
「江戸城」は、どこにあったのですか? そう聞かれたら、なんと答えますか?
「江戸城」の天守閣や本丸御殿は、いまの皇居東御苑にありました。
ありがたいことに入場は無料です。265年続いた江戸時代の面影を訪ねて、皇居周辺を散策しました。
目次
- 江戸城の歩み(=徳川家康による増改築)
- 皇居東御苑(=江戸城本丸)
- 皇居東御苑(=江戸城「二の丸」「三の丸」)
- 宮殿(=江戸城「西の丸」)
- 皇居外苑(=江戸城「西の丸下」)
- 丸の内・大手町(=大名小路)
- 御所(=江戸城「吹上」)
- 北の丸公園(=江戸城「北の丸」)
- その他、皇居の門


【皇居全体図】
江戸城の歩み(=徳川家康による増改築)
三河国(みかわのくに;愛知県岡崎市)生まれの徳川家康が、天下統一を果たした豊臣秀吉から関東に領地替えを命じられたのは、1590年でした。家康が入った【江戸城】は荒れ果てていました。
家康は関ケ原の戦いのあとの1603年、朝廷から征夷大将軍に任命されました。江戸に幕府を開くと、江戸城の建て替えと武家屋敷建設のため、諸大名に天下普請(てんかぶしん)という土木工事をを命じて東京湾を埋め立てました。
天下普請は3代将軍・家光の時代まで30年ほど続き、「本丸」を中心に、その周りに「二の丸」「三の丸」「西の丸」「西の丸下」「北の丸」「吹上」を配置。これらを総延長7キロの内堀で囲みました。
さらにその外側には大名屋敷や町人の住まいを整え、総延長14キロほどの外堀で囲みました。
皇居東御苑(=江戸城本丸)

【図解『江戸城をよむ』深井雅海著、原書房】から引用
上の図は貴重な図面です。1700年代初めの江戸城のようすです。
江戸城を散策するときの一番の見どころは「天守閣」と「本丸」跡でしょうから、そこから紹介していきます。
天守閣や本丸のあった江戸城中枢部はいま、【皇居東御苑】と呼ばれる芝生の庭になっています。
江戸城「天守閣」の天守台

江戸時代の初期、「天守台」という石垣の上に天守閣が建っていました。
天守閣はお城で一番高い建物。物見やぐらであり、城主の権威のシンボルでもありました。
江戸城の天守閣は家康、2代将軍秀忠、3代将軍家光と、3代にわたって3回築かれました。
しかし、3回目の天守閣は明暦の大火(1657年)の時、留め具を掛け忘れた天守閣2層目の窓から炎が入って焼失しました。
4代将軍家綱は天守閣再建を目指して加賀藩前田家に命じましたが、家綱の後見人の保科正之が「泰平の世に天守閣は無用でござる」と主張したため、天守台を築いたところで再建を中止。今日に至っています。

【『江戸図屏風』から引用】
図の右上が、焼ける前の天守閣。その下が本丸御殿。
江戸城「本丸御殿」跡


図の下の「天守閣」から、図の上部の「富士見櫓(やぐら)」まで、御殿が広がっていました。
江戸城「本丸御殿」は、表(おもて)、中奥(なかおく)、大奥(おおおく)という3つの区域から成っていました。
「表」は将軍が政務や儀式を行う場。「中奥」は将軍の日常生活の場。
「大奥」は将軍の正室の御台所(みだいどころ)や、側室、将軍の子ども、奥女中など将軍の家族の生活の場でした。

「天守台」の上から見下ろした風景。御殿が建ち並んでいたところはいま、芝生広場になっています。
松の廊下跡

赤穂浪士討ち入りにつながる浅野内匠頭の吉良上野介への刃傷事件があった場所です。本丸御殿の「表(おもて)」にあった長い廊下です。
富士見櫓(ふじみやぐら)

高層ビルがない時代には、このやぐらから富士山が見えたんでしょうね。
皇居東御苑(=江戸城「二の丸」「三の丸」)
大手門

大手門です。一般公開されている『皇居東御苑』に入るときには、多くの人がこの門を使います。
JR東京駅に近い大手門は、江戸城の正門でした。参勤交代で江戸に滞在中の諸大名が登城するときにここを通りました。
大手門から場内に入ったところが江戸城「三の丸」です。


「大手三の門」、通称「下乗門(げじょうもん)」。

「大手門」から入った次の門は「大手三の門」で、江戸時代は「大手三の門」の前に堀があり、橋が架かっていました。(上の写真)
大手門から駕籠(かご)で入ってきた御三家以外の大名は、ここで駕籠から降りたため、橋は「下乗橋」、「大手三の門」は「下乗門」と呼ばれました。
「大手三の門」に続いて「中之門」が現れますが、御三家といえども、ここで駕籠から降りて徒歩で門をくぐらなければなりませんでした。
同心番所(どうしんばんしょ)

「大手三の門」、通称「下乗門」の内側に同心番所があります。(上の写真)
「番所」というのは警備員の詰所のこと。
ここでは「与力(よりき)」「同心」と呼ばれた幕府の位の低い武士が「大手三の門」を警護するために詰め、登城する大名の「供の者」を監視していました。
百人番所(ひゃくにんばんしょ)


