
特攻機を見送る写真。(「別冊1億人の昭和史 特別攻撃隊」から引用)
「特攻隊」を語るとき、よく目にする1枚の写真があります。
陸軍の知覧(ちらん)特攻基地から出撃する特攻機を、モンペ姿の女学生たちが桜の花の咲いた枝を振って見送るシーンです。
しかし、いまの『中学3年生』にあたる女学生たちがなぜ、特攻隊の出撃を見送ったのか? いつも見送っていたのか? 見送りのために動員されたのだろうか?
そんな素朴な疑問の答えは、特攻隊員の遺品などを展示している知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市知覧町)の学芸員(坂元恒太氏と八巻聡氏)の「研究紀要」を読んで分かりました。
彼女らは学徒勤労動員で23日間、知覧特攻基地に自宅から通い、数日後には死ぬ特攻隊のお兄さんたちの身の回りの世話をしていたのです。
目次
- 特攻を見送る1枚の写真
- 写真を載せた「毎日新聞」大阪版
- 撮影場所は非公表
- 勤労奉仕で動員された女学生
- 前田さんの日記とインタビュー
- 写真が掲載された昭和20年4月12日のできごと
- 日記を書いた前田笙子さんへの聞き取り調査結果
- 結語
- 【参考資料】
特攻を見送る1枚の写真

白黒写真です。写っている飛行機は、陸軍の一式戦闘機「隼」(いっしきせんとうき はやぶさ)。日の丸を付けた胴体の下に、重さ250キロの爆弾を抱えています。プロペラが回り、操縦士が手を振っています。
手前には、おさげ髪を両肩に垂らした女の子が8人。制服のセーラー服にモンペ姿。足元は、ゲタ。桜の花が咲く木の小枝を振っています。うつむいている子もいます。写真左上には、続いて出撃する特攻機が写っています。
写真を載せた「毎日新聞」大阪版
「特攻を見送る写真」が載ったのは、米軍が沖縄本島に上陸して地上戦が始まったばかりの昭和20年(1945年)4月17日付の毎日新聞大阪本社発行の朝刊でした。
撮影場所は非公表
新聞記事は「陸軍航空部隊某基地にて村山、早川報道班員発」という書き出しで、撮影場所は「某基地」!。写真説明文も「桜花を手に振武隊出撃送る女子整備員」と、“整備員”にされていました。
敗戦から34年もたった1979年に出版された『別冊1億人の昭和史 特別攻撃隊』(毎日新聞社)でこの特攻を見送る写真が取り上げられた時には、写真説明で「沖縄へ向けて出撃する特攻機に 桜の花を手に見送る知覧高女3年生たち」と、女の子の身元が明らかにされました。
勤労奉仕で動員された女学生
写真に写っていたのは当時、鹿児島県知覧町立高等女学校(以下、知覧高女)の3年生でした。現在の中学3年生です。
なぜここに――?
彼女たちは昭和20年3月27日から、空襲が激しくなった4月18日までの「23日間」、勤労奉仕で知覧特攻基地の「三角兵舎」に行かされたのです。
学徒勤労動員令という政府の命令が昭和19年に出されて、国内の人手不足を補うために、旧制中学や高等女学校の生徒が軍需工場や農作業に動員されました。
奉仕作業をした知覧高女の1人で3年2組の級長だった前田笙子(しょうこ)さんは、その間の出来事を日記につづっています。
前田さんたちは毎日、自宅から下駄ばきででこぼこの砂利道を1時間から2時間かけて三角兵舎に通ったようです。
「三角兵舎」は半地下壕式の物置のような、松林のなかにつくられた粗末な建物。三角形に組んだ板屋根を、じかに地面の上に置いたように見えるため、そう呼ばれました。
米軍の資料によると、35棟あったようです。
一般の人は立ち入り禁止区域でした。
特攻隊員は全国の航空隊から知覧をはじめとする九州の特攻基地に集められ、沖縄への出撃前の数日間をここで過ごしました。
前田さんの日記によると、彼女たちは三角兵舎で特攻隊員の寝床づくりから食事の用意、洗濯、縫い物、兵舎の掃除まで身の回りの世話をしました。
兵舎内には空き瓶を使って菜の花や椿を活けて飾っていました。
単に作業をするだけではなく話し相手になり、一緒に歌を歌い、出撃の時には数回、見送りをしたようです。

