北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍級の登山、国内外の旅行、歴史探訪、反戦・平和への思いなど備忘録としてつづっています。

歴史探訪~坂本龍馬の江戸での足跡をたどる≪中≫

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 坂本龍馬。(ウィキペディアから引用)

 

目次

 

 

 

龍馬、28歳で脱藩

 

 アメリカのペリー提督が「黒船」を率いて鎖国中の日本の浦賀(神奈川県横須賀市)に来航し、❝捕鯨船の寄港地にしたいから「開国」してよ❞と要求したのが1853年(嘉永6年)。「幕末」はここから始まったといっていいでしょう。

 

 

 黒船来航をきっかけにして、薩摩藩長州藩土佐藩という「関ケ原の戦い」で徳川家康に負けた勢力の間に「尊王攘夷」という考えが広がりました。

 天皇を敬い、外国を追い払おうという思想ですね。徳川幕府が「開国」したことへの不安や不満から、幕府はもう頼りにならない、というわけです。

 

 坂本龍馬28歳1862年(文久2年)3月24日、❝土佐藩❞という「藩」の枠を超えて世界の中で日本の進むべき道を模索したいという思いから、藩の許可をもらわないで高知県を離れました。「脱藩」です。

 

 脱藩後の龍馬の詳しい足取りは史料が乏しくて分からりませんが、半年後には江戸の千葉定吉道場に着いています。

 そしてその年の暮れ、龍馬はその後の人生に大きな影響を与えた勝海舟に出会い、勝に惚れ込んで弟子になってしまいました。

 

 

 

勝海舟に会ってから開国・倒幕へ

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 勝海舟。(「幕末」山川出版社から引用)

 

 

 龍馬の人生を方向づけた勝海舟は、外国技術を吸収するために開国すべきだという開国論者でした。

 1860年(安政7年)に幕府の使節団が日米修好通商条約を批准するため米艦船に乗ってワシントンに向かった時、護衛という名目で軍艦「咸臨丸」に乗り込んで太平洋を横断、アメリカ社会を見た人物です。勝は帰国後に軍艦奉行並というポストに就きました。

 

 

 

松平春嶽に紹介状を要求

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 松平春嶽。(国立国会図書館HPから引用)

 

 土佐を脱藩した龍馬は、勝海舟に会う工作の第一歩として1862年(文久2年)12月5日、江戸の福井藩上屋敷に行きました。現在、東京駅近くの千代田区大手町2-3-1大手町プレイスが建つ場所です。

 少し前まで福井藩主だった松平春嶽(しゅんがく)に会うためでした。

 

 春嶽が土佐藩主の山内豊信(容堂)と親しかったこともあったのでしょうか。当時、春嶽は、幕府の政事総裁職という今でいう重要なポストに就いていました。

 

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 龍馬が松平春嶽に会った福井藩上屋敷があった場所。(千代田区大手町2-3-1大手町プレイス)

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 春嶽は、龍馬に会った時の様子を、次のように書き残しています。

 

 「或日朝、登城の前突然二人の士、常盤橋邸に参入して面会を乞ふ。諾して面話す。(中略)此の二人は坂本龍馬、岡本健三郎なり。両氏の談話を聞くに勤王攘夷を熱望する厚志を吐露す。其他懇篤の忠告を受く、感佩(かんぱい=感謝の意)に堪えず。(中略)勝(海舟)、横井(小楠)に面晤仕度(めんごつかまつりたく)、候の紹介を請求す。余諾して添書を両士に与ふ」(『春嶽手記』)

 

 春嶽が江戸城に行くために屋敷を出ようとしたところ、龍馬が仲間と二人で突然現れて、春嶽に勤王の志をしゃべった。そして勝海舟から開国論を聞きたいから勝に引き合わせて欲しい、と陳情したというのです。

 

 この時代、幕府の要職にある春嶽に、いきなり脱藩浪人の龍馬が会えるわけはありませんね。

 龍馬が春嶽に面会できたのは、福井藩の江戸の上屋敷で剣術を教えていた千葉定吉道場の千葉重太郎が紹介状を書いて仲介したのではないか、という説があり、もっともらしく聞こえます。

 

 

 

 

「日本第一の人物」に弟子入り

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 勝海舟の屋敷があった場所。(港区赤坂6-10-39)

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 龍馬前・福井藩主の松平春嶽から紹介状をもらって1862年12月9日、赤坂氷川坂下に住んでいた勝海舟を訪ねました。現在は7階建てのマンションが建っています。

 

 勝から「開国しても、その利用の仕方によっては国力の強化に役立つし、西洋技術の活用によって国力を大きくすることにつながる。海軍をつくり、外国との交易で日本を強くし、外国と対等に渡り合おう」という趣旨の、勝の持論を聞くと、龍馬はこう述べたといいます。

