展示されている江戸城天守の復元模型(2021年12月1日 皇居東御苑で撮影)
目次
- 天守を再建するの?
- 訪日外国人向けだったが「コロナ禍」で破綻?
- 「江戸城」って、そもそもどこにあったの?
- 「天守」の役割は?
- 「天守」と「天守閣」の違いは?
- 江戸城の天守は3度、築かれた
- 天守はいつ、なくなったの?
- なぜ再建しなかったの?
- 現存する「天守台」の前の芝生広場には何があったの?
- 旧江戸城天守台への行き方(観光案内)
天守を再建するの?
模型が展示されている建物。
皇居東御苑(東京都千代田区)という庭園を12月1日に散策していましたら、旧江戸城の天守(=天守閣)を復元した模型を展示している建物がありました。現在も残っている石積みの天守台近くの本丸休憩所わきです。
一見して大型のプラモデルのように思えましたが、なんとなんと、宮内庁というれっきとしたお役所が制作したものでした。
なんでこの時期に、復元して展示しているんだろう。まさか大枚を投じて天守閣を復元しようなんていうんじゃないよね・・・。
実際の天守の30分の1の大きさで再現していて模型の高さは天守台を入れて2㍍。石垣の上に5層の天守が載せられ、屋根には金色の鯱(しゃち)が輝いていました。
いつから模型が一般公開されているのか調べると、1年以上も前の2020年9月からでした。
訪日外国人向けだったが「コロナ禍」で破綻?
屏風に描かれた天守(中央やや右の位置)。
江戸図屏風(国立歴史民俗博物館所蔵)より引用。
なぜ今、「復元」なの?
どうやら、訪日外国人を念頭に置いた試みだったようです。
安倍晋太郎政権だった2016年3月、政府は「明日の日本を支える観光ビジョン――世界が訪れたくなる日本へ――」という指針をつくって、外国人旅行者の呼び込みに走りました。当時は訪日外国人が増え続けていて、日本国内にお金を落としてくれれば観光の力で雇用が生まれる、ともくろんだのです。
その際、わが宮内庁は、旧江戸城本丸エリアに江戸城天守の復元模型を設けることによって、訪日外国人に「日本文化の素晴らしさ」を伝えようとしました。
宮内庁は2017年10月から約5000万円をかけて模型を制作。2020年3月から一般公開する予定でした。が、折しもコロナ禍で日本人はもとより、外国人も日本に来なくなり、予定より半年遅れで公開したようですね。
ところがまた、変異株「オミクロン株」が世界中で急拡大し、この11月30日から外国人の入国が禁止になっちまいました。
せっかくの機会ですので、江戸城や天守についてちょっと勉強してみました。
「江戸城」って、そもそもどこにあったの?
皇居全体図(宮内庁HPから引用)
江戸城というのは、いまの皇居があるところ、そのものですね。太田道灌(おおたどうかん)という室町時代の武将が築いた城です。
徳川家康が豊臣秀吉の命で天正18年(1590年)、駿府城(いまの静岡市)から江戸城に移って以降は、徳川家の居城になりました。
家康は関ケ原の戦いで勝利し、江戸幕府を開いた慶長8年(1603年)以降、江戸城の拡張に着手。長いこと時間をかけて3代将軍家光の時に西の丸や北の丸、二の丸、三の丸、天守、吹上御所などの整備が終わりました。
「江戸城」は明治になって天皇が京都から東京に移ると「宮城(きゅうじょう)」と称され、戦後、「皇居」と呼ばれるようになりました。
いま「皇居」の中心は「吹上御苑」と「西の丸」というエリアです。
「吹上御苑」は御所、「西の丸」は宮殿と宮内庁庁舎になっています。
江戸城の中心だった本丸や天守、二の丸、三の丸の一部は「皇居東御苑」として一般公開され、北の丸は「北の丸公園」になっています。
「天守」の役割は?
現在の皇居全域の図。図の右下が北。
天守は、戦国時代以降のお城に設置されましたが、当初の目的は遠くを見渡すための高層建築物。それが江戸時代には将軍や大名の権力の象徴のような意味合いだったようです。
「天守」と「天守閣」の違いは?
「天守閣」という言い方を昔からしますが、「天守閣」は「天守」の俗称だそうです。明治時代から庶民が「天守閣」と言い始めたようです。
江戸城の天守は3度、築かれた
初代の天守は、家康が建築しました。
家康が死去すると、2代将軍秀忠が天守を撤去して新たに天守を築きました。
3代将軍家光も、自らの威信を示すために新たに立派な木造の天守に建て替えました。
宮内庁が作った模型は、家光が建てた五層の建物の模型です。
家光が建てた実際の天守は、天守台を合わせると高さ60㍍。20階建てのビルに相当しますね。
天守はいつ、なくなったの?
4代将軍家綱の時代に、のちに「明暦の大火」(1657年)と呼ばれる火災があって、江戸の街の四分の三が焼けた際、江戸城天守も被災しました。
原因は銅製の窓の扉を閉める金具の掛け忘れで、扉のすき間から風にあおられた炎が入り、天守が全焼したようです。
なぜ再建しなかったの?
4台将軍家綱は天守の再建を計画、新たな天守台の構築に加賀百万石の前田家が任されました。
しかし「天守台」はできたものの、「天守」は築かれませんでした。なぜか?
