歌川広重の『名所江戸百景』の1枚、『蒲田の梅園』
梅屋敷(うめやしき)・・・ロマンチックな響きのある地名が、東京都大田区蒲田にあります。区が管理する公園の名前にもなっています。
この梅屋敷で高杉晋作という歴史上の人物が、刀を抜いた、という話があります。幕末の勤皇の志士がこんなところに現れていたのかと親しみを覚え、いきさつを調べてみました。
目次
梅屋敷のこと
梅屋敷の公園の入り口。
梅屋敷は、江戸時代に東海道の品川宿と川崎宿の中間の位置にあった休み茶屋(休憩所)のことで、茶屋の裏手の庭には梅の木がたくさん植えられていました。
「和中散」(わちゅうさん)という腹痛に効くという漢方薬を旅人に売る店の主が、3000坪という広い庭に梅の木を数百本も植え、茶屋をつくったことから注目されるようになりました。
講演の入り口に立てられている説明版。
歌川広重(うたがわひろしげ)という浮世絵師が描いた「名所江戸百景」シリーズにも採り上げられた、当時の梅の名所のようです。
梅屋敷の茶屋の脇には、江戸・日本橋までの距離を示す石碑(上の写真は復元したもの)があったそうです。
高杉晋作のこと
さて、主役の高杉晋作のことです。
高杉は江戸時代末期を生きた、長州藩(いまの山口県萩市)での尊王攘夷派の中心人物です。
尊王攘夷というのは、天皇を敬い、外国勢力を排斥する、という考え方です。
江戸幕府は長い間、鎖国を続けてきたのですが、高杉は藩命で文久2年(1862年)、情勢視察のために上海に渡航。そこで欧米列強の支配を受ける中国の実情を見て、危機感を強めました。
高杉は帰国後、しばらくして「奇兵隊」という士農工商の身分を問わずに入隊できる軍隊を組織し、長州藩を倒幕の方向に動かしました。
しかし、当時は不治の病だった結核を患い、幕府が倒れる1年前の1867年に、27歳8か月で亡くなりました。
「梅屋敷事件」
昔(明治34年当時)の梅屋敷。 写真は「京浜急行八十年史」から引用。
梅屋敷に、高杉晋作の痕跡がありました。
梅屋敷の休み茶屋には、諸国の勤王の志士が時局を論じるために集まることがしばしばあったようです。「梅の名所」ですので、普通の武士と思わせることができたのかもしれません。
ここで後に、梅屋敷事件と言われる長州藩士と土佐藩士との間の騒動が起きたのは、1862年(文久2年)11月でした。
騒動のもとになったのは、長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞(くさかげんずい)、井上馨(いのうえかおる)ら攘夷に燃える藩士による横浜異人館襲撃計画でした。外国要人を殺害して、幕府に攘夷の戦端を開かせようと企てたものです。
ところが、この計画は直前につぶれます。
不成功に終わるきっかけは久坂玄瑞が土佐勤王党の武市半平太(たけちはんぺいた)を訪ね、参加を呼び掛けたところ、半平太は土佐勤王党のメンバーが加わっているいると知って驚き、土佐藩上屋敷に向かい、前土佐藩主・山内容堂(やまうちようどう)の側近に、襲撃をやめるよう協力を求めたことにあります。
山内容堂は当時、品川の土佐藩下屋敷で隠居していましたが、即座に長州藩主の跡継ぎ、毛利元徳(もうりもとのり)に知らせました。
長州藩士の暴発に焦った毛利元徳は、藩士数人に高杉たちの行方を捜させ、神奈川の旅館に集まっていた高杉ら11人に、「若殿さまが梅屋敷でお待ちであるぞ」と伝えさせました。
その一方で、毛利元徳は自らも長州藩江戸屋敷から馬を飛ばして梅屋敷に出向き、高杉らが戻ってくるのを待って説得。高杉らは謝罪して計画は中止されました。
ドラマはもう1幕ありました。
梅屋敷で一件落着の宴会が開かれましたが、そこに、長州藩の重臣、周布政之助(すふまさのすけ)も江戸屋敷から馬で駆け付け、遅れて酒席に加わりました。すでに出来上がっていました。
周布は、藩の財政再建に取り組んでいた重役で、高杉晋作や桂小五郎(のちに木戸孝允と改名)、久坂玄瑞ら吉田松陰の門下生を中枢に登用した人物です。ただ、酒癖が悪い。
酒宴が終わって、一同が門前に向かうと、土佐藩士4人がいました。山内容堂の指示で、様子を見に来ていたのです。
上は「絵巻物」。周布政之助(頭巾の男)に暴言を浴びせられた土佐藩士4人のうちの1人が明治維新後、梅屋敷事件を語る時のために作ったとされる巻物の一部。
酔っぱらいの周布政之助は、乗馬したまま4人に対し、こう言い始めました。
「お手前たちのご主人の容堂公は天下の賢侯といわれ、ご自身でも尊王攘夷をお口になさる。しかし実際の行動には不審あり。どうやら、尊王攘夷をチャラカシなされているのであろう」。
これを容堂への誹謗中傷と受け止めた土佐藩士が白刃を抜き、
「馬を降りろ。悪口を聞いた以上、貴殿を討ち果たさねばこの場は去れぬ」
と叫びました。他の3人も抜刀しました。
ビックリしたのは高杉晋作でした。ここでもめ事を起こしては、せっかくの両藩の友好関係が吹っ飛んでしまうと思い、機転を利かせて土佐藩士に向かって
「仰せの通りだ。この不敬、拙者が成敗(せいばい)つかまつるわ」
というなり、抜刀して周布政之助を切りつけました。
しかし、本気で切るつもりはないため、刀の切っ先が馬の尻にあたり、わずかに馬が傷つきました。
驚いたのは、馬。いなないて前足を挙げたかと思うと、周布政之助を乗せたまま駆け出してしまいました。周布は高杉ら尊王攘夷派の支援を続けており、山内容堂が高杉らによる襲撃計画をやめさせるため毛利元徳に知らせたことに立腹したのでしょうか。
長州藩主の世継ぎの説得で異人館襲撃をやめた高杉ですが、1か月後の
1862年12月、幕府が品川・御殿山に建設中だった英国公使館を焼き討ちしました。
実行メンバーは長州藩士13人で、高杉、久坂のほか、明治維新で初代内閣総理大臣になった伊藤博文(いとうひろぶみ)、外相や蔵相など閣僚を歴任した井上馨も加わっていました。
梅屋敷のいま・・・
梅屋敷があったところは今、聖蹟蒲田梅屋敷公園という名前が付けられ、拡幅が進む第一京浜国道(旧東海道)と京浜急行電鉄の高架にはさまれた400平方メートルの小さな公園になっています。
公園内の植物は、植えられてから日の浅い「梅」の木が数本と、クスノキ、イロハモミジ、松などで雑木林になっています。
案内板を読んで初めて、このあたり一帯が広大な梅林だったことがわかります。
【参考資料】
・「高知市立龍馬の生まれたまち記念館」ホームページ
・「史誌」第13号(大田区史編纂委員会)
ほか