目次
修学旅行の延期・中止相次ぐ
「孫がねえ、沖縄に修学旅行で行く予定だったんだけど、中止になったよ。気の毒でねえ」。神奈川県の知り合いから先日、そんな話を聞きました。
ゴールデンウィーク開けは中学・高校の修学旅行シーズン。沖縄にも大勢の生徒が行っていましたが、コロナ禍で沖縄県にも5月23日から緊急事態宣言が出されました。玉城デニー知事が県外からの沖縄訪問の「自粛」を要請しています。
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コロナ禍が終息すれば戦跡めぐりをきちんとしたい気分です。
10年前の駆け足旅行の写真を記録として載せました。
沖縄戦(おきなわせん)とは
県民の4人に1人が死んだ
「沖縄戦」はいつの時代のこと?
「沖縄戦」はアジア太平洋戦争の最終局面の1945年(昭和20年)3月から6月までの3か月間、沖縄で県民を巻き添えにして行われた日本軍と米軍との地上での戦闘です。
米軍の上陸場所に近い沖縄市(旧コザ市)は、市役所のホームページで沖縄戦のことを次のように書いています。
「鉄の暴風と形容された沖縄戦は、敵の砲弾にあたって死んだ人、猛烈な機銃掃射のなか、日本軍によって壕から追い出されて亡くなった人、いわゆる集団自決を強要された人たち、毒薬を注射されて死んでいった子どもたち、日本軍によってスパイ視され殺された人、自らの手で家族を死に追いやった人、異郷の地で命を落とした人、そしてマラリアや飢えで死んだ人など、沖縄戦はまさに地獄絵さながらでありました。戦前の沖縄県の人口は約49万人で、戦没者が約12万人。沖縄県民の4人に1人が亡くなったことになります。」
私の沖縄旅行
2011年8月に沖縄を旅行しました。そのうちの、戦跡部分の記録です。
安保の見える丘
嘉手納(かでな)町にある、通称「安保の見える丘」。
米軍嘉手納基地を一望できる小高い丘が、そう呼ばれています。
4000㍍級の滑走路があって、戦闘機が離着陸しています。
道路反対側にある「道の駅 かでな」の建物。
「道の駅 かでな」4階の展望台からみた嘉手納基地。
写真左下の白い階段を上がったところが「安保の見える丘」です。
「道の駅」の展望台
首里城
首里城の正殿(せいでん) (2011年8月10日撮影)
首里城の正殿は2019年10月31日未明、火災で焼失しました。原因不明。
正殿から南西に300㍍下がった森の中に、旧日本軍の「第32軍司令部壕」がありました。ここに置かれた司令部は1945年5月末に、米軍に首里を包囲されたため沖縄本島南部の摩文仁に撤退。糸満市摩文仁の洞窟に司令部を移して、米軍が日本の本土に上陸するのを遅らせるため、時間稼ぎの持久戦を繰り広げたのです。
首里城の正殿の内部
首里城の中庭
旧海軍司令部壕
「旧海軍司令部壕」は、豊見城市にある旧海軍沖縄方面根拠地隊司令部の壕です。
海軍沖縄方面根拠地隊は、近くの小禄(おろく)飛行場(現在の那覇空港)を守るために配備された部隊でした。
持久戦を続けるための地下陣地として司令部壕を掘りました。4000人の兵を収容したそうです。
地下壕入口の階段
薄暗い通路
幕僚室。幕僚たちが手りゅう弾で自決した時の破片が壁にくっついたまま
司令官室
大田實司令官(海軍少将)は6月13日、この部屋で拳銃で自決しました。
太田司令官は自決する1週間前の6月6日、海軍次官あてに「沖縄県民斯ク戦ヘリ」(オキナワケンミン カク タタカエリ)という電文を打ち、戦争が終わったあかつきには、沖縄県民への配慮を求めました。
電報の原文を現代文に直すと、大筋こうなります。
