北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスや富士登山、首相外遊の同行、奥様と国内旅行、反戦平和への思いなど備忘録として載せています。

日蓮聖人ゆかりの池上本門寺に眠る徳川御三家や大名側室、有名人(追記あり)

 上の写真は、東京・池上本門寺(いけがみほんもんじ)にある五重塔。空襲による焼失を免れた貴重な建築物です。この五重塔ができたのは400年以上前の江戸時代です。

 

 のちに江戸幕府第2代将軍となる「徳川秀忠」が重い病気にかかった時、熱心な法華信者の乳母(うば)が健康回復と武運長久を池上本門寺で強く祈った甲斐があって病気が治りました。そのお礼に秀忠は将軍となった後の1608年に「五重塔」を建て、寺に寄進しまそうです。

 五重塔は建立当初は境内の「仁王門」わきにありましたが、1614年の地震で傾きました。その後、1702年に第5代将軍綱吉の命で大規模な修繕が施され、その際、現在地に移築されたとのことです。

 

 東京都大田区にある池上本門寺は、日蓮宗の開祖・日蓮聖人(にちれんしょうにん)が亡くなった場所に建つ寺です。

 墓地には、紀伊徳川家の墓所をはじめ、24家85基の大名墓がいまも残されています。

 ニュースに登場した有名人も眠っています。以下、お墓の紹介です。

 

 

目次

 

墓マップ

 

 

①一番人気の「力道山

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 「力道山之像」。

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 力道山(りきどうざん)はプロレスラーです。戦後間もないころ、テレビで人気を集めていました。

 

 得意技は「空手チョップ」。腕を水平に振って、シャープ兄弟とかブラッシーといった米国の一流レスラーの胸板に「水平チョップ」をたたきつけ、あるいは頸動脈あたりを狙って「袈裟切りチョップ」を放ち叩きのめすシーンをテレビで見て、日本人は大喜びしたものです。

 

 そのヒーローは1963年12月、東京・赤坂のナイトクラブで、足を踏んだ踏んでない、で暴力団関係者と口論になり、ナイフで腹を刺されました。その傷がもとで1週間後に亡くなりました。

 

 日本が植民地支配していた朝鮮半島で1924年に生まれました。

 力道山の葬儀は池上本門寺で行われ、葬儀委員長は当時の日本プロレスコミッショナー自民党副総裁だった大野伴睦が務めました。

 

 池上本門寺にあるお墓の前には力道山之碑 児玉誉士夫」と彫られた大きな石碑(=上の写真左端)が建っています。

 

 

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 案内板。墓地を訪れると、すぐ目に入ります。

 

 墓は、境内の五重塔から200㍍ほど先。訪れる方が多いですね。

 

 

 

②寺と深い関係の「紀伊徳川家」墓所は高台に

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 横に並ぶ大きな石塔(写真上)のうち、右端がお万の方の供養塔

 

 江戸時代に入ると、池上本門寺は徳川家から手厚い保護を受けました。

 

 熱心な日蓮宗信者だった家康の側室・お万の方(養珠院)によるところが大きかったようです。

 「お万の方」は、紀伊徳川家の始祖・徳川頼宣(よりのぶ)と、水戸徳川家の始祖・徳川頼房(よりふさ)の生母です。

 

池上本門寺の核心部の「宝塔」を見下ろす高台が紀伊徳川家の墓域。お万の方(養珠院)と、紀伊徳川家の江戸藩邸で亡くなった藩主の夫人や子どもたちの墓です。

 

 【図は、「大田区文化財 第36集」(2008年、大田区教育委員会発行)から引用】

 

 お万の方の供養塔。

 

 紀伊徳川家は「将軍家」に次ぐ地位を持つ徳川御三家」のひとつ

 

 お万の方は、のちの紀伊徳川家の初代となる頼宣(よりのぶ)と、水戸徳川家の初代となる頼房(よりふさ)を生みました。

  テレビドラマで人気の「水戸黄門」で知られる「水戸光圀」は孫にあたります。

 徳川頼宣は、熱心な日蓮宗の信者だった母の影響で日蓮宗に帰依。日蓮宗の信者だった肥後藩主・加藤清正の娘の「瑶林院(ようりんいん)」を妻として以来、池上本門寺との関係を深めました。