本当の理由は史料が少ないため分かりません。
ただ、家綱の叔父で後見役の会津藩主・保科正之(ほしなまさゆき)が、天守の再建について
「天守は近世の事にて、実は軍用に益なく、唯観望に備ふるのみなり。これがために人力を費やすべからず」
と言った、と『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ』という幕府が編纂した書物にあるらしく、被災した城下の復興が優先されたようです。
江戸城の天守は、江戸初期の50年ちょっとだけ存在したわけですね。
現在残っている天守台は前田家が積みなおしたもので、高さ11メートル、東西41メートル、南北45メートルの石積みです。御影石(花崗岩)から成っています。
現存する「天守台」の前の芝生広場には何があったの?
天守の前は江戸城の中心の「本丸」で、立派な御殿が建っていました。
御殿は北側(上の図では下)から大奥(おおおく)、中奥(なかおく)、表(おもて)という3つのエリアに分かれていました。
皇居東御苑の芝生広場に「大奥」や「松之廊下」があった!
もう少し詳しく見ますと、天守に一番近いエリアは、ドラマでおなじみの大奥です。御台所(みだいどころ)と呼ばれた将軍の正妻をはじめ、側室や大勢の奥女中の生活の場です。
その向こうは中奥。ここは将軍が日常生活を送る場で、風呂もありました。中奥と大奥は厳重に区画され、御鈴廊下(おすずろうか)だけでつながっていました。
天守台から一番遠い表は、将軍の謁見など公的な行事や儀式が行われた場所。幕府の役人の仕事場もありました。忠臣蔵でおなじみの松之廊下はここにありました。
旧江戸城天守台への行き方(観光案内)
天守は天守台の上に建てられました。その天守台まで歩いて行けます。無料です。(月・金と年末年始休園)
「大手門」は江戸城の正門だった
大手門。
皇居東御苑への出入り口は、東京駅に近い大手門がおすすめ。門の前で手荷物検査があります。
大手門は江戸城の正門で、諸大名はこの門から登城しました。
小さな門をくぐると、枡形の広場です。
大手門渡り櫓(やぐら)。
枡形の広場に一歩入ると、右手にある門です。太平洋戦争末期の米軍による空襲で木造部分は焼け、石垣だけ江戸時代のまま。後の部分は修復したものです。
枡形になっているのは、侵入してきた敵を攻撃しやすいからだそうです。
同心番所(どうしんばんしょ)
同心番所という建物です。
「番所」というのは警備詰め所のこと。「同心」と呼ばれた下級武士が登城者を監視するところです。いまでいう警察の仕事をしていました。
百人番所は「忍者」による特殊部隊?
写真の長屋が百人番所。
百人番所の左端に見える石垣が、「大手三の門」です。
江戸城の正門である大手門から駕籠(かご)に乗って入場した諸大名は、徳川御三家(尾張・紀州・水戸各藩)の藩主を除いて、大手三の門をくぐる前に駕籠を降り、徒歩で門をくぐるようになっていました。ここからは従者の数も制限されます。
この大手三の門の内側にあるのが百人番所です。警備詰め所で建物は50㍍あります。
百人番所には鉄砲百人組と呼ばれた伊賀組、甲賀組、根来衆、二十五騎組の4組が交代で24時間警備に当たりました。大名のお供の者を監視したのです。
各組とも「同心」100人と、同心の上司の「与力」が20人配置されていました。
伊賀組は、伊賀上野(現在の三重県上野市)の服部半蔵が率いた武士集団。家康に召し抱えられ、諸大名の内情を探っていました。
根来衆は、和歌山県那賀郡の根来寺の僧兵を中心とした鉄砲集団。
鉄砲百人組のことを公然と「忍び」「忍者」とは言わなかったでしょうが、隠密行動にたけて警護にも秀でていた人たちでしょうね。
百人番所を過ぎると、目の前が本丸への入り口にあたる中之門です。
中之門跡
中之門。
中之門の石垣は、江戸城の中でも最大級の巨石が使われていたとのこと。本丸への登城口であり、幕府の権威を示すとともに、諸大名に威圧感を与えたことでしょう。
大番所。
中之門の奥にあるのが「大番所」と呼ばれた警備詰め所。警備上の最後のチェックポイントであり、他の番所よりも身分の高い武士が詰めていたそうです。
本丸
本丸の跡。
皇居東御苑に入って10分ほどで、芝生が広がる広場に出ます。本丸があったところです。
天守台です。長方形の石材が交互に合わせられ、石垣が崩れないよう強度を高める配慮が見られます。曲線も美しいですよね。
天守台から見下ろした芝生広場です。本丸跡ですね。
松之廊下は本丸の西端・・・
赤穂浪士で有名な場所、松之廊下――。(上の図では「松の大廊下」と記載)
儀式が行われる本丸「表」御殿の大広間と、将軍との対面所である「白書院」を結ぶ50㍍の長い廊下。
元禄14年(1701年)3月14日、播州赤穂藩主で勅使の饗応役になった浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、畳敷きのこの廊下で高家肝煎の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)に斬りつけた刃傷事件の現場です。ここでの事件が「忠臣蔵」という物語の元になったんですね。
松之廊下があった場所はいま、ところどころにベンチが置かれた散策路になっています。
小道の脇に「松之大廊下跡」と書かれた石碑と解説版が立っています。
旧江戸城の紅葉。向こうは大手町のオフィス街・・・