「次の電文を海軍次官にお知らせくださるよう取り計らってください。県知事に代わって緊急にお知らせします。県民は青年も壮年も防衛のため、かり出され、残った老人、子供、女性は爆撃で家を焼かれ、体一つで軍の作戦の支障にならない場所で防空壕に避難したり、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。しかも、若い女性は進んで軍に身を捧げ、切り込み隊への参加を申し出るものさえもいます。(中略)。陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約を強いられ、報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。沖縄県民はこのように戦いました。県民に対し、後世、特別の配慮をしてくださいますように。」
ひめゆりの塔・ひめゆり学徒隊
ひめゆりの塔は、沖縄戦で亡くなったひめゆり学徒隊の鎮魂のために建てられた慰霊碑です。
「ひめゆり学徒隊」というのは、終戦間際の1945年3月末、南風原(はえばる)町にあった沖縄陸軍病院に看護要員として配属された沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒222人と引率教師18人のことです。
上の写真の「右下」が「ひめゆりの塔」です。その後ろで口を開けている壕が沖縄陸軍病院・伊原第三外科壕です。ひめゆり学徒隊は、南風原の陸軍病院を撤退したのち、この壕に入りました。
しかし6月18日、ひめゆり学徒隊に陸軍病院から解散命令が出て、学徒隊は砲弾が飛び交う戦場に投げ出される格好になりました。
翌19日、壕を脱出しようとした時に、米軍からガス弾攻撃を受け、壕の中にいた学徒、引率教師、負傷兵、住民約80人が死亡。他の壕にいた学徒らは南の崖に追い詰められ、荒崎海岸で手りゅう弾で自決した学徒もいました。
ひめゆりの塔の入り口
ひめゆり平和祈念資料館
ひめゆりの塔の近くにある資料館。ひめゆり学徒隊の生存者でつくる同窓会が募金などで設立しました。沖縄戦の悲劇を伝えています。
沖縄県営平和祈念公園
デイゴの木が植え付けられた丘に、屏風のように立つ碑。
平和の礎(いしじ)。沖縄戦で亡くなった国内外の20万人余りの名前を刻んだ記念碑のことです。
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米軍撮影写真で、気になった子どもたち
①うつろな目の少女
食料を奪おうとした日本兵に暴行を受けて失明
「うつろな目の少女」・・・・。
なんとひどい姿なんだろう。
私がこの写真を初めて見たのは、写真記録「これが沖縄戦だ」と題した、琉球大学教授(当時)の大田昌秀さんの著書(1977年9月初版発行)です。
この表紙の写真はその後、元軍人で歴史学者の藤原彰さんが取りまとめ役の
≪沖縄戦——国土が戦場になったとき≫(1987年7月初版発行)でも、表紙を飾りました。下の写真です。
この写真の子、その後、どうなったんだろうか・・・。
2005年5月7日付「東京新聞」朝刊、さらに2008年1月29日付「朝日新聞」夕刊で、分かってきました。
この子は「少女」ではなく、男の子でした。
大城盛俊さん。当時12歳。
育ての親に、「男子だと兵隊にやられるから女の子になりすましなさい」と言われ、おかっぱ頭の女の子の格好をさせられていたといいます。
旧玉城村(いまの南城市)のガマ(洞窟のこと)に逃げ込んでいた1945年5月下旬、日本兵が入り込んできて、「食料をよこせ」と、そこにいた住民に銃を向けました。兵が大城さんのリュックサックを取り上げようとした時、大城さんは中の黒砂糖を奪われたくないので「取らないで」と日本兵にとりすがったところ、「生意気な奴だ」と壕の外に引きずり出し、顔を殴り、軍靴で蹴り飛ばしました。大城さんは気を失い、右腕は脱臼、右目は失明しました。
本の表紙に使われた写真は、大城さんがその後、米軍につかまり、6月21日に「具志頭」にできた米軍の診療所で、傷の手当てを受けるために順番を待っていた時、米陸軍通信隊に撮影されたものです。
大城さんは1984年になって、大田昌秀さんに「これは僕です」と名乗り出ました。
