北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスに登っていたころの記録、国内外の旅行、反戦平和への思いなどを備忘録として載せています。

沖縄戦で優しさと権力者の一面をみせた島田叡・沖縄県知事~多磨霊園に眠る著名人④

 島田叡(あきら)沖縄県知事(撮影者不詳)

 

 78年前のアジア太平洋戦争で、上陸してきたアメリカ軍と日本軍とで地上戦が行われ、沖縄県民の4人に1人が死んだ沖縄戦(おきなわせん)――。その時に沖縄県知事だった島田叡(あきら)知事のことを調べました。

 

 写真は、「鉄の暴風」で破壊されつくした首里城の城壁。後ろは首里の街。1945年5月、米海兵隊撮影。(沖縄県公文書館所蔵)

 

 

「職務」とはいえ、14歳という現代の中学生まで戦場にかり出して早死にさせた知事の責任を問う意見がある一方で、「生きろ」と言って、死の淵に立たされていた部下に「生きる」という道を設定した優しさを強調する映画もつくられています。

 

 島田叡に対する評価はさまざまです。(以下、敬称略)

 

もくじ

 

 

 

前任者が逃げた「知事」ポストを引き受けた男

 島田叡は兵庫県出身で、いまの東大を出てから内務省に入った官僚。大阪府の「内政部長」から沖縄県知事になりました。戦前の知事は選挙で選ばれるのではなく、政府が人選する「官選知事」でした。

 

 島田叡が沖縄県庁に到着した1945年1月31日、全職員が玄関前で出迎えたといいます。どうしてか――。

 

 沖縄は、米軍上陸の半年前の1944年10月10日、米軍機による空襲を受け、県庁のあった那覇市内は焼け野原になりました。

 

 その時の知事は、年末に「内務省への報告」を理由に東京に出張したまま、沖縄に戻ってきませんでした。

 県職員の間では「沖縄が戦場になると予測して逃げた」とウワサされていました。

 1ヵ月も知事が不在だった沖縄県に、新しい知事が来たので期待しないわけがありませんでした。

 

 

「断わるわけにはいかん」

 島田叡が内務省から「沖縄県知事」の打診を受けたのは、1945年1月11日。当時、大阪府の「内政部長」でした。

 当時は沖縄への米軍上陸は時間の問題とみられていた時期で新任知事は命が危ないため、人選は難航していました。しかし、島田叡は打診を受け入れ、翌日、発令されました。

 

 

 友人の中野好夫(のちの評論家)は著書『最後の沖縄県知事』で、島田家の様子を以下のように書いています。

 

 「昭和20年1月11日の朝である。大阪府内政部長の島田家では、いつものように家族4人――夫人美喜子さん、長女黎子さん、次女幸子さん――朝餉(あさげ)の卓に向かっていた。と突然、電話のベルが鳴って、出てみると、隣家の(大阪府)知事官邸から、叡さんに話があるからちょっと来てほしいという。叡さんは立って出て行った。やや時間があって、叡さんは戻ってくると、なにか妙にニヤニヤ笑っている。不審に思って、美喜子さんが聞きただすと、本省からといって、沖縄県知事の内命を(大阪府知事を通じて)聞かされたと答えた。美喜子さんは、一瞬全身の血が音を立てて退くのを感じた。それでお受けになったのかとさらにただすと、叡さんは静かにもちろん受けて来たと答えた。」

 「美喜子さんの話によると、受けたと叡さんから聞かされた時、さすがの奥さんも我を忘れて思わず、それでは私たちはどうなるのかと訴えたそうである。また、私たちなんにも悪いこともしないのに、沖縄にやられるなんて、そんな内務省なら、いっそやめてしまいましょう、とも嘆いたそうだ。」

(中略)

 「だが、叡さんは答えたそうである。どうしても(だれかが)行かなければならないとすれば、言われたおれが断わるわけにはいかんではないか、と。また、これが若い者ならば、赤紙1枚で、いやおうなしに行かなければならないのではないか。それをおれが固辞できる自由をいいことに断わったとなれば、おれはもう卑怯者として外も歩けなくなる、とも言ったという。」

 

 島田叡は当時43歳。知事在任期間は約5ヵ月。単身で赴任し、二度と大阪に戻ることはありませんでした。

 

 

「職務」から14歳以上の生徒を動員した島田知事

 (「沖縄鉄血勤皇隊」から引用)

 

