桜は満開です・・・東京都大田区で3月26日撮影
目次
“兵器工場”だった大田区
東京23区の南端の大田区に横浜から2016年春、引っ越してきました。
この新しい土地は昔、何があったんだろうか、東京大空襲での被害はどのくらいだったのだろうか、なんて思い、調べてみました。
その結果、遅ればせながらJR蒲田駅周辺は米軍のB29爆撃機による空襲で焼け野原になっていたことを知りました。長い時間をかけて土地区画整理をして、いまの街になったようです。
大田区郷土博物館が編集した「工場(こうば)まちの探検ガイド」(1994年発行)が参考になりました。
冊子「工場まちの探検ガイド」の表紙
アジア太平洋戦争(1931年の満州事変から1945年の太平洋戦争終わりまで)の時、東京都内の軍需工場の四分の一が、いまの大田区に集まっていて、「大田区内全体が兵器工場というにふさわしい光景でした」と、この冊子に書かれています。
軍需(ぐんじゅ)工場というのは、陸軍や海軍の要求に応じて兵器や軍事用の機器を製作する工場のことです。
戦時中は、政府が兵器を生産する会社を指定して、その工場で軍需物資をつくるように命じていたのです。
軍需工場に指定されたのは、大森・蒲田地区(現在の大田区)では、大手では三菱重工業、日本特殊鋼、新潟鉄工所、日立航空機、中央工業、日本精工などでした。
狙われた軍需工場
米軍のB29爆撃機が空襲
上の地図は、東京都が編集した「東京都戦災誌」に添えられている「東京都区部焼失区域図」です。オレンジ色の部分が焼かれたエリアです。
一番下の、「でべそ」のような部分が「大田区」。オレンジ色が広いです。(地図の中央右側のオレンジの塊は、江東区・墨田区)
「東京大空襲・戦災資料センター」の調査によりますと、米軍のB29爆撃機による東京への本格的な空襲は1944年(昭和19年)11月から始まって、翌1945年8月の敗戦までの回数は100回以上。
確認された遺体の数は約10万5400人。けが人は約15万人。焼夷弾で焼かれた木造の家は約70万戸とのことです。
目的は兵器の生産力と、戦う意思をつぶすため
米軍は、日本の兵器生産力をたたきつぶすために軍需工場や軍施設を狙って空襲しました。
でも、1945年3月10日未明の大空襲は目的が異なりました。「東京大空襲」と後に呼ばれるこの日の空襲は、隅田川と荒川にはさまれた今の江東区や墨田区を焼夷弾で焼く「じゅうたん爆撃」でした。
これは住民を大勢殺すことによって、政府や軍が戦争を続けようとする意思をそぐことが主な目的でした。3月10日の2時間の空襲で9万5000人超が焼死、窒息死、水死などで命を失ったのです。
大田区の被害
大田区では、1945年4月15日に蒲田で、5月24日には大森で激しい空襲がありました。
4月15日の空襲では、東京南部の蒲田区(当時)から、多摩川をはさんだ神奈川県川崎市にかけての工場地帯と住宅地が空襲に遭い、蒲田はほぼ全域が焼かれました。
5月24日の空襲では、4月15日の空襲エリアの北側の大森区、品川区、目黒区などの住宅地が空襲に遭い、B29から大量の焼夷弾と爆弾が投下されました。
大田区では空襲による遺体が池上本門寺の横の本門寺公園に仮埋葬されたそうです。公園にたくさんの死体を埋めたとは、驚きでした。
東邦大学の「4.15空襲」の記録(=追記)
東邦大学医学部は、現在地の東京都大田区大森西で、大正時代に「帝国女子医学専門学校」としてスタートしました。
戦時中の名称は「帝国女子医学薬学専門学校」で、付属病院で診療も行っていました。
1945年4月15日の空襲では、木造の校舎や病棟はことごとく焼け、鉄筋コンクリート造3階建ての「本館」(=現在の医学部本館)だけが焼け残りました。