②白旗の少女
「ふんどし」で作った白旗
米兵のカメラに手を振る「白旗の少女」 (沖縄県公文書館所蔵写真)
白旗(しらはた)を掲げる子どもの写真を初めて見たのも、琉球大学教授(のちの沖縄県知事)だった大田昌秀さんの「写真集 これが沖縄戦だ」という本。
表紙の口絵の1枚でした。
それから何年かして、上のスチール写真とは違って、動画をテレビで見ました。
はだしの子どもが三角形の白旗を括り付けた棒を右手で持って、肩に乗せて投降する動画です。
スチール写真を撮影している米兵に、笑顔で左手を振るおかっぱ頭の子ども。その後ろには、武器を持っていない日本兵が2人。
子どもがこんなことまでするのか・・・白旗はだれが作ったんだろう・・・この子はこの後どうしただろうか、なんて思ったものです。
以下のカット写真は、【NHK戦争証言アーカイブス 資料映像「米軍が撮影した沖縄戦 その2」(米国国立公文書館所蔵映像)】からの引用です。
スチール写真を撮っている米軍カメラマンに笑顔を作って手を振る子ども。動画を撮っているカメラマンにはの存在には気が付かなかったようです。
この子は、比嘉富子さん。「白旗の少女は、わたしです」と1987年10月に名乗り出て、地元紙に掲載されました。
比嘉さんはその2年後の1989年、自分の体験を「白旗の少女」と題して講談社から出版しました。
著書をみますと、
当時、比嘉さんは7歳。
笑顔は、父親から「たとえ撃たれるとしても、最期は手を振ってにっこりと笑いなさい、とおしえられたから」といいます。
7歳の比嘉さんは逃げ惑ううちに親兄弟とばらばらになり、1人戦場をさまよっているうちに、入り口の狭いガマにたどりつきました。中にいたのは、切断された両手両足を白い布で巻いたおじいさんと、目が不自由なおばあさんの2人でした。
おばあさんは、おじいさんの指示でおじいさんの「ふんどし」の前垂れを、かみ合わない歯で食いちぎり、三角の布を作りました。
比嘉さんはおじいさんの指示で、ガマの出入り口近くにあった木の枝をおばあさんに渡し、おばあさんと一緒に布を木の枝に結び付けました。
おじいさんは「富子、それを持っていけば、絶対安全なのだ。それが世界中の約束だから、本当に大丈夫なんだ。いいかね、外に出たらその白旗がだれからでもよく見えるように、高く上げるんだ。まっすぐにだ」と、比嘉さんに投降を促し、比嘉さんは一人でガマの外に出たといいます。
その日は米軍の撮影記録から、6月25日と分かりました。
③震える少女
カメラが武器に見え怖かった
「しんぶん赤旗電子版」2019年8月18日付からの引用。
道端に座っている子どもがガタガタ震えている映像。これもよく見ます。
この「震える少女」の身元が分かった、と地元紙「琉球新報」が報じたのは、
2019年6月23日でした。
少し遅れて、しんぶん赤旗電子版(8月18日)にも載りました。
「震える少女」の名前は、浦崎末子さん。当時7歳でした。米軍が撮影したのは、沖縄県公文書館の資料から1945年5月31日とみられます。
報道によりますと、当時の様子は次のようです。
浦崎さんは米兵に撮影される直前まで、いまの糸満市の実家の「墓」に母、姉、弟と4人で身を隠していました。しかし、米軍の攻撃が激しく、同様に墓に避難していた隣家が砲弾を受けたのを知り、一家で墓を出ました。
母は弟と、浦崎さんは姉とともに、二手に分かれて避難場所を探すことに。米兵と遭遇したのは、母と弟の安否が気掛かりで様子を見に戻った姉を、1人で待っている時でした。
米兵は水筒を差し出しましたが、浦崎さんは飲むしぐさをしましたが飲みませんでした。姉たちから米軍からもらうものには毒が入っている、と聞いていたからです。
浦崎さんは当時の心境について「アメリカー(米兵)を目の前で見るのは初めてで、青い目が怖かった。撮影機が武器に見えて、撃たれるのではないかと怖くなり、ガタガタ震えました」と振り返っています。
