北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスや富士山登山、新聞記者としての首相外遊同行、大切な奥様との旅行、反戦への思いを備忘録として載せています。

鹿児島の「知覧特攻平和会館」と「富屋食堂(特攻資料館)」の訪問記

鳥濱トメさんと特攻隊員たち。撮影場所は「富屋食堂」の離れ。(「富屋食堂」の入館券を接写)

 

 太平洋戦争終結から「80年」の2025年9月8日、鹿児島県南九州市にある特攻隊関連の観光スポット「知覧(ちらん)」に行ってきました。

 「知覧特攻平和会館」と「富屋旅館」を回って、陸軍の特攻隊員の遺影をみて遺書を何通か読んできました。

 当時の飛行場の面影はまったくなく、資料館がポツンと2カ所にあるだけ。遺書や遺品は今となっては貴重です。

 

目次

 

 

「知覧」のこと

 知覧(ちらん)は太平洋戦争末期、陸軍の最大の「特攻隊の基地」でした。

 

 「特攻隊」というと、「神風特別攻撃隊」を連想しますが、神風特攻隊は海軍が1944年10月に編成した部隊です。知覧陸軍の特攻基地という違いがあります。

 

 陸軍は、米軍が沖縄の慶良間(けらま)列島に上陸した1945年3月26日以降、特攻隊を沖縄に向けて九州の各航空隊基地から出撃させました

 

 重さ250キロの爆弾を装着した陸軍の特攻機で米軍の艦船に体当たりしようとして戦死したのは1036人。このうち半数近い439人が知覧から飛び立っていました。

 

上の表は、陸軍の特攻隊員の、都道府県別の戦死者数。

 

 

知覧特攻平和会館」の話

 知覧特攻平和会館は、地元の知覧町(現在の南九州市)が1985年度から2カ年の継続事業として総工費5億円で建設した施設です。それまでは特攻隊員の遺品は近くの公園の休憩所の2階を特攻遺品館として保管していましたが、訪れる人が多いため建てました。

 

元特攻隊員が「遺影」を集めた

 知覧特攻平和会館には遺族らから寄せられた手紙の実物やコピー約250点と、特攻で亡くなった1036人の遺影が展示されています。遺書は母親あてが多いです。

 

 全員の遺影を集めたのは元特攻隊員の板津忠正さんという方です。板津さんは知覧から沖縄に向けて97式戦闘機で出撃しましたが、エンジンの故障で帰還。間もなく終戦を迎えたそうです。

 

 戦後、出身地の名古屋市の職員になりましたが、「死が当然だった特攻隊員なのに、自分だけが生き延びてしまった」という思いが消えず、定年を前に退職。戦没者名簿を頼りに遺族を探して墓参し、見せてもらった遺書など遺品はコピーし、遺影はカメラにおさめ、知覧町(当時)に寄贈しました。

 1987年2月に「知覧特攻平和会館」が開館したとき、初代の館長に就任しました。

 

 館内の展示品は、ロビーの「ゼロ戦」を除いて撮影禁止です。

 

 ゼロ戦は「海軍」の戦闘機ですが、客寄せのためでしょうか、展示されていました。

 

 

穴澤少尉の話

 たくさんの遺書の中で、訪れた人の気持ちを引き付けている1つが、福島県出身で当時23歳の穴澤利夫少尉(戦死して「大尉」に2階級特進)が婚約者・智恵子さんにあてた4月12日の出撃直前に書いた手紙

 戦死して4日後、婚約者は手紙を受け取りました。

 

 

 手紙の中で、「あなたの幸せを願う以外に何ものもない」「勇気をもって過去を忘れ、将来に新割面(しんかつめん)を見出すこと」「穴澤は現実の世界には、もう存在しない」などと書きつつも、最後に「智恵子、会いたい、話したい、むしょうに」と本心を述べるあたりが、とてもせつない。

 

 勤労奉仕の知覧高等女学校の生徒に見送られて出撃する穴澤機毎日新聞のカメラマンが撮影。

 

