函館の観光名所、五稜郭公園を訪ねた4月23日(火曜日)、桜は満開でした。
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「満開」が宣言された日
函館地方気象台はこの日、五稜郭公園の中にある、開花などの目安になる「標本木」をみて、「満開」を宣言しました。
「満開」というのは、標本木で80%以上の花が咲いた状態をいうようです。
平年よりも9日早く、昨年より3日遅いとのことでした。
早速、ブルーシートを敷いてお花見を楽しむ人たち。
五稜郭は江戸幕府の役所だった
函館にある五稜郭は、濠(ほり)に囲まれた星型のお城です。
東西・南北とも直径は500メートルほど。
この五稜郭はいつだれが造ったんだろう、というわけで函館市の公式観光サイトをのぞいてみました。
ここはもともと、江戸時代の幕府の「お役所」の施設だったんですね。
目的は、「函館奉行所というお役所」をここに移設して、外国船による砲撃から守るためでした。
五稜郭を造るきっかけは、「ペリーの来航」です。
アメリカのペリー提督が率いる4隻の黒塗りの艦船が1853年、日本にやって来て、鎖国政策をとっていた幕府に「開国」を求めました。
黒船に驚いた江戸幕府は翌年、日米和親条約を結んでアメリカ船に対し、伊豆の「下田」と蝦夷地の「函館」を開港しました。
当時、函館奉行所は函館山のふもとにありました。函館湾に出入りする外国船から丸見えでした。
これでは艦砲射撃を受けかねない、というわけで、奉行所を内陸に移すことになり、函館湾から3.5キロ離れた現在地に移ったわけです。
「星型」にした理由
五稜郭は、武田斐三郎(あやさぶろう)という蘭学者がヨーロッパの城の造り方を参考に設計し、1864年に完成しました。
城には、外に向かて突き出したところを5ヵ所造り、そこに土を盛った壁(=土塁)を築きました。
どうして「5つの突起」を持つ星型にしたのか・・・。そうすることによって濠の向こうから侵入してくる敵を銃で向かい撃つ場合に「死角」が少なくなると考えたようです。
当初の設計図をみますと、それとは別に、突起と突起の間に「半月堡(はんげつほ)」と呼ばれる「三角形の土塁」が5つ描かれています。(下の図)
(はこぷら 函館市公式観光サイトから引用)
この半月堡を、五稜郭本体の濠の外側に築くことによって、城に接近してくる敵に対して早めに反撃できると考えたようです。
しかし、江戸幕府は財政難から上の写真のように1ヵ所(現在の五稜郭入口)に造っただけでした。
「戊辰戦争」の最後の地となった
「戊辰戦争(ぼしんせんそう」最後の舞台となったのが、函館の五稜郭でした。
「戊辰戦争」というのは、1868年に始まった「旧幕府軍」と「新政府軍」(主に薩長両藩)の戦いです。
その最後の戦闘の場となったのが「函館」。五稜郭は旧幕府軍の拠点になりましたが、降伏したため破壊されませんでした。
その「戊辰戦争」のきっかけとなったのは何かといいますと、「大政奉還」でした。
幕末の1867年10月、倒幕の動きが激化していることを知った将軍・徳川慶喜は、京都・二条城で「政権を幕府から朝廷(=天皇)に返します」という趣旨の書面を明治天皇に提出しました。
これが大政奉還です。
徳川慶喜の本音は、先手を打って政権を朝廷に返上することで、新しくできる政権でも主導権を確保しようともくろんだのです。
ところが、2か月後の1867年12月、力づくで江戸幕府をたたきのめそうとしていた薩摩藩の西郷隆盛と大久保利通、長州藩の木戸孝允(旧姓・桂小五郎)、それに公家の岩倉具視は、朝廷に働きかけて明治天皇の名で「王政復古の大号令」という宣言をしました。宣言には「徳川家は今後、政治から手を引いてもらう」というメッセージが込められていました。
そして1868年(慶応4年)1月、朝廷と新政府は各国公使に、江戸幕府に代わる新政府「明治政府」が成立したと通告しました。
徳川家が冷遇されたことに激怒した旧幕府側は、「新政府軍」との間で「鳥羽・伏見の戦い」(京都)を皮切りに戊辰戦争を始めたのです。
新政府軍は江戸においては、品川沖に停泊中の旧幕府の軍艦を接収しようとしましたが、幕府海軍副総裁だった榎本武揚(たけあき)が接収を拒否。艦隊を率いて函館方面に「脱走」しました。
途中の仙台で、新選組副長の土方歳三(としぞう)らと合流。蝦夷地(北海道)に上陸して五稜郭を占拠し、立てこもったのです。
1969年5月、蝦夷地に上陸した新政府軍は函館を包囲しました。
土方歳三は本拠地の五稜郭から出陣し新政府軍に立ち向かったところ、腹部を撃たれて落馬し、絶命しました。
土方の戦死後まもなく、榎本武揚は新政府軍の陣地に出向いて降伏し、五稜郭を新政府軍に明け渡しました。
榎本武揚は東京で投獄されましたが、特赦で出獄。北海道の開拓に力を尽くしました。
五稜郭は桜の名所に
五稜郭はいま、北海道で屈指の桜の名所です。
戊辰戦争のあと、政府が管理していましたが、1914年(大正3年)から「公園」として函館市民に開放されました。
桜の名所になるきっかけは、1914年当時、函館にあった「函館毎日新聞社」が新聞の「1万号発行記念」としてソメイヨシノの苗木5000本を寄贈・植樹したのが始まり。
その後も寄贈を続け、1923年までに合計1万本の苗木が植えられたそうです。
しかし、根もとの土が観光客に踏まれて根を張ることができなくなったり、病気などで多くが枯れ、現在は1500本ほどになっているようです。
毎年4月下旬になると、ソメイヨシノが咲き乱れ、お花見のスポットになります。
こちらは五稜郭タワー。高さ107メートル。
五稜郭全体を見るには、ここに上るのがベストです。
「五稜郭タワー」の位置は、上の図の右下です。
高さ90メートルの展望台は、360度ガラス張り。
夜景を眺めるのにふさわしい函館山は、目の前です。
展望台には、座った姿の土方歳三(ひじかたとしぞう)のブロンズ像がありました。
土方歳三は近藤勇や沖田総司と新選組をつくり上げた男。新選組は京都守護職だった会津藩の配下で勤王の志士を弾圧し、京都の治安維持にあたりましたね。
このイケメン男、観光客にも人気があるようでした。