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沖縄県公文書館所蔵~写真が語る沖縄~からの引用
≪1≫
【米軍による写真解説】(和訳)
約2時間にわたる説得ののち、子供二人を殺し、自らも命を絶とうとしていた民間人たちが、壕から出てきた。負傷者を収容する救護室に連れていかれた彼らは、そこで自分のノドを切ろうとした。
1945年4月3日撮影。米海兵隊資料。
(補足)
米軍が沖縄本島に上陸したのは、4月1日。場所は現在の読谷村(よみたんそん)。本島上陸のすぐ後の写真のようです。
≪2≫
【米軍による写真解説】(和訳)
ノドを切りつけ、自殺を図ろうとした地元女性を診断するノーコス医師(海兵隊大尉)。読谷村楚辺の民政病院で。
1945年4月4日撮影。米海軍資料。
≪3≫
【米軍による写真解説】(和訳)
座間味島の病院ににいる地元の子どもたち。彼らの喉が親によってかき切られそうに
なったことに注目するように。
1945年4月21日、座間味島で撮影。米海軍資料。
(補足)米軍は1945年4月1日の沖縄本島への侵攻に先立って、座間味島、慶良間島など慶良間諸島に3月26日に上陸、日本軍との戦闘が始まりました。住民が集団で命を絶つ「集団自決」が発生しています。
≪4≫
【米軍による写真解説】(和訳)
前線から約50ヤードの墓の中で発見された2人の日本人の子ども。
1945年4月23日撮影。米陸軍通信隊写真。
≪5≫
【米軍による写真解説】(和訳)
護衛空母サンガモンに、急降下で特攻を行う日本軍の戦闘機「飛燕」。慶良間諸島にて。この戦闘機は、約25フィート以内まで近接したが、特攻に失敗した。
1945年5月4日撮影。米海軍写真資料。
≪6≫
【米軍による写真解説」(和訳)
沖縄戦で戦闘中の海兵隊員。ガルディ一等兵が、墓から出るのを拒んだ日本軍狙撃兵に向かって、火炎放射をしているところ。狙撃兵は、この墓を隠れ家として使っていた。1945年5月25~26日撮影。
≪7≫
【米軍による写真解説】(和訳)
首里城の城壁・・・瓦礫と化した首里城の城壁。その下には、塀がめぐらされていた。後方に見えるのは首里の街。焼け残った木々は、城を囲んでいた森の一部である。首里城は第5海兵連隊によって攻略された。
1945年5月撮影。米海兵隊写真資料。
≪8≫
【米軍による写真解説】(和訳)
1945年5月29日撮影。米海兵隊写真資料。
≪9≫
【米軍による写真解説】(和訳)
小禄(おろく)。第六海兵師団の憲兵の監視のもと、検査のために一列に並ばされる3人の日本兵捕虜。彼らは投降した。2人はボロボロの軍服を身に着け、1人は盗んだヨレヨレの着物を着ている。
1945年6月撮影。
≪10≫
【米軍による写真解説】(和訳)
壕の中の日本軍第32軍の元司令部。撮影地は首里。
1945年撮影。米陸軍通信隊写真。
≪11≫
【米軍による写真解説≫(和訳)
完全にトンネル化されていることが判明した首里城地下の日本軍第32軍の司令部の部屋。
1945年7月6日撮影。米陸軍通信隊写真。
(補足)
陸軍の第32軍司令部壕は米軍上陸直前の1945年3月に、首里城の地下に掘られました。しかし、米軍上陸後の激しい戦闘で5月下旬、軍司令部は南部の摩文仁に撤退しました。
≪12≫
【米軍による写真解説】(和訳)
隠れ家である大きな壕を出て投降した491人の沖縄の民間人の一部。
手前は、小さな「やかん」(metal teapot)から水を飲む子ども。
1945年6月24日撮影。海兵隊写真資料。
≪13≫
【米軍による写真解説】(和訳)
戦争で親を亡くし、壕の中で1人で見つかった沖縄の子どもは、米海兵隊員の手を借りて小さな着物(small kimono)を着けている。
1945年6月撮影。米海兵隊資料。
≪14≫
【米軍による写真解説】(和訳)