 

 

 

 

鳥取藩池田家・芳心院墓所

 【図は、「大田区文化財 第36集」(2008年、大田区教育委員会発行)から引用】

 

 

 芳心院紀伊徳川家初代藩主・徳川頼宣の娘で、鳥取藩池田家初代藩主・池田光仲の正室

 徳川家康とその側室だったお万の方の『孫』にあたります

 

 芳心院は生前から蛇が嫌いで、死後も蛇を遠ざけるように、墓の周囲に二重の堀が築かれています。

 墓の建設費が1万両はかかったという風説から、万両塚と呼ばれています。

 墓所は、池上本門寺の隣にある永寿院の奥にあります。

 

 

鳥取藩池田家の正室とその娘

 奥の墓は、「芳心院」の第一子である鳥取藩2代藩主・池田綱清の正室。手前はその娘。

 

 

⑤出羽米沢藩上杉家・円光院墓所

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 上杉綱憲正室(本妻)、円光院の墓。

 五重塔の北約20メートルの位置にあります。墓所の基盤は7㍍四方もあります、

 

 上杉綱憲(つなのり)は、出羽米沢藩(現・山形県米沢市)の藩主。吉良上野介義央の長男で、上杉家に養子入りしました。

 吉良邸に討ち入りした赤穂浪士を討とうとしましたが、幕府からの使者に出兵を差し止められました。テレビドラマの「赤穂浪士」で見られるシーンです。その上杉綱憲の本妻がここに埋葬されています。

 

 

 

⑥肥後熊本藩細川家・清高院墓所

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 肥後熊本藩細川家の墓所は、米沢藩上杉家の墓所の隣りにあります。

 五重塔から約20メートル。広さは約300平方メートルもあります。

 2基の立派な宝塔のうち、奥の宝塔熊本藩代藩主、細川光尚の側室(側室=本妻以外の奥様)清高院の墓。そのさらに奥には背丈のある宝塔と多数の墓碑。いずれも細川家ゆかりのもののようです。

 

 

 

⑭肥後熊本藩細川家(2024年5月追記)

 肥後熊本藩代藩主・細川綱利の側室だった「安住院」のお墓。

 肥後熊本藩細川家は、「加藤家」が改易となったのち熊本藩主として熊本城に入りました。細川家が明治まで、熊本藩を統治しました。

 

 

 

 

⑦人斬り、河上彦斎(げんさい)

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 河上彦斎の「記念碑」。右奥には「墓石」が見えます。

 

 河上彦斎(かわかみげんさい)は、幕末の肥後熊本藩の下級武士です。

 墓は、細川家の墓地の一角にあります。墓石の側面には、「通称 高田源兵衛」と書かれています。墓の前には記念碑が建っていて、「河上彦斎先生碑」とあります。

 

 河上が生きた時代は、米海軍のペリー提督が艦隊を率いて浦賀沖に現れ、鎖国政策をとっていた江戸幕府に「開国」を迫った激動期でした。

 河上は、天皇を敬い外国を追い払うという「尊皇攘夷」思想の強固な持ち主だったようです。

 河上は、佐久間象山(さくましょうざん)を京都で暗殺した人物として、歴史に名をとどめています。

 佐久間象山は、公家(天皇)と武家(幕府)の関係を強めるという「公武合体(こうぶがったい)派」で、かつ、開国を主張する有力者でした。

 

 

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 墓石の側面にある「通称 高田源兵衛」の文字。

 

 明治維新後、河上は「高田源兵衛(こうだげんべえ)」と改名しました。

 明治政府は維新後、開国にかじを切りましたが、相変わらず排外主義的な攘夷論を周囲に説き続ける河上を危険視し、政府の転覆を企てたという疑いをかけて投獄。河上は斬首されました。

 

 

 

⑧吉宗の側室「お須磨の方」

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 「深徳院」、通称・お須磨の方(おすまのかた)の墓は、五重塔から力道山の墓に向かって進んだ右手にあります。

 

 江戸幕府第8代将軍の徳川吉宗は、将軍になるまでは徳川御三家のひとつ、紀州藩の藩主でした。

 その時の側室の1人が「お須磨の方」です。第9代将軍徳川家重の生母でもあります。

 吉宗が第8代将軍になる前に、赤坂の紀州藩邸で亡くなりました。26歳でした。

 深徳院の墓所池上本門寺に設けられてことで、本門寺は「将軍生母の菩提寺」という高い格式を得ました。

 

