北穂高岳で味わう至福のひと時

山登りの記録、観光ではふつう旅行しない外国の風景、戦争の遺跡、登山での体調不良の原因など備忘録として書いています。

散歩~池上本門寺(日蓮宗大本山)に眠る有名人の墓めぐり

 東京都大田区池上本門寺(いけがみほんもんじ)の境内を2020年4月27日、歩いてきました。

 

 目次

 

 

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 池上本門寺近くで見かけたツツジ

 

 

 

 池上本門寺は、日蓮宗大本山広い墓地には歴史上の人物やニュースに登場した著名人が眠っています。

 

 

 

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 境内に96段の石段があります。足腰を鍛えるには好都合とあって、いつも何人かが上り下りを繰り返しています。

 

 

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 この石段は、日蓮宗の信者でもある肥後熊本藩初代藩主・加藤清正が寄進したとか。

 

 

境内で見つけた有名な人たちの墓

 力道山

幸田露伴

▼出羽米沢藩 上杉家

▼肥後熊本藩 細川家

河上彦斎(げんさい)

▼於須磨の方(おすまのかた)

永田雅一

児玉誉士夫

大野伴睦

狩野探幽

紀伊徳川家

 日蓮 (火葬された場所に建つ宝塔)

 

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力道山

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 力道山之像

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 像の左の巨岩には、「力道山之碑 児玉誉士夫」と書かれています。

 

 力道山(りきどうざん)はプロレスラーです。と言っても、知らない人が多いかもしれません。1963年に亡くなっていますから。

 力道山が活躍したのは、民間テレビ放送が白黒の画面で始まって間もない1960年前後のこと。シャープ兄弟とかブラッシーという米国の一流レスラーを相手にリングで闘い、額から出血して劣勢に立っても、得意の“空手チョップ”という技で相手をギブアップさせるシーンに、テレビを見ている日本人は大喜びしたものです。

 

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 案内板。墓地を訪れると、すぐ目に入ります。

 

 墓は、境内の五重塔から200㍍ほど先にあります。この日も雨の中を参拝に来た人がいました。

 

 

 

 

幸田露伴

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 幸田露伴の墓。

 

幸田露伴(こうだろはん)は、明治時代を生きた小説家。夏目漱石森鴎外と一緒に、教科書に出てくる人です。試験の前に、作品についても「幸田露伴五重塔」と丸暗記しました。本は読んでいません。

 

 お墓は、国の重要文化財になっている五重塔の裏というか、横にあります。ただ、作品のモデルになった五重塔は、ここではありません。

 墓石には、露伴幸田成行と書かれています。

 

 

 

 

出羽米沢藩上杉家の墓所

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 上杉綱憲正室(本妻)の墓

 

 

 五重塔のすぐ近くにあります。

 上杉綱憲(つなのり)は、出羽米沢藩(現・山形県米沢市)の藩主。吉良上野介義央の長男で、上杉家に養子入りしました。

 吉良邸に討ち入りした赤穂浪士を討とうとしましたが、幕府からの使者に出兵を差し止められました。テレビドラマの「赤穂浪士」で見られるシーンです。その上杉綱憲の本妻がここに埋葬されています。

 

 

 

 

肥後熊本藩細川家の墓所

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 肥後熊本藩細川家の墓所は、米沢藩上杉家の墓所の奥にあります。

 2基の立派な宝塔は、藩主の側室(側室=本妻以外の奥様)の墓。そのさらに奥には、背丈のある宝塔と多数の墓碑。いずれも細川家ゆかりのものらしいです。

 

 

 

 

河上彦斎(かわかみ・げんさい)

 

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 河上彦斎の「記念碑」。右奥には「墓石」が見えます。

 

 

 河上彦斎(げんさい)は、幕末の肥後熊本藩の下級武士です。

 

 墓は、細川家の墓地の一角にあります。墓石の側面には、「通称 高田源兵衛」と書かれています。墓の前には記念碑が建っていて、「河上彦斎先生碑」とあります。

 

 

 河上が生きた時代は、米海軍のペリー提督が艦隊を率いて浦賀沖に現れ、鎖国政策をとっていた江戸幕府に「開国」を迫った激動期でした。

 河上は、天皇を敬い外国を追い払うという「尊皇攘夷」思想の強固な持ち主だったようです。

 河上は、佐久間象山(さくましょうざん)を京都で暗殺した人物として、歴史に名をとどめています。

 佐久間象山は、公家(天皇)と武家(幕府)の関係を強めるという「公武合体(こうぶがったい)派」で、かつ、開国を主張する有力者でした。

 

 

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 墓石の側面にある「通称 高田源兵衛」の文字

 

 

 

 明治維新後、河上は「高田源兵衛(こうだげんべえ)」と改名しました。

 明治政府は維新後、開国にかじを切りましたが、相変わらず排外主義的な攘夷論を周囲に説き続ける河上を危険視し、政府の転覆を企てたという疑いをかけて投獄。河上は斬首されました。

 

 

 

 

 

於須磨の方

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 お墓。

 於須磨の方(おすまのかた)の墓は、五重塔から力道山の墓に向かって進んだ右手にあります。

 

 江戸幕府第8代将軍の徳川吉宗は、将軍になるまでは徳川御三家のひとつ、紀州藩の藩主でした。その時の側室が於須磨の方です。第9代将軍徳川家重の生母でもあります。

 吉宗が第8代将軍になる前に、赤坂の紀州藩邸で亡くなりました。

 