日本陸軍第32軍総司令官牛島中将の総司令部であった89高地の壕を視察後、海兵隊や陸軍の司令官と話すスティルウェル大将(右端)。背後にその壕の入り口が見える。1945年6月27日撮影。
≪15≫
【米軍による写真解説】(和訳)
糸満市の摩文仁の丘。89高地にある第32帝国陸軍司令官・牛島中将と参謀長・長勇の墓の前に立つ日本軍捕虜。心理作戦部隊の依頼で撮影した。
1945年6月28日撮影。
(補足)
第32軍の牛島満司令官と長勇参謀長は6月23日未明、摩文仁岳中腹の司令部壕の出口で自決しました。これによって軍の組織的な戦闘は終わった、とされています。
しかし、長参謀長は自決の前の最後となる「軍命令」に、「・・・最後まで敢闘し、生きて虜囚の辱め(はずかしめ)を受くることなく・・・」などと書き、牛島司令官はこれに署名。このため6月23日以降も宮古群島や八重山群島では8月15日まで戦闘状態が続いており、日本軍が武装解除されたのは9月7日のことでした。
≪16≫
【米軍による写真解説】(和訳)
沖縄で投降した日本軍将校の少佐(左)と少尉(右)を尋問する第一海兵師団の将校。彼らは自らをマサイヨシカキ少佐、イシドサダミ少尉と名乗った。この2人は天皇が日本軍に武器の放棄を命じたことを伝えるラジオトーキョーからの日本語放送を聞いて、しずしず投降してきた。少佐は米軍上陸前に、沖縄の入り組んだ南部防衛線を要塞化していた。その後、彼は戦闘の最期の悲惨な状況の中、日本陸軍第32軍の司令官と参謀長が「ハラキリ」を行った時に居合わせた。投降した2人の将校は53日もの間、日中は壕に潜み、夜間に移動し、生芋と草で食いつないでいた。
1945年8月撮影。米海兵隊資料。
≪17≫
【米軍による写真解説】(和訳)
アメリカの襲撃に先立つ1945年2月に撮影された集合写真。数字は、
①大田實・海軍沖縄方面根拠地隊司令官(少将)
②牛島満・陸軍第32軍司令官(中将)
③長勇・陸軍第32軍参謀長(少将)
④金山均・陸軍歩兵第89連隊長
⑤北郷格郎・陸軍歩兵第32連隊長
⑥八原博道・陸軍第32軍高級参謀(大佐)
米海兵隊資料。
≪18≫
【米軍による写真解説】(和訳)
慰霊碑。沖縄本島南部で戦死した距学生たちの慰霊碑「ひめゆりの塔」に花輪をささげる沖縄の若者。前方には鳥居、後方には十字架がある。
1950年3月30日撮影。米陸軍通信隊。
(補足)
「ひめゆりの塔」は沖縄戦で亡くなったひめゆり学徒と引率教師の慰霊碑だが、1946年4月5日の建立以来、これまでに何度か姿を変えてきている。
最初の「ひめゆりの塔」は、現在も残っている「ひめゆりの塔」という文字が刻まれた石碑で、沖縄県島尻郡真和志村(まわしそん)の村民の手で、伊原第三外科壕の上に建立された。
その後、1948年には沖縄キリスト教青年部によって納骨堂が建設され、遺骨が納められた。最初の「ひめゆりの塔」は納骨堂の正面に入れられ、上部には十字架が立てられた。
そして1950年には、「ひめゆりの塔」の前に国頭郡恩納村(おんなそん)瀬良垣青年会によって鳥居が立てられた。(上の写真)
その後も、納骨堂の前に乙女像が設置されたり、納骨堂が白いコンクリートで覆われたりしたが、劣化が進んだために2009年に納骨堂を大理石で覆った。また、御影石の刻銘版には、ひめゆり学徒と引率教師の名前が刻まれ、今日に至っている。
≪19≫
【写真解説】
糸満・喜屋武岬。
1971年3月撮影。琉球政府関係写真資料。
(補足)
首里から本島南部に撤退する日本軍を追って、米軍が南下。住民も銃声におびえながら南へ南へと避難する。避難民がたどり着いたところは、高さ10数㍍の断崖が切り立っている岬。喜屋武岬(きゃんみさき)もそのひとつ。眼下の海は米艦船で埋め尽くされて真っ黒。砲弾を崖や丘に向けて撃ちまくる。追い詰められた大勢の避難民は逃げ場を失い、意を決して岬から飛び降り、死んだ。
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