 

 

⑨吉宗の側室「おこんの方」

 「お須磨の方」のお墓から10メートルほど先に進むと、大名家らしい立派な墓があります。

 

 徳川吉宗の側室の1人、「本徳院」です。「おこんの方」と呼ばれていました。

 吉宗が紀州藩主だった当時、吉宗の側室・お須磨の方が亡くなったことから、新たに側室になりました。

 吉宗が将軍職に就くと江戸城大奥に入りましたが、28歳で他界しました。

 

 

 

高松藩松平家・永昌院

 紀伊徳川家第6代藩主・徳川宗直の娘で、讃岐高松藩藩主・松平頼眞の正室、薫姫(永昌院)のお墓。

 

 

 

伊予西条松平家

 「松平家之墓」と読めます。

 徳川御三家のひとつ、紀伊徳川家の一族が初代藩主になった四国の藩です。

 

 墓所は、力道山の裏です。

 

 

 

 

出雲国母里藩(もりはん)松平家藩主の正室と娘

 「母里藩」を「もりはん」と読めませんでした。

 

 母里藩は、松江藩主の弟が領地を分けてもらって創設した小藩。歴代藩主は参勤交代を行わずに江戸に住んでおり、国元にはわずかな数の家臣が残るだけだったといいます。

 

 

伊予西条松平家

 仏塔に刻まれている戒名は「法輪院殿妙諦日深大姉」。

 

 

 

 

 

前田利家の側室の塔

 加賀百万石(石川県)の礎を築いた藩祖・前田利家(としいえ)側室だった寿福院(じゅふくいん)が、自分が生きているうちに死後の成仏を祈願して元和8年(1622年)に建てた塔です。(上の写真)

 寿福院は建てた9年後に、加賀藩江戸屋敷で亡くなりました。池上本門寺で荼毘(だび)に付されたのち、現在の石川県羽咋市の妙成寺に納骨されました。

 

 建てた時は11層の塔でしたが、いまは5層になっています。

 

 寿福院は、前田利家正室(せいしつ)・まつ侍女として前田家に入った人です。

 豊臣秀吉朝鮮半島を侵略した朝鮮出兵の時に、九州の陣中で利家の身の回りの世話をした際に側室となり、第3代藩主・前田利常を生みました。

 

徳川家康にとって加賀・前田家は敵

 前田利家豊臣秀吉の死後、秀吉の子息・豊臣秀頼の後見人をつとめており、天下取りを狙っていた徳川家康にとって加賀藩主前田家は目の上のたんコブのような邪魔な存在だったようです。

 利家の死後、家康は「前田家は家康の殺害を企てている」と謀反の疑いをかけ、征伐を企てました。

 

 

人質になった前田利家の本妻「まつ」

 家康と前田家はその後、和解しました。慶長5年(1600年)、加賀藩が、利家の正室(=本妻)まつを人質として家康の本拠地・江戸に差し出すことで救われたのです。

 この後の関ケ原の戦いで天下を掌握した家康は慶長8年(1603年)、朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いています。

 

人質は「まつ」から「寿福院」に

 14年後の慶長19年(1614年)に寿福院の子息の利常加賀藩の第3代藩主になると、まつと入れ替わりに、寿福院が徳川幕府の人質となり、江戸に下向しました。

 

 

 この人質劇が手本になって、徳川幕府は3代将軍家光の時に権力構造を維持するため大名に「参勤交代」を義務付けました。

 幕府は、大名の妻子を人質として江戸に住まわせることによって大名が謀反を企てないようにし、合わせて大名に1年おきに国元と江戸を往復させることによって、諸藩に資金を使わせたのでした。

 

 

 

加藤清正

 池上本門寺には、加藤清正(きよまさ)をしのぶために建てられた供養塔と、清正が寄進した石の階段などが残っています。

 

加藤清正とは?