 

 

永田雅一

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 永田雅一のお墓。

 永田雅一(ながたまさいち)氏の名前は、映画会社「大映」の社長ということで知っていました。時代劇の名作を作っていますね。

 

 力道山の墓に向かう途中、左側にあります。道に面したスペースは更地ですが、右奥に、狛犬がちらりと見え、通行人ににらみをきかせています。

 

 

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 墓地の左外側を少し進んで右を見ると、このような立派なお墓が目に入りました。

 

 

 

児玉誉士夫

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 お墓。

 児玉誉士夫(こだまよしお)氏といえば、田中角栄元首相が東京地検特捜部に逮捕された「ロッキード事件」を連想します。政財界のフィクサーとも言われました。

 児玉氏が脱税などで起訴された後、世田谷区等々力の児玉邸に、ポルノ俳優が日の丸の鉢巻をしてセスナ機を操縦して突っ込み、爆発・炎上する事件があったことを思い出します。

 墓は、永田雅一氏のはす向かいにあります。

 

 

 

 

大野伴睦

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 トラが植え込みから「ガオーッ」。

 

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 大野伴睦(おおのばんぼく)氏の墓は、児玉氏より、少し奥にあります。「トラ」の像が敷地の入り口をにらんでいます。

 大野伴睦氏は岐阜県選出の元衆院議員で、自民党の副総裁だった政治家です。

 

 “大野伴睦”と聞けば、東海地方出身の私は、新幹線「岐阜羽島駅」を連想します。

 岐阜羽島駅ができることが決まった時、「田んぼの中の、店もないところになんで駅をつくるの?」「名古屋駅がすぐそばなのに、岐阜県にそもそも駅をつくる必要があるの?」というのが、当時の大方の考え方でした。

 地元・岐阜選出の国会議員が政治力を発揮して、県内有力者や国鉄の間の調整をしたんだろう、と冷ややかに思ったものです。

 

 大野氏が残した有名な言葉に、こんなのがあります。

「サルは木から落ちてもサルだが、代議士は選挙に落ちればただの人

 

 

 

 

狩野探幽

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 お墓。

 狩野探幽(かのうたんゆう)は、江戸時代の狩野派を代表する「絵師」です。

 その墓は、日蓮宗をおこした日蓮が荼毘(だび)にふされた場所に建つ宝塔のそばにあります。

 

 「絵師」というのは画家のこと。いまふうにいえば、イラストレーターでしょうか。「狩野派」あh室町時代から江戸時代まで400年にわたって活動した画家集団です。

 

 狩野探幽は、江戸城、二条城、名古屋城などの障壁画の制作に、狩野派一門の総帥として参加したそうです。

 

 

 

 

紀伊徳川家の墓所

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 池上本門寺宝塔を見下ろす位置が、紀伊徳川家の墓域となっています。横に並ぶ4つの大きな石塔のうち、右端が「お万の方(おまんのかた)」の供養塔です。

 

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 紀伊徳川家は、「将軍家」に次ぐ地位を持つ徳川御三家」のひとつ

 お万の方は、家康の側室です。のちの紀伊徳川家の初代となる頼宣(よりのぶ)と、水戸徳川家の初代となる頼房(よりふさ)を生みました。

  テレビドラマで人気の「水戸黄門」で知られる「水戸光圀」は、孫にあたります。

 お万の方は敬虔な日蓮宗の信者だったそうです。江戸紀州藩邸で亡くなりました。

 

 

 

日蓮(追記:2021年1月15日)

 

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 池上本門寺宝塔 (2020年10月12日撮影)


 

 日蓮(にちれん)は、鎌倉時代に生きたお坊さん。「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えることによって、現世の辛苦を乗り越えることができると説きました。日蓮の教えは後に、日蓮宗と呼ばれるようになりました。

 

 

 日蓮は晩年に消化器系の病気を患いました。1282年9月に、住み慣れた現在の山梨県身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)を後にして、湯治(とうじ)のために、現在の茨城県北部に馬で向かう途中、病状が悪化して、現在の東京都大田区池上の熱心な信徒の世話になりました。

  池上宗仲(いけがみむねなか)という武士の屋敷です。現在の本行寺(ほんぎょうじ)です。この屋敷に1ヵ月近く滞在するうち、10月13日に61歳で亡くなりました。

 

 

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 写真は、 本行寺の「お堂」。

 

 日蓮が息を引き取った池上宗仲の屋敷の仏間は、その後、跡地に「御臨終の間」という名の「お堂」が建てられ、池上宗仲は屋敷を日蓮の弟子に寄進してにしました。

 これが今の本行寺です。「お堂」は本行寺の境内にあります。

 

 

 池上宗仲は屋敷の庭で日蓮を荼毘(だび)に付し、その場所に宝塔を造りました。現在、国の重要文化財に指定されています。

 

 池上宗仲はこのほか、屋敷の土地の一部、7万坪を「日蓮宗の道場にするように」と寄進し、ここに創設されたのが池上本門寺というわけです。本行寺の隣です。

 

 池上本門寺では毎年10月11日から日蓮の命日にあたる10月13日まで

「お会式(おえしき)」という法要が行われ、参拝者が大勢、訪れます。