
「2・26事件(にいにいろくじけん)」という軍事クーデターが都心で起きてから、ことしで90年――。
事件をめぐっては、「陸軍青年将校の身勝手な行動だ」と非難する人がいる一方、「憂国の士」とほめる人もいます。
先日、事件の痕跡をたどるツアーがあり、参加しました。
目次
- 事件のあらすじ
- 【事件の舞台①】歩兵第三聯隊跡
- 【事件の舞台②】歩兵第一聯隊跡
- 【事件の舞台③】近衛歩兵第三聯隊跡
- 【事件の舞台④】高橋是清邸跡
- 【事件の舞台⑤】山王ホテル跡
- 【事件の舞台⑥】料亭「幸楽」跡
- 事件の背景に農村の貧困と軍の派閥対立
- 事件後・・・・・
- 教訓・・・「暴力」には新聞も市民もビビる
- 【参考資料】
事件のあらすじ

(読売新聞HPから引用)
「2・26事件」が発生したのは1936年(昭和11年)2月26日早朝。
20人ほどの陸軍の「皇道派(こうどうは)」という派閥の青年将校が約1500人の兵隊を率いて軍事クーデターを起こしました。
彼らの所属は、陸軍の「歩兵第一聯隊(れんたい)」と「歩兵第三聯隊」、それに天皇と皇居の警護が本来の担当の「近衛(このえ)歩兵第三聯隊」の3部隊です。
首謀者は――
▼磯部浅一一等主計(32歳)=別の事件で免官・隊外へ
▼村中幸次大尉(33歳)=別の事件で免官・隊外へ
▼安藤輝三大尉(31歳)=歩兵第三聯隊第6中隊長
▼栗原安秀中尉(27歳)=歩兵第一聯隊付き
▼野中四郎大尉(32歳)=歩兵第三聯隊第7中隊長
決起部隊は天皇の側近や大臣を次々と殺傷し、首相官邸や警視庁を占拠しました。
しかし、側近が襲われたことに昭和天皇は激怒し、首謀者は3日後に拘束され、非公開の軍法会議で17人が死刑判決を受けて銃殺されました。
蹶起の目的は『君側の奸』の殺害
青年将校が決起したのは、『君側の奸(くんそくのかん)』の排除のため。
「君側の奸」というのは、天皇に仕えながら巧みに天皇を操って悪いことをする側近、という意味。青年将校は具体的に、岡田啓介首相、鈴木貫太郎侍従長、斎藤実(まこと)内大臣らを「君側の奸」とみなしました。

(写真は「図説 2・26事件」から引用)
蹶起(けっき)趣意書というものがあります。野中四郎大尉が原稿を書き、村中幸次大尉が筆を入れたものです。要約すると、こう書かれています。
①日本は神の国で天皇の統帥(とうすい)のもとで発展してきた。
②しかし、元老、重臣、軍閥、政党が私利私欲をほしいままにしており、国民は地獄のような苦しい日々を送っている。
③天皇のそばにいる「君側の奸」を排除して、軍部の手で天皇中心の国家をつくるために蹶起した。
殺害後のビジョンなし!
首謀者たちは、だれを国のリーダーにししていたのか――。
磯部浅一・一等主計(=大尉相当)は、裁判官から「北一輝の著書『日本改造法案大綱』にある方面の実行をしたのか」と問われますと、次のように答えています。
「そのことは考えません。ただ私どもは『不臣の徒』を討ち取るだけでありました。(後継内閣については)特に真崎甚三郎大将を首班とする内閣をという要求をしたことはありません。ただ私が心中で真崎内閣が適任であると思っただけであります。」
重臣殺害後のビジョンがあるわけではなく、あとのことは軍首脳部に「丸投げ」だったのです。
【事件の舞台①】歩兵第三聯隊跡