 加藤清正は、安土桃山時代から江戸時代の初めにかけて生きた戦国武将です。

 朝鮮半島で「虎退治」をしたというエピソードがあります。

 

 加藤清正尾張の国(今の名古屋市)生まれで、幼いころから豊臣秀吉に仕えていました。その秀吉は天下統一を成し遂げたあと、「朝鮮出兵」を2度にわたって行いました。

 

 「朝鮮出兵」は、当時の「明」(現在の中国)を征服することが目的で、「明」に行くために通過する李氏朝鮮(現在の朝鮮半島)に対し、日本に従うよう命じたものの断られ、朝鮮半島に兵を送り込んで侵略を始めました。

 

 この「朝鮮出兵」に、肥後熊本藩の初代藩主だった加藤清正は「指揮官」として加わりました。

 当時、朝鮮半島には虎が多数生息しており、清正の陣地の馬が食べられ、小姓がかみ殺されました。怒った清正は山狩りを行い、1匹の虎が茂みから飛び出してきた時に自慢の槍で虎ののど元を突いて退治した、という伝説です。

 当時、体調を崩して国内にいた秀吉は、滋養効果があるとされた虎の肉を求めたため、武将は競って虎を手に入れ、秀吉に送っています。

 

 

清正と池上本門寺の関係

 加藤清正は「法華経」を最も大切にする日蓮宗の信でした。江戸の池上本門寺では、寺域の整備に努めました。

 清正の娘の瑶林院も同じように法華経の信者で、紀伊徳川家の始祖・徳川頼宣の妻となったことから、清正と池上本門寺との関係が濃くなったようです。

 

 

大堂(だいどう)と96段の石段

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 池上本門寺の「大堂」。(2021年5月3日撮影)

 

 

 池上本門寺の境内に大堂(別名:祖師堂)があり、日蓮の像がまつられています。

 大堂はもともと清正が江戸時代初期の1606年に母親の供養のために建てたものです。その後、焼失。再建された大堂も、アジア太平洋戦争時の空襲で焼け、現在の大堂は1964年(昭和39年)に建てられました。

 

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 池上本門寺の入り口にあたる「総門」の先にある96段の石の階段(写真上)は、此経難持坂(しきょうなんじざか)と呼ばれています。清正の寄進によって造営されたものの1つです。

 

 

 

加藤清正の供養塔

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 清正の「供養塔」(写真上)が、霊宝殿という文化財を収蔵する建物の裏に建っています。

 清正の娘の瑶林院(ようりんいん)が、父の38回忌の供養のために建立したものです。

 

 娘の瑶林院は、紀伊藩主・徳川頼宣(よりのぶ)の夫人となった人物。瑶林院の墓は、境内の紀伊徳川家墓所の一角にあります。

 

 

 

 

 

 清正の側室が建てた石塔(上の写真)が、大堂と五重塔の間の墓地の一角にあります。

 清正の側室、正応院(しょうおういん)が生前、自分が死んだ後の供養にと建てた塔。現在は台座が二段で笠が8枚の石塔になっていますが、刻銘に「十一層石塔」と書かれており、建立当初は11層塔だったようです。

 

 

再建されたばかりの「清正公堂」 (2024年10月追記)

 上の写真は、池上本門寺で守護神としてまつられている加藤清正のお堂「清正公堂(せいしょうこうどう)」です。2024年6月に完成しました。

 「清正公堂」はもともと江戸時代に建てられましたが、太平洋戦争時の空襲で焼失していました。生誕460年を記念して2年前から再建が進められていました。

 

 

 

 

幸田露伴

 幸田露伴(こうだろはん)は、明治時代を生きた小説家。夏目漱石森鴎外と一緒に、教科書に出てきた人です。試験の前に「幸田露伴の代表作は五重塔」と丸暗記しました。作品は読んでいません。

 

 お墓は、国の重要文化財になっている五重塔の近くにあります。ただ、作品のモデルになった五重塔は、ここではないそうです。

 墓石には、露伴幸田成行と書かれています。

 

 

 

永田雅一

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  永田雅一(ながたまさいち)は、映画会社「大映」の社長でした。時代劇の名作を作っています。

 

 力道山の墓に向かう途中、左側にあります。道に面したスペースは更地ですが、右奥に、狛犬がちらりと見え、通行人ににらみをきかせています。

 

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 墓地の左外側を少し進んで右を見ると、このような立派なお墓が目に入りました。

 

 

 

