(注:日中戦争のこと)以来、多くの政治上過誤を犯した。之に対して深く責任を感じて居るが、所謂(いわゆる)戦争犯罪人として米国の法廷に於いて裁判を受ける事は堪え難い事である。殊に僕は支那事変に責任を感ずればこそ、此の事変解決を最大の使命とした。そして此の解決の唯一の途は米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽くしたのである。その米国から今、犯罪人として指名を受ける事は誠に残念に思ふ。(以下略)」

 

 GHQによる検視。(「近衛日記」から引用)

 

 

参考資料

▼『近衛日記』編集委員会編「近衛日記」(共同通信社、昭和43年3月発行)

近衛文麿「最後の御前会議/戦後欧米見聞録 近衛文麿手記集成」(中央公論新社、2015年発行)