北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍級の登山、国内外の旅行、歴史探訪、反戦・平和への思いなど備忘録としてつづっています。

歴史探訪~心の琴線に触れる「忠臣蔵」「赤穂浪士」・・・事件の舞台を歩く(上)

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 東京・高輪の泉岳寺の山門(2021年12月21日撮影)

 

 

目次

 

 

 

 

 

中高年に根強い人気

 テレビドラマの「忠臣蔵」は、ちょっと前までは年末の風物詩でした。このところ番組は少なく、ブームは去ったかな、と思いました。

 ところがどっこい、暮れに東京都港区高輪の泉岳寺(せんがくじ)を訪ねると、平日でしたが参拝者が絶えないんですね。40歳以上の方ばかりでしたが。根強い人気があるようです。

 

 300年以上も前の事件の現場を歩き、歴史を振り返ってみました。

 

 

 

忠臣蔵」って何のことです?

 

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 吉良邸討ち入りの場面(江戸時代の浮世絵師・歌川国芳による「忠臣蔵十一段目夜討之図」)

 

 

 

 赤穂(あこう)浪士の討ち入り、というのは江戸時代に実際にあった話です。

 

 旧暦の元禄15年(1702年)12月14日の深夜播州赤穂(現在の兵庫県赤穂市)の家老・大石内蔵助(おおいしくらのすけ)ら47人の武士が、藩主だった浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の恨みを晴らすため、として、高家(こうけ)肝煎の吉良上野介(きらこうずけのすけ)江戸屋敷を襲撃し、吉良を殺害しました。

 この騒ぎを赤穂事件と呼び、討ち入った47人を「四十七士(しじゅうしちし)」ともいいます。

 

 事件が起きた江戸時代の元禄年間は、5代将軍綱吉の時代。武将同士の戦もなく過去のものになりつつあった「武士道」という武士のあるべき道徳規範を、この討ち入りは体現した、と町民ばかりか一部の大名からも喝さいを受けました。

 

 

 

人気の秘密は何だろう?

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 江戸城本丸の「松之廊下」があった位置に置かれている石碑。

                       (現在の皇居東御苑の中)

 

 

 

 赤穂事件は、人形浄瑠璃や歌舞伎の格好の題材になり、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」以降脚色されて幾度となく創作されてきました。

 

 人気の秘密は何でしょう?

 心に響くものは何なんでしょうか・・・。

 

 「主君」への忠義でしょうか? 違う気がします。太平洋戦争のころは天皇への忠誠が求められて「忠義」「滅私奉公」が強調され、「忠臣蔵」は軍国主義に利用されたようですが、現代は違うような気がします。勤務先の社長への忠義なんて考えられませんよね。

 

 思いつくまま挙げると・・・。

◆将軍綱吉の裁定への反発。浅野内匠頭江戸城本丸御殿の中で刀を抜くなんて、よほどのこと。当時は「喧嘩両成敗」という決まりごとが生きていたのに、浅野は切腹・お家断絶、一方の吉良はおとがめなし、という理不尽な裁定への異議申し立てでしょう。将軍に対して是正を求めた正義の行動だ、という思いから。

◆吉良による嫌がらせへの反撃であり、武士としての名誉を守ろうとした姿勢に共感。

◆弱い立場にある人を応援し、強者を打ちのめした時の達成感を味わえる。

◆敵を討った後は散る・・・という美学への共感。

◆浅野家の再興を認めない幕府は理不尽ではないか、という思い。

◆隣の土屋主税(ちから)の屋敷が、吉良邸への討ち入りと分かると自分の屋敷に高提灯(たかちょうちん)を灯して周りを明るくし、武士の情けで浪士の奮闘を見守ったこと。

――などなど。

 

 

 

 ここからは「赤穂事件」の舞台を順に追います。

江戸城本丸・松之廊下(今回掲載)

②吉良邸(次回掲載)

③大石が切腹した細川家下屋敷

泉岳寺

 

 

 

 

事件の舞台 ①江戸城本丸・松之廊下

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 江戸城本丸御殿の配置図。「大広間」から「白書院」までのカギの字型の廊下が「松之廊下」。

 

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 「松之廊下」があった場所はいま皇居東御苑の中の散策路になっています。

 

 

 

殿中で刃傷事件発生!

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 「忠臣蔵」の見せ場。松之廊下で斬りつけられる吉良上野介(「忠雄義臣録第三」より3代歌川豊国画)

 

 

 「赤穂事件」と、のちに歴史研究者が呼ぶようになった一連の出来事の始まりは、吉良邸への討ち入り前年の元禄14年(1701年)3月14日江戸城本丸御殿・松之廊下、通称・松の廊下で起きた刃傷事件でした。

 

 ドラマの主役は2人。浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)と、吉良上野介(きらこうずけのすけ)です。

 

 その日は、京都の朝廷から派遣された勅使(=天皇の使者)が3日間の江戸滞在を終えて、将軍綱吉に年賀の答礼をする儀式の最終日でした。

 

 この勅使のために、浅野内匠頭は「御馳走役」といういわば接待係として、「ぜいたくな料理の用意」「高価な進物の献上」「滞在する部屋の造作・装飾」というおもてなしをしなければなりません。この接待費用はすべて「御馳走役」を命じられた大名の持ち出し。さらに接待の仕方を指導してくれる高家肝煎というポストの吉良上野介には、「指南料」として高価な進物をするしきたりになっていました。

 