児玉誉士夫

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 児玉誉士夫(こだまよしお)は、「政財界のフィクサー」とか「政財界の黒幕」といわれた右翼活動家です。

 

 1976年(昭和51年)に発覚して田中角栄元首相が逮捕された「ロッキード事件」でも東京地検特捜部の捜査対象となり、脱税などの罪で起訴されましたが、病気で亡くなりました。

 

 児玉誉士夫池上本門寺の「檀家総代」だったようです。池上本門寺の梵鐘(=吊りがね)にその証が残っています。

 太平洋戦争中の1945年4月15日の空襲で、池上本門寺は境内の大部分が焼けました。その時、梵鐘の一部に亀裂が入りゆがみも生じたため、1964年(昭和39年)11月に新しい梵鐘を造りました。

 壊れた鐘はいまも鐘楼のわきに保管されていますが、説明板をみますと、新しい梵鐘を造った時の池上本門寺檀家総代児玉誉士夫だったことが記されています。(上の写真)

 

 

大野伴睦

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 トラが植え込みから「ガオーッ」。大野伴睦・元自民党副総裁はトラの絵画や民芸品を集めるのが趣味で、お墓の前にあるトラの像はコレクションの1つらしい。

 

 大野伴睦(おおのばんぼく)の墓は、「トラ」の像が敷地の入り口をにらんでいます。

 大野伴睦岐阜県選出の元衆院議員。自民党大野派の領袖で党副総裁を務めた実力者です。

 

 “大野伴睦”と聞けば、東海地方出身の私は、新幹線「岐阜羽島駅」を連想します。

 岐阜羽島駅ができることが決まった時、「田んぼの中の、店もないところになんで駅をつくるの?」「名古屋駅がすぐそばなのに、岐阜県にそもそも駅をつくる必要があるの?」というのが、当時の大方の考え方でした。

 地元・岐阜選出の国会議員が政治力を発揮して、県内有力者や国鉄の間の調整をしたんだろう、と冷ややかに思ったものです。

 

 大野氏の墓に向かって右に建つ石灯籠には、児玉誉士夫の名前が刻まれています。

 

 また、左側の石灯籠には、渡邊恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役主筆の名前があります。通称ナベツネさんは自民党大野派担当のナンバーワン記者だったようです。多くの有力政治家と交流して政界に影響力を持っていましたが、2024年12月19日、肺炎のため死去しました。98歳でした。

 

 

 

狩野探幽

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 狩野探幽(かのうたんゆう)は、江戸時代の狩野派を代表する「絵師」です。

 その墓は、日蓮宗をおこした日蓮が荼毘(だび)にふされた場所に建つ宝塔のそばにあります。

 

 「絵師」というのは画家のこと。いまふうにいえば、イラストレーターでしょうか。「狩野派」あh室町時代から江戸時代まで400年にわたって活動した画家集団です。

 

 狩野探幽は、江戸城、二条城、名古屋城などの障壁画の制作に、狩野派一門の総帥として参加したそうです。

 

 

 

 

日蓮聖人

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 池上本門寺宝塔。 (2020年10月12日撮影)


 

 日蓮(にちれん)は、鎌倉時代を生きた僧。「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えることによって現世の辛苦を乗り越えることができる、と説きました。

 日蓮の教えは後に日蓮宗と呼ばれるようになりました。

 

 日蓮は晩年に胃の病気を患いました。弘安5年(1282年)9月に、住み慣れた現在の山梨県身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)を後にして、湯治(とうじ)のために常陸国(現在の茨城県)の温泉、「加倉井の湯」(推定)に馬で向かう途中で衰弱し、武蔵国(現在の東京都とその周辺)の熱心な信徒の館に立ち寄って世話になりました。

  それが池上宗仲(いけがみむねなか)という武士の屋敷です。現在の本行寺(ほんぎょうじ)=東京都大田区池上=です。

 池上宗仲の館に1ヵ月近く滞在した際、最後の説法となった『立正安国論』の講義をしました。

 そして1282年10月13日、61歳で亡くなりました。

 

 

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 写真は、 本行寺の「お堂」。

 

 池上宗仲はその後、屋敷の一部を日蓮の弟子に寄進、が建てられました。それが今の本行寺です。

 日蓮が息を引き取った池上宗仲の館の仏間だった部屋の跡地には「お堂」が建てられ、「ご臨終の間(ごりんじゅうのま)」と名付けられました。

 