 

 「私は今夜、内心では、あなたが何を言おうとも、あなたを斬るつもりで来た。しかし、あなたの話を聞いて、今は自分の頭の頑迷固陋を恥ずかしく思う。私を弟子にしていただきたい。」(勝のメモより)(『坂本龍馬明治維新』から引用)

 

 

 龍馬は、脱藩後初めて土佐の姉・乙女に出したとされる1863年3月2日付の手紙には、次のように書いています。(この部分、現代語訳)

「私などは運が強く(中略)今では日本第一の人物、勝麟太郎殿(注:勝海舟のこと)という人の弟子となって、以前からやろうと思っていたこと(注:海軍での修行)に励んでおります。そのため私は40歳になるころまでは土佐の実家には帰らないようにするつもりです」(京都国立博物館蔵)

 

 

 

 勝海舟は同じ年に将軍家茂に対し、外国船からの防衛のために海軍の教育機関の必要性を訴え、翌1864年、神戸に海軍の操練所を開く許しを得ました。

 龍馬は勝に同行し、勝の片腕として働き、軍艦の操縦と航海技術を学びました。

 

 

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 『勝海舟坂本龍馬の師弟像』。港区赤坂6-6-14の福祉施設の敷地内に建っています。勝海舟が明治に入ってから死去するまで住んでいた場所です。

 

 

 

 

亀山社中薩長を仲介

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 長州藩桂小五郎。(国立国会図書館HPから引用)

 

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 薩摩藩西郷隆盛。(国立国会図書館HPから引用)

 

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 薩摩藩小松帯刀。(国立国会図書館HPから引用)

 

 

 

 幕府の神戸海軍操練所が1865年(慶応元年)に閉鎖されると、修行に来ていた塾生はそれぞれの藩に戻りましたが、坂本龍馬ら土佐の脱藩浪人は帰る場所がありません。その時、脱藩浪人たちに保護の手を差し伸べたのが薩摩藩でした。

 

 勝海舟薩摩藩に預けた、というのが定説のようです。が、薩摩藩としても龍馬たちを自国の海軍に利用しようという思惑があったようです。

 

 龍馬と土佐脱藩浪士たちは1865年夏、薩摩藩の融資で、長崎の亀山(現在の長崎市伊良林地区)で「亀山社中」という結社を設立しました。のちの海援隊ですが、日本初の商社と言われ、武器などの物資を船で運ぶ海運業を営みました。

 

 龍馬はこの亀山社中を使って、薩摩藩長州藩との間を、とりあえず経済面で提携させようとしたのでしょう。

 

 1865年4月13日、幕府は、討幕派の勢いが強くなっている長州藩をもう1回叩いておこうというわけで第二次長州征伐令を布告していました。しかし、諸藩は動きません。出兵が自分の藩の利益につながらないためです。

 

 そうした中で龍馬は5月初め薩摩藩に頼まれて、下関で長州藩桂小五郎に会って「薩摩が長州と連携したいと言っている」旨を伝えました。その際、桂は「薩摩藩の名義で長州藩のために武器を購入してもらえないか」という極秘の要望を龍馬に伝え龍馬は6月、京都の薩摩藩邸で西郷隆盛に伝えました。龍馬が仲介したのです。

 

 長州は幕府との決戦に備えて必死に武器を求めていたのです。

 その時、イギリス人貿易商「グラバー」が長崎でビジネスを展開するために設立した「グラバー商会」は、武器の売却で利益を上げるため長州藩との貿易を強く望んでいたようです。

 

 龍馬の亀山社中の活動として一番注目されるのは、そのグラバー商会と銃器の取引をして長州藩に融通したことでしょう。

 

 龍馬はこののち、亀山社中に長州の武器購入をサポートするよう指示。長州から伊藤俊輔(のちの伊藤博文井上聞多(のちの井上馨の2人が長崎入りし、長崎の薩摩屋敷に滞在しました。

 そこで会った薩摩藩の家老・小松帯刀(たてわき)は伊藤らからの依頼を快く受け入れ、長州藩亀山社中の紹介でグラバーから最新式の銃7300丁を買い付けました。

 この銃はその後、小松帯刀の指示のもと。薩摩藩船で下関に運ばれ、長州藩の手に入りました。

 

 坂本龍馬率いる亀山社中の初仕事が、これでした。

 

 

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 勤王の志士当時の伊藤博文。(ウィキペディアから引用)

 

 

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 左端が伊藤博文、右端が井上馨。(「幕末」山川出版社から引用)