 その最終日、江戸城本丸御殿の白書院(しろしょいん)で、儀式が間もなく始まろうとしていました。

 その時、大広間から白書院に通じる松之廊下で事件が起きたのです。

 

 事件の目撃者、留守居役の梶川与惣兵衛(かじかわよそべえ)の証言によりますと、梶川が吉良上野介と勅使の到着時刻について立ち話をしていたところ、突然、浅野内匠頭が近づいてきて、吉良に対して「此の間(このかん)の遺恨、覚えたるか」(=先日来の恨みを覚えているか)と声を掛けながら脇差で背後から吉良に斬りかかりました。

 

 吉良が驚いて振り向いたところ、眉間(みけん)を斬られ、さらに逃げようとしたところ背中を斬られ、そのままうつむきに倒れました。梶川は「殿中でござる!」と叫びながら浅野を抱き留めました。

 

 5代将軍綱吉は、重要な儀式直前の刃傷沙汰に激怒したんでしょう。浅野内匠頭に即日切腹を命じ、お家おとりつぶしにしました。

 

 一方の斬りつけられた吉良は、額と背中に浅い傷を負ったものの、「刀にも手を掛けなかった」ことを理由に、おとがめなしとなりました。

 

 

 

吉良を浅野が斬りつけた背景

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 東京・両国の吉良邸跡にある吉良上野介の像。

 

 

わいろを贈らないので意地悪された?

 浅野内匠頭が吉良に斬りかかる時に発した「遺恨」が何なのか、いまもはっきりしていません。

 

 一説には、浅野が吉良にわいろを十分贈らなかったために吉良に意地悪されたという見方があります。吉良は、1年交代で「御馳走役」になる歴代諸大名から、勅使接待の指南をするという職務権限を利用してわいろを多くもらっていたようですが、浅野はわいろを贈らなかったために、儀礼上のノウハウを吉良からきちんと教えてもらえず恥をかいた、という説です。

 

 

勅使接待費をケチって吉良に嫌われた?

 このところもっともらしく説明されているのは、浅野が接待予算を従来より削ろうとして吉良と対立したのではないか、という見方です。

 勅使の接待費用は、「御馳走役」を幕府から命じられた大名の持ち出しです。浅野は18年前にも御馳走役を務めており、その時の支出を調べると450両から460両。念のために4年前の御馳走役の会計簿を借りて調べてみたら1200両かかっていました。浅野は経費を4年前より削って「700両でやりたい」と吉良に告げました。

 ところが吉良は、インフレの進行で物価が高騰していることから経費削減を快く思わず、「浅野はケチな田舎大名」のように映り、冷たくしたのではないかという見方です。インフレに対する認識のずれがあったというわけです。

 

 江戸城本丸御殿で起きたこの刃傷事件――。浅野は幕府重役や諸大名の前で吉良に赤っ恥をかかされ、いま吉良を討たなければ気が済まない、と衝動的に思ったのかもしれませんね。

 

 

 

幕府の処分は「喧嘩両成敗」ではなかった

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 江戸城天守台(写真手前の石積み)から見下ろした本丸。芝生一帯に御殿がありました。

 

 

 赤穂事件当時、「喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)」という慣習が残っていました。

 

 喧嘩両成敗というのは、次のようなルールです。

武家の刑法の1つで、ケンカした者に対し、理非を問わず双方ともに制裁を加えること室町時代に出現。大名は領内の治安維持や家臣団の統制強化を目的として分国法に規定した。江戸時代にも慣習法として残存した。」(旺文社日本史事典三訂版の解説)

 

 しかし、松之廊下での刃傷事件では、吉良は脇差を抜かずに逃げただけだったため、幕府はケンカとはみなさなかったのですね。

 吉良はおとがめナシ。無罪でした。

 

 

 

 

浅野内匠頭、邸内ではなく「庭先」で切腹

 浅野は事件を起こしたその日のうちに、罪人や死人を江戸城内から出す時に使う「平川門」(現在の竹橋近く)を出て、近くの陸奥一関藩(現在の岩手県)田村右京大夫建顕(たむらうきょうだいぶたてあき)の上屋敷に護送されました。

 将軍綱吉は、浅野に切腹を命じ、浅野は通常邸内の座敷で行われる大名らしい切腹ではなく、庭先で切腹させられました。

 

 

 切腹の直前、浅野は家臣に手紙を書きたいと願い出るのですが認められず、口頭で話す内容を田村家の者が書き留めました。その内容は、

このことは、かねて知らせておくべきだったけれども、今日やむを得ない事情があってのことで、知らせることができなかった。不審に思うことであろう」。

 

 夕刻、浅野の家臣の片岡源五右衛門磯貝十郎左衛門ら6人が遺体を引き取って浅野家の菩提寺泉岳寺に向かい、葬りました。

 

 

 

吉良が生きていることに反発

 幕府による裁定で主君が切腹した一方、吉良が生きていることを知った浅野の家来で江戸詰めの堀部安兵衛らは激高。「即刻、吉良を討つべし」といきり立ちました。

 しかし、赤穂藩筆頭家老の大石内蔵助は彼らをなだめ、「浅野家再興」に動きます。しかし、幕府はこれを却下。ここにきて大石は吉良邸に討ち入って主君の無念を晴らす決断をしました。

 

 

 

 

【主な参考資料】

①「花の忠臣蔵野口武彦 2015年12月講談社

②「東大教授の『忠臣蔵』講義 山本博文 2017年12月角川新書

赤穂義士記念館(泉岳寺内)の展示資料