本館の地下室は防空壕になっていたため、近所の人たちも逃げ込んでいたといいます。
焼け残った「本館」。迷彩が施されていました。(「東邦大学50年史」から引用)
大学が創立50周年を記念して1978年3月に発行した『東邦大学50年史』という本があります。
その中に、付属病院が空襲で焼け落ちるとき、第1病棟内の病院本部(=現・病院3号館の位置にあった)に踏みとどまって避難などの指揮を執った看護総婦長の手記が載っています。
少し長くなりますが、引用します。
「4月15日の昼間は暖かかった。夜の点呼を終えて入浴のあと、みんな部屋に戻って就寝しようとするとき、突然電灯が消えた。停電かなと思う耳に、不気味な警戒警報のサイレンが響いた。湯上りの薄着の上に急いで防空服をまとう。(中略)いよいよ空襲だ。各部署に厳重に待機するよう指令し、各病棟の人員報告を暗闇の中、手探りで記録する。第2病棟に行き、水を十分用意するように注意を与えた。(中略)その間にも爆音は近づいてくる。ザーッという摩擦音は焼夷弾の落下だ。急いで(病院本部の)玄関に飛び出すと、蒲田の方向に火の手が上がっている。(日本軍による)高射砲弾がさく裂するが、命中しない。」
「かねて患者の避難場所に定めてあった池上本門寺境内への退避を命令する。患者たちを、次々誘導員を付けて避難させる。荷車に荷物を積んでいる者、こわいこわいと騒ぐ者、お互い名を呼び合いながら走っていく。静かだった夜が、地獄絵を繰り広げたようなありさまになった。(中略)」
「看護婦宿舎が燃えているが、かえりみる暇もない。残留者に消火をやめて避難するよう指令する。防空服の上から一人ひとりに水をたっぷり浴びせてやる。あたりは紅蓮の炎で、無風の夜が強風に変わっていった。(中略)」
「もはやこれまでと覚悟を決め、病院本部(=現在の病院3号館の位置)に戻る。暗室の水をやたらに飲み、ぬれ手ぬぐいで煙を防ぐ。看護婦と医師、それに私の3人がいるところへ4人の看護婦が戻ってきた。患者たちを無事避難させて、引き返してきたのである。すでにこの建物も危ない。
「煙に巻かれないように床を這(は)う。(私たち7人は)手をつなぎ合いながら地下室(死体安置所)に這(は)い降りた。地下室の冷気で、やっと人心地がつく。いくらか楽になったので、脱出の方法を考える。一部屋ずつたどって行けば、出られるのではないか。次の部屋には患者が2人避難していた。計9人でこの部屋にじっとしていると、服がぬれているので寒いうえに、疲れが出て寒気がしてくる。元気を出すつもりで歌をうたおうとするが、声がかすれて出ない。すぐ胸が詰まって涙がほほを伝わる。その間にも、外では木のはじける音、倒れる音、爆音の交錯。とてもじっとしていられない。」
「(4月16日午前)4時ごろ、紅(くれない)の空の間から青い色が差してきた。夜が明けたのだった。助かったと手を取り合って喜ぶ。あたりは一望の焼け野原。学校の本館だけが浮城のように残っていた。たき火をしてぬれた服を乾かす。とにかく生きて今日が迎えられた。煙にただれた目に、16日の大きな真っ赤な太陽がまぶしいばかり昇り始めた。」
写真手前はガレキ。その奥に見えるのが、迷彩を施した本館(=現在の医学部本館)。(「東邦大学50年史」から引用)
現在の「医学部本館」。
焼け野原とは・・・こんな光景
「グラフィック・レポート東京大空襲の全記録」(石川光陽・森田写真事務所編、岩波書店発行)の表紙
「空襲」による被害とは、どのようなものか・・・。
戦時中は一般市民が空襲による被災現場を撮影することは「軍の機密に触れる行為だ」として禁止されていました。ですから写真はないと思われます。
ただ、唯一民間人では、警視庁のカメラマンだった石川光陽氏が写真を撮っていました。