国立新美術館(港区六本木)。
歩兵第三聯隊の隊舎があったのは、いまの国立新美術館のあるところです。

館内にある「隊舎」の模型。
侍従長にはとどめを刺さず
歩兵第三聯隊の安藤輝三大尉は、2月26日午前5時すぎ、約200人の部隊を指揮し、現在の千代田区三番町にあった鈴木貫太郎侍従長官邸を襲撃しました。
侍従長は寝室で乱入した兵隊に銃剣を突きつけられると、「どこの兵隊か?」「何のために来たか?」と質問を2つ。下士官(軍曹)が答え終わった瞬間、別の下士官(曹長)が拳銃を発射し、侍従長は倒れました。
そこに安藤大尉が駆けつけ、布団の上に正座していた夫人と思われる女性から、倒れているのが侍従長であることを確認。安藤大尉は「とどめ」と声を発して軍刀を抜きかけたところ、夫人は「それだけはやめてください」と哀願。安藤大尉は少しためらいながらも「それでは止めます」と言って、抜きかけた軍刀をさやに収めました。
大尉は立ち上がると「閣下に対して敬礼」と号令。その部屋にいた下士官・兵は着剣したままの小銃で侍従長に対して「捧げ銃(ささげつつ)」を行い、引き揚げました。(=公判調書などから引用)
侍従長夫人は、昭和天皇の幼いころの教育係。すぐに宮中(きゅうちゅう)に電話し、応対した侍従に医師の手配を依頼。このことが天皇に報告された。
内大臣を私邸で射殺
午前5時すぎ、歩兵第三聯隊の坂井直中尉と高橋太郎少尉が率いる別の部隊の210人は、斎藤実(まこと)内大臣の私邸を襲撃し、「国賊」と異口同音に叫びながら内大臣に47発の銃弾を撃ち込んで惨殺しました。
高橋太郎少尉は内大臣惨殺後、約20人を率いて荻窪の陸軍教育総監の渡辺錠太郎大将の自宅を襲い、拳銃と軽機関銃を乱射。高橋少尉が軍刀でとどめを刺しました。
ほかに野中四郎大尉は約450人を率いて警視庁を占拠。目的は警官隊の出動を阻止するため。警視庁本部には数十人の警官がいましたが。軍との衝突はなし。
指揮官の野中大尉は「蹶起趣意書」の草案を書いた人物で、事件終息後に全将校が陸相官邸に集結した際に拳銃自殺しました。

(写真は、警視庁を占拠した反乱軍。「図説 2・26事件」から引用)
【事件の舞台②】歩兵第一聯隊跡

歩兵第一聯隊(略称:歩一)の隊舎は、現在の東京ミッドタウン(港区赤坂)の位置にありました。
戦後、防衛庁の本庁舎として使用。防衛庁が市ヶ谷に移転後、「東京ミッドタウン」という複合施設ができました。

東京ミッドタウンの隣にある「港区立檜町公園」の池のほとりに、「歩一の跡」と刻まれた石碑がひっそりと建っています。
首相官邸を襲撃・占拠

占拠された首相官邸。現在も敷地内で「首相公邸」として首相の住まいとして使われています。
歩兵第一聯隊の栗原安秀中尉は兵員約300人の指揮を執り、午前5時10分ごろ、永田町の首相官邸を襲撃。岡田啓介首相の命を狙いましたが、首相は側近の知恵で女中部屋の押し入れに隠れて助かりました。
中庭で兵が高齢の男を射殺。栗原中尉はそばの部屋にかけられていた岡田首相の写真を懐中電灯で照らして男が首相本人だと信じ込みました。
しかし、殺害されたのは首相の義弟で秘書の松尾伝蔵・元陸軍大佐でした。
ほかに首相を警護していた警視庁の警官4人も射殺されました。
朝日新聞社を襲撃

倒された活字ケース。(「朝日新聞社小史」から引用)
栗原安秀中尉はこの後の午前9時ごろ、約40~50人を率いて有楽町にあった「東京朝日新聞社」(現在の朝日新聞東京本社)に、トラックと乗用車計3台で現れ、社を包囲。
栗原中尉と、途中で栗原の舞台と合流した中橋基明中尉(近衛第三聯隊)の2人が社内に入り、「代表者らしき者」(公判調書)を呼び出して蹶起趣意書を渡し、今回の行動理由を告げました。
そのあと2人は2階の印刷工場に侵入し、活字ケースのほとんどすべてを床に倒しました。
朝日新聞社襲撃は当日、栗原中尉が独断で決めた行為で、軍事法廷で「特に朝日新聞社を襲撃したのは、常に自由主義な主張をなし、非国民的な新聞で反軍的記事を掲載するので、襲撃してその反省を促したわけであります」と答えています。
他のマスコミ各社も回る
栗原中尉らはこのあと、他の新聞社にもいき、蹶起趣意書の掲載を求めています。栗原は軍事法廷で次のように述べています。
「我々の主張を宣伝するために、朝日新聞を引き揚げてから『報知』『東京日日』『読売』『時事』『国民』『電通』などの新聞各社を回り、蹶起趣意書を渡して新聞に掲載するようにといって置いてきました。朝日新聞社を襲撃し、各新聞社を回って首相官邸に帰るまで約1時間を要しました。その間、官邸の留守は林八郎少尉が指揮しておりました。」
【事件の舞台③】近衛歩兵第三聯隊跡