「出撃の朝の食事の給仕をしている知覧高女生」。(「別冊1億人の昭和史」から引用)
前田さんの日記とインタビュー
3年2組の級長だった前田笙子(しょうこ)さんは
2008年に、学芸員による聞き取り調査にも応じています。
前田さんは4月3日の出撃まで数日間担当した第三十振武隊の様子を、学芸員にこう話しています。
「午前中は忙しかったですね。やっぱり全部(窓を)開け放して最初に兵舎の掃除をやって、今度は洗濯ものを預かって、さらに三十振武隊みたいに『しらみ』がいる部隊は、牛や馬のエサを煮る五右衛門ぶろをちょっとひしゃげたみたいな釜がありますので、それに水を張って洗濯物を入れて、下から燃やしちゃうんです。熱湯になると、『しらみ』は白く浮いちゃいますので、それを全部救い上げて、洗濯場へ抱えてそこで洗って、手絞りですから一日では乾きませんので、ヒモにかけて乾かしました。それでも空襲警報が鳴ると、その火をバッと消しちゃうんですね。次にたきつける時に、すっごく時間がかかってたいへんでしたね。」

「特攻を見送る写真」の載った「別冊1億人の昭和史」。
写真が掲載された昭和20年4月12日のできごと
前田さんは、桜の枝を振って「第六十九振武隊」と「第二十振武隊」を見送った4月12日のことを日記のこう書いています。
「きょうは晴れの出撃。往(ゆ)きて再び帰らぬ神鷲と私たちを乗せた自動車(=軍用トラック)は、誘導路を走って飛行機を退避させてあるところまで行く。(私が担当していた第六十九振武隊の)池田亨少尉(=22歳)が乗る隊長機(=九七式戦闘機)の偽装の木をとってあげる。隊長さんは私たちを車で(司令官が特攻隊員に訓示する)戦闘指揮所の前まで送る手配をしてくれた。その車の上から後ろを振り返ると、可憐なレンゲの首飾りをした隊長さんが飛行機に乗って振り向いていらっしゃる。」
「(戦闘指揮所の前で車を降りた。目の前を)桜の花で操縦席がうずまった飛行機が通り過ぎる。私たちも桜を差し上げなくては、と思って、(活けてある桜の花を取りに)兵舎に走った。」
「桜の花をしっかりと握り、(往復2キロの距離を)一生懸命走って駆け付けた時には、特攻機は(離陸を始める)出発線へ移動してしまい、滑走しようとしているところだ。遠いため、走っていけないのが残念だった。池田隊長機が飛び立ち、後続の九七式戦闘機が次々と離陸し、翼を左右に振った。」
「(続いて出発する)第二十振武隊の穴澤利夫少尉の乗った穴澤機が目の前を滑走して出発線に向かっていく。一生懸命、お別れの桜の花を振ると、にっこり笑った。きりりとハチマキをした穴澤さんが何回と敬礼なさる。『パチリ』。後ろを振り向くと、映画のおじさんが私たちを写して満足している。」
「特攻機が全部出て行ってしまうと、私はぼんやりと立って、いつまでも南の空を見ていた。涙がいつか、あふれ出ていた。」
日記を書いた前田笙子さんへの聞き取り調査結果
以下は、前田さんへの2008年の聞き取り調査の内容です。
▼写真撮影が行われたのは、第2次航空総攻撃の日の「4月12日」。場所は戦闘指揮所の前。撮ったのは「映画のおじさん」ではなく、新聞社のカメラマンだった。
▼見送りに使った桜は、前田さんが自宅にある八重桜の木の枝を折って、三角兵舎に持参して飾ったものだった。
▼桜の枝は自分が担当した「第六十九振武隊」の特攻機に渡すつもりだったが、間に合わなかったために桜を手に持って顔見知りの乗った特攻機に振った。
▼勤労奉仕の女学生による見送るは複数回あったが、「桜」で特攻機を見送ったのはこれが最初で最後だった。
▼爆弾を抱えた特攻機の見送りの時の気持ちを聞かれ、前田さんはこう答えている。
「私は特攻機に付いている爆弾が怖かったです。ふだんは積んでいませんので。実際付いているのをみて、脚がガタガタガタガタッとずっと震えて、もう正視できない感じでした。その怖い思いと、もう最後のお別れで出発線に向かうところですし、辛い気持ちとお顔を知っていましたので・・・。」
結語
天皇の玉音放送があった昭和20年(1945年)8月15日から日を経ずして、大本営(=天皇直属の軍の最高指導機関)から新聞各社に対し、戦時中の報道写真を焼却せよ、という命令が出たといいます。
理由は、戦争犯罪人の追及に使われる恐れがあるうえ、撮影したカメラマンの責任が問われかねないというのでした。
しかし、毎日の場合はこれを拒否しました。
「社史」によりますと、当時の大阪本社の写真部長が「特派員が命を懸けて撮った写真は社の貴重な財産であって、歴史の遺産だ。焼くわけにはいかない」という決意から、守り続けてきたそうです。
【参考資料】
●『知覧特攻平和会館紀要』第1号(2019年3月発行)
●同 第3号(2021年3月発行)
●同 第4号(2022年3月発行)
●『別冊1億人の昭和史 特別攻撃隊』(1979年9月発行 毎日新聞社)