石川氏は警視総監から「空襲の記録を警視庁に残しておきたいから」と被害を写真で記録するよう特命を受け、迫真力のある空襲のもたらす惨状を撮影し続けました。
戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が石川氏にネガの提出を求めましたがこれを拒否。庭に埋めて隠すことで守り抜きました。
以下の写真は、「グラフィック・レポート東京大空襲の全記録」からの引用です。
大田区内で石川氏が撮影した写真もあります。
弔い
本門寺公園に仮埋葬した
本門寺公園の桜も満開・・・2021年3月26日撮影
東京都大田区にある日蓮宗の大本山、池上本門寺の墓地の横に、「本門寺公園」があります。運動場や池があり、桜やくすの木が植えられています。市民の憩いの場です。
ここに昔、空襲で亡くなった612人が「仮埋葬」されたのです。
1945年3月10日の東京大空襲以降、焼夷弾による火災で死者が増えたのですが、火葬場の処理能力には限界があります。そのうえ、「いつまでも路上に置いておくことは当時の都民の士気にも関係することであったし、早急に人目にふれぬところへ運んでしまうことが必要であった」(「東京都戦災誌」の記述)ためです。
そこで都内では、お寺の境内のほか、公園に穴を掘って遺体を埋める仮埋葬をしたのです。隅田公園、上野公園の一部、錦糸公園の一部や六義園も仮埋葬地になりました。
東京大空襲・戦災資料センターの説明では、仮埋葬された遺体は3~5年後に掘り返されて、桐ケ谷斎場などで火葬され、遺骨は東京都慰霊堂に安置されたということです。
平和島競艇場の観音さま
大田区平和島の平和島競艇場(通称:ボートレース平和島)の敷地内に「平和観音像」があります。“観音さま”と呼ばれるこの像は、敷地の所有企業が1960年に永遠の平和を願って建てました。
実はこの平和島は、東京湾を埋めて造った人工島で、戦時中は米兵など連合国側の捕虜を収容した東京捕虜収容所だったのです。陸との連絡には180メートルの木橋しかないということも収容所に選ばれた理由でした。
終戦の時には606人の捕虜がいたそうです。
敗戦の年の1945年10月には、捕虜がいなくなったこの収容所に、今度はA級戦犯被疑者として逮捕された東条英機元首相、岸信介元商工大臣(後に首相)らが収容されました。彼らは巣鴨プリズンが開設されるまでの2ヶ月間ここに収容され、その後、巣鴨プリズンに移送されて東京裁判(極東国際軍事裁判)にかけられました。
上の写真は、現在の平和島競艇場の観客のスタンドですが、このスタンドがあるあたりに捕虜収容所の建物が6棟ありました。
戦後、埋め立てが進んで平和島は陸続きになっているため、当時の「島」の面影はありません。
入新井公園のお地蔵さん
JR大森駅近くの入新井(いりあらい)公園にお地蔵さんがあります。公園の片隅の茂みの中にありますので目立ちません。
それでも近所のご高齢の方が時々立ち寄って、しばし手を合わせています。
この入新井地区には戦時中、日立航空機の本社と大森工場があり、航空機用のエンジンを製造していました。
1945年5月29日に、このあたりでは3.3平方メートルあたり6、7発の焼夷弾が落とされ、火災で大勢が亡くなりました。日立航空機も建物が焼けたことが「東京都戦災誌」に記録されています。
戦後、区画整理が終わって、この公園ができることになった時、空襲で亡くなった近所の人を弔おうと住民がお金を出し合って建てました。
父親や母親、おじいさんやおばあさんが生きた時代に、日本が戦争をし、たくさんの普通の人が死んだという歴史上の事実を忘れてはいけないですね。
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