近衛歩兵第三聯隊があった場所は、いまのTBS(港区赤坂)の位置です。

TBSの隣には、関係者が建てた記念碑があります。
【事件の舞台④】高橋是清邸跡

高橋是清蔵相の屋敷があったのは港区赤坂7丁目で、いまは公園になって蔵相の像が立っています。

襲撃された当時の屋敷は、「江戸東京たてもの園」(小金井市)で保存されています。2階が蔵相の寝室でした。
2月26日午前5時すぎ、近衛歩兵第三聯隊の中橋基明中尉が約300人を率いて高橋是清蔵相の私邸を襲撃しました。
中橋中尉の公判での証言――。
「2階十畳の間で高橋蔵相が布団の中で仰向いて目を少し開けて寝ていたので、『天誅(てんちゅう)』と叫び、布団をはね上げましたが、起き上がろうともせず、私は拳銃を3発、腹をめがけて撃ちました。そこへ中島莞爾少尉が飛び込んできて軍刀で蔵相を斬りました。」
【事件の舞台⑤】山王ホテル跡

山王ホテルは、日枝神社の隣の、オフィスビル「山王パークタワー」あたりに建っていました。

事件当時の「山王ホテル」(「図説 2・26事件」から引用)
決起部隊は、この「山王ホテル」と、近くの料亭「幸楽」を本部としました。
【事件の舞台⑥】料亭「幸楽」跡

料亭「幸楽」があったところは、いま超高層ビル「プルデンシャルタワー」(千代田区永田町)になっています。
(それ以前は、火災で大勢の死者を出したホテルニュージャパンが建っていました。)

料亭「幸楽」の前で銃を構えてポーズをとる決起部隊。(ウィキペディアから引用。撮影者不明)
事件の背景に農村の貧困と軍の派閥対立
当時、アメリカでは不況で企業の倒産が相次ぎ、失業者があふれていました。
そのアメリカに「生糸」を輸出していた日本は輸出減で打撃を受け、東北地方の農村では冷害も加わって住民の暮らしが苦しくなりました。娘の身売りや欠食児童も増え、そうした事態に青年将校は社会改革の必要を痛感したようです。
また、陸軍内の、天皇中心の軍事政権を目指す「皇道派」と、軍内部の統制が先だとする「統制派」が激しく対立したことも背景にあります。
事件後・・・・・

渋谷税務署の隣にある「慰霊像」。かつてここには陸軍刑務所があり、青年将校17人が銃殺された場所です。
2・26事件後は、武力を行使する軍部の発言力が強まりました。
広田弘毅内閣は陸軍の要求で、「陸軍大臣と海軍大臣は現役の大将・中将に限定する」という制度を導入。軍部が政治を支配するようになって、日中戦争・太平洋戦争に突き進みました。
教訓・・・「暴力」には新聞も市民もビビる
2・26事件は「言論の自由」にとどめが刺された事件でした。
朝日新聞社は乱入してきた決起部隊に「活字ケース」がひっくり返されました。しかし、予備があったので「夕刊発行」には支障がありませんでした。
編集部門トップの緒方竹虎は「夕刊を出そうじゃないか」と発言しましたが、社内では「決起部隊を刺激するからやめよう」という慎重論が強く、夕刊は休刊しました。
「軍による暴力」に新聞社は震えあがったのです。
「文民統制」が重要
幸いなことに、日本はいま「文民統制」が整備されています。「シビリアンコントロール」ともいいますが、軍人ではない政治家が軍事力を統制する、という原則です。
首相や大臣は現役の自衛官であってはならないとされ、首相は自衛隊に対する最高の指揮監督権を持っています。
「文民統制」の大切さを認識しなければならないと思います。
【参考資料】
①池田俊彦編『二・二六事件裁判記録』(原書房、1998年発行)
②北博昭著『二・二六事件 全検証』(朝日新聞社、2003年発行)
③平塚柾緒著『図説 2・26事件』(河出書房新社、2003年発行)
④太平洋戦争研究会編『2・26事件の衝撃』(PHP研究所、2010年発行)