「下乗門」を抜けると、そこが江戸城「二の丸」になります。
ここを右に行けば「二の丸御殿」、まっすぐ進んで「中ノ門」(=上の写真)をくぐって右に行くと、本丸御殿につながる要所です。
「二の丸」の広場の左隅には、長さ50メートルもある平屋づくりの「百人番所」という詰所があります。(=上の写真)
伊賀組、甲賀組(こうかくみ)、根来組(ねごろぐみ)、二十五騎組と呼ばれら、鉄砲を持った4組の武士集団が、昼夜交代で不審者の侵入防止に努めました。
平川門(ひらかわもん)

「大手門」の近くに、「平川門」があります。
平川門は江戸城「三の丸」の正門でした。
この門は本丸の大奥に通じていたため、奥女中の通用門として使われていました。
宮殿(=江戸城「西の丸」)
宮内庁主催の無料参観ツアーでは、ふだん立ち入り禁止になっている「宮殿」の外観と、「二重橋」を見学できます。
宮殿のある場所は、江戸時代は『西の丸』といい、隠居した前将軍や世継ぎの御殿がありました。
桔梗門(ききょうもん)

桔梗門は現在、一般参観のときの入退場門として使われます。
江戸時代は、三の丸に入るときの門の1つでした。
下から見た「富士見櫓」

富士見櫓。江戸城本丸の南隅の、石垣の上のもうけられた防御施設でした。鉄砲や矢で攻めて来る者を攻撃するための拠点でした。
宮殿

「宮殿」は天皇が公務を行う建物で、正殿、長和殿など7つの棟から構成されています。
新年の一般参賀や新任の外国大使による「信任状捧呈(ほうてい)式」、国賓の宮中晩さん会などはここで行われます。
二重橋(にじゅうばし)

「二重橋」です。正式な呼び名は「皇居正門鉄橋」。
江戸時代にできたときは、木造の二重構造だったため、そう呼ばれました。その後、鉄の橋に架けかえられ、今日に至っています。

これがもともとの「二重橋」。

「二重橋」からみた皇居前広場と、その手前の「皇居正門石橋」。

これは「皇居正門石橋」の先にある皇居正門。

「二重橋」から見える伏見櫓(やぐら)。
皇居外苑(=江戸城「西の丸下」)
『西の丸下』は、江戸時代初期に埋め立てられ、関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えていた「譜代」大名の上屋敷が建ち並んでいました。
当時の武家屋敷は明治時代に壊され、いまはクロマツが植えられた皇居外苑になっている。
丸の内・大手町(=大名小路)

JR東京駅の西側は「丸の内」と言いますが、この地名は「江戸城の内側」という意味。
江戸時代には徳川家の親戚筋の親藩や譜代大名の屋敷が建ち並んでいました。
「大名小路」と呼ばれていました。

【『古地図で歩く江戸・東京』(山本博文監修、三栄書房)から引用】
御所(=江戸城「吹上」)
「吹上」は江戸城の北西部にあるエリア。
江戸初期には、御三家(尾張、紀伊、水戸)の上屋敷が置かれていました。
上屋敷というのは、大名が江戸に滞在中に住む屋敷のこと。
しかし、明暦の大火(1657年)の後は、江戸城の防火対策のため御三家は移転を余儀なくされ、跡地は庭園になりました。
御三家の上屋敷の移転先は、江戸城の外堀のすぐ外側。
水戸徳川家は現在の文京区後楽に、紀伊徳川家は千代田区紀尾井町に屋敷が与えられ、尾張藩上屋敷の移転先は現在、防衛省市ヶ谷庁舎になっています。
現在、吹上御苑に天皇陛下のお住まいの御所がありますが、唐山一般人は立ち入り禁止。
北の丸公園(=江戸城「北の丸」)
「北の丸」は現在、北の丸公園になり、日本武道館があります。
8代将軍吉宗の時代に、吉宗は「徳川御三家」とは別に「徳川御三卿」を創設しました。徳川本家や御三家に将軍の世継ぎが生まれなかったときに、後継者を提供するためでした。
その「徳川御三卿」に吉宗の子どもや孫を充て、北の丸公園に屋敷を構えさせました。
その他、皇居の門
坂下門

坂下門は、江戸城「西の丸」が造営されたときに築かれた門。現在は、宮内庁の通用門になっています。
桜田門

幕末の1860年、彦根藩主で大老の井伊直弼が屋敷から登城中、水戸浪士に襲撃された「桜田門外の変」の現場です。
半蔵門


家康に仕えた服部半蔵が、江戸城西端の「甲州街道」に面した門前に屋敷を構え、伊賀忍者を率いて警護に当たった門が「半蔵門」。
彼自身は忍者ではなく武士だったとか。
現在、半蔵門はyrン脳や皇室が皇居に出入りするときに使っているようです。
北桔橋門(きたはねばしもん)

江戸城「天守閣」のすぐ後ろにある門です。
緊急時には、門の前に架かっている橋が跳ね上がり、敵の侵入を阻止できる仕掛けになっていたそうです。