★アクセス

 JR鹿児島中央駅から「指宿枕崎線」でJR平川駅で下車。200メートルほど離れたバス停「平川」(鹿児島交通)から30分余りバスに乗って、「特攻観音入口」で下車。

 (注意)JR平川駅無人駅で、トイレもありませんでした。JRを使わずに路線バスで鹿児島中央駅から特攻観音入口まで直行するコースがおすすめ。乗車時間は1時間20分ほど。

 

 

富屋食堂

 富屋(とみや)食堂は当時、知覧特攻基地から近いこともあって、特攻隊員が食事をする場として陸軍が指定していた施設です。

 いまの「富屋食堂」の建物は、当時の姿に復元して「資料館」にしたものです。

 

 「富屋食堂」の入り口ですが、開館中なのか休館しているのか分かりにくく、戸惑いました。館内の撮影は禁止。

 

 木造2階建ての施設の中には、戦闘機に爆弾を付けて米艦船に体当たりを試みた20歳前後の特攻隊員たちの遺品や遺影を展示していました。

 

 

鳥濱トメさんのこと

 富屋食堂の女将・鳥濱(とりはま)トメさんはのちに、「特攻の母」と呼ばれたほど、食事に来る特攻隊員を温かく迎え、お母さん代わりになった女性です。

 数日以内に出撃する若い隊員たちをわが子のように親しみをもって接し、身の回りの世話をしながらいろんな話を聞いたようです。

 

 当時、特攻隊員は全国の航空基地から隊ごとまとまって知覧にやってきて、「三角兵舎」と呼ばれた兵舎に宿泊。数日以内に特攻に出撃しました。

 

 

 出撃の時は兵舎から歩いて戦闘指揮所まで行き、基地司令官の訓示のあと、別れの盃を交わし、恩賜のたばこを一服したあとに沖縄に向けて飛び立ちました。

 

 特攻隊員は出撃までに何度か富屋食堂に足を運んで腹を満たしたほか、家族への手紙や遺書を書き、それを鳥濱トメに託しました

 鳥濱トメは託された手紙を快く受け取り、憲兵に見つからないように注意しながら投函したそうです。

 

 富屋食堂に展示されている遺品は、軍による検閲を受けていない家族への手紙や遺品、鳥濱トメが特攻隊員に頼まれて一緒に撮った写真、鳥濱トメ自身が遺族に伝えた手紙などです。

 隊員の正直な気持ちが語られているように思います。

 

 写真の右側は、「富屋旅館」。左が「富屋食堂」です。

 「富屋旅館」は戦争が終わってから7年目の1952年、鳥濱トメが営業を始めた旅館です。特攻隊員の遺族らが供養に知覧を訪れた時に泊まるところがないと困るだろうと、戦争当時、特攻隊員が憩いの場としていた富屋食堂の「離れ」を買い取り、旅館にしたのでした。

 

★アクセス

 知覧特攻平和会館からタクシーで5分。料金1000円。1時間近く滞在して遺書などを読み、バス停「中郡(なかごおり)」からJR喜入(きいれ)駅に。JRに乗って指宿で下車しました。JR喜入駅無人でした。トイレはあります。

 JRのローカル線が好きで鉄道を利用しましたが、バス停「中郡」から指宿駅まで直行する方をお勧めします。乗車時間は1時間あまり。

 

 

まとめ

 特攻隊員の心情を察するに、多くは喜んで死んでいったわけではないでしょう。特攻は「志願」という形がとられたようですが、実質的には上官から意向を聞かれた本人が断れない状況が少なくなかったように思います。

 愛する人や家族がいても、死ななければならなかった。その「無念」を思うと、とても特攻を美化できません。

 国家権力によって死を強制される時代が再来することのないよう、80年前の悲劇をいろんな形で「語り継ぐ」ことが大事だと思いますね。

 

 出撃する特攻隊員が「本土に別れを告げる目印」だった開聞岳かいもんだけ)

 (2025年9月9日午前11時撮影)

 

参考資料

●板津忠正「特攻・巡礼行」(『別冊1億人の昭和史』特別攻撃隊、1979年9月発行、毎日新聞社

●図録「所蔵資料から見る特攻隊員の生い立ち」(2025年7月発行、知覧特攻平和会館

●鳥濱初代「なぜ若者たちは笑顔で飛び立っていったのか」(平成26年8月発行、致知出版社

ほか

 

 

www.shifukunohitotoki.net