 池上宗仲は屋敷の庭で日蓮を火葬し、その場所に宝塔を造りました。宝塔は現在、国の重要文化財に指定されています。

 

 池上宗仲はそのほかにも、屋敷の土地の一部、7万坪を「日蓮宗の道場にするように」と寄進し、ここに創設されたのが池上本門寺というわけです。本行寺の隣です。

 

 池上本門寺では毎年10月11日から日蓮の命日にあたる10月13日まで「お会式(おえしき)」という法要が行われ、参拝者が大勢訪れています。

 

 

㉔中村八大

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 上を向いて歩こう  涙がこぼれないように  思い出す 春の日

 一人ぼっちの夜~

 

 坂本九が歌って大ヒットした「上を向いて歩こう」。作詞は永六輔ですが、作曲した人は中村八大(なかむらはちだい)という人。

 中村八大のお墓が、ここ池上本門寺にありました。

 

 

明日があるさ」(坂本九

「こんにちは赤ちゃん」(梓みちよ

「遠くへ行きたい」(ジェリー藤尾

「世界の国からこんにちは」(三波春夫

「黒い花びら」(水原弘

などなど。

 

 1992年6月10日に61歳で亡くなるまでたくさんの曲を世に出した作曲家です。

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 お墓の右横の墓誌には、戒名の下に俗名として「八大」と書かれています。

 

 

 

 

㉕米艦船オネイダ号沈没115人追悼碑(2024年11月追記)

 池上本門寺の大堂(だいどう)のすぐ右隣りに、英文で書かれた1メートル四方の石碑が建っています。日本の仏教寺院では珍しい光景ですので、なんだろうと首をかしげる人もいます。

 

 150年以上も前の明治時代に、真冬の東京湾で沈没した米国艦船に乗っていて亡くなった115人の追悼碑なんです。

 

 花崗岩でできている石碑は、正面に『IN MEMORY』で始まる英文が書かれていますが、太平洋戦争の空襲の時の熱で文字の一部が破損しています。碑の右側面には❝紀念碑❞で始まる日本語が書かれています。

 

 判読が難しいのですが、目を凝らしてみると「1870年(=明治3年)1月24日に江戸湾で死亡した米艦船オナイダ号の氏名不詳の何人かの乗組員を、『慈悲ノ情ニ富メル日本人』が1889年(=明治22年)にこの地に埋葬し、碑を建てた」という趣旨のことが書かれています。

 ※碑の右側面に、うっすらと刻まれている日本語の文章.。

 

 

 米艦船「オネイダ号」の沈没については、神戸大学の中田達也准教授の研究がありますので、以下、ポイントを引用します。(「憲法論叢19号」2012年12月)

 

●1870年(明治3年)夜、横浜港を出て帰国の途に就いた米国の船団護衛艦オネイダ号」(=木造で全長約64メートル)と英国の貨物船「ボンベイ号」(=鉄製で全長約233メートル)が浦賀水道で衝突し、間もなく「オネイダ号」は水深約36㍍地点に沈没乗組員176人のうち115人が死亡した。残り61人は2隻の救命ボートに乗って助かり、横須賀の岸に着いた。

●事故後、遺体や船具、荷物などが海岸に漂着した。

1889年(明治22年)には、収集された遺骨は池上本門寺の境内に埋葬され、横須賀の漁師や沈没船の解体業者らが境内に自費で記念碑を建てた。

●「オネイダ号」が沈んだ位置は、猿島横須賀市)と富津岬(千葉県)を結ぶ中間の東京湾湾口。水深は35~40メートル。これまでの調査では、船体が海底の泥に埋没し、探索自体が難しい状態。

●沈没から137年後の2007年には、米海軍横須賀基地横須賀市)内に「オネイダ号記念碑」が建てられた

(注)記念碑の説明文には日本語で「船はこの地点から真東に4マイル(=約6.4キロ)ぐらいのところで英国貨物船に激突され、その後15分の間に沈んだ。この悲劇の結果は、水兵、海兵隊員、そして中国人を含む115人の乗組員の命の損失であった。そのうち回収された遺体はわずか3体だけであった。」と記されています。

 

 

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