 陸軍省は戦争末期、兵士の不足を補うために「17歳以上の男子」を防衛召集の対象にしていました。

 しかし、沖縄県では沖縄守備軍(=第32軍)の独自の判断で、「14歳から16歳の旧制中学校の生徒」まで動員しました。

 それは軍による一方的な措置ではなく、沖縄県知事も「同意」したものでした。

 

 正式な日付は不明ですが、3月初めと読み取れます。

 第32軍の牛島満(みつる)司令官(=中将)と島田叡沖縄県知事、それに沖縄連隊区司令官の3者が鉄血勤皇隊編成ならびに活用に関する日本軍と沖縄県の覚書】を交わし、知事が学校ごとの生徒名簿を軍に提出したことによって生徒が戦場にかり出されたのです。

 

 【覚書】鉄血勤皇隊防衛召集要領】では、旧制中学校と師範学校は学校ごとに『鉄血勤皇隊』を編成して、非常事態になれば、軍命令によって直接軍組織に編入し戦闘に参加させる、としました。

 対象年齢は「14歳から」とすることに知事は合意していたということが読み取れます。

 

 ≪沖縄県のホームページ≫によりますと、沖縄には戦時中、師範学校、中学校、高等女学校などの名称で、21の中等学校があり、すべての男女が戦場に動員されました。

 女子生徒は15歳から19歳で、おもに負傷兵の看護活動に従事。

 男子生徒は14歳から19歳で、上級生は鉄血勤皇隊に、下級生は通信隊に組み込まれました。

 鉄血勤皇隊は、軍の物資を運んだり、爆撃で破壊された橋などの修理に当たり、通信隊は電報の配達や爆撃で切断された電話線の復旧などに従事しました。

 

 ≪沖縄県史≫(沖縄県編集)によると、動員された生徒と教師の戦死者は、生徒980人、教師37人の計1017人です。

 

※知事と軍司令官ら3者の「覚書」は、戦後60年経ってから米国立公文書館で見つかりました。米軍は沖縄の戦場で捕虜にした兵などから日本軍関係の資料を押収し、重要なものは英訳して作戦の参考にしていました。

 米国立公文書館には英訳だけ残っている日本軍の資料もあり、「覚書」もその1つです。

 

 

知事が「轟の壕」で県庁を解散した

 沖縄県庁は戦前から那覇市にありました。しかし、1944年10月10日に空襲で市の90%を焼失。1945年4月1日に米軍が沖縄本島に上陸すると、知事は県庁を首里の繁多川(はんたがわ)の壕に移しました。

 軍司令部が首里城の地下にあり、知事自ら軍首脳から戦況や軍の方針を探ろうとしたようです。

 その後、軍司令部の移動に合わせて県庁を壕から豪へと、南部に移動。知事以下100人ほどの県職員は、天然の壕=ガマ)を庁舎にしたのです。

 

 6月5日、全長約100㍍の東西に延びる摩文仁村「轟(とどろき)の壕」(=現在の糸満市)に入りました。

 

 6月9日島田知事は「轟の壕」で、同行してきた県職員や警察官に「今をもって、警察部を含む沖縄県庁を解散する」と、県庁組織の解散を命じました。

 米軍の包囲網から集団で逃れることはできないと判断し、部下に行動の自由を与えたと考えられます。

 県庁が姿を消して役所の機能が止まったのです。

 

 

知事の「最期」は?

 知事はいつどこで亡くなったのか――。

 

山里和枝の記憶

 島田知事は6月14日早朝、部下3人とともに「轟の壕」を出て、摩文仁の軍司令部に向かいました。

 

 その時、壕の出入り口近くの水くみ場にきていた県警察職員の山里和枝は、鉄カブトをかぶって出て来た知事に遭遇しました。

 「長官(=知事のこと)殿、どちらへですか?」と、軽い気持ちでたずねたといいます。

 すると知事は「僕たちはこれから軍の壕に行って、軍と行動をともにします」。そう言って山里さんに歩み寄ってきた知事は、山里さんの右肩を左手でつかんで力を込め、こう言いました。

 「いいかい?(米軍は)君たち女、子どもにはどうもしない。だから最後は手を挙げて壕から出るんだ。決して軍(=日本軍)と行動をともにするんじゃないぞ。いいね」と。

 そう言い残すと、足早に崖を登っていきました。

 

 

長田紀春の記憶

 6月16日、島田知事はサトウキビ畑や白いサンゴ礁の大地を通り抜けて摩文仁軍医部壕に着きました。そこには負傷者が収容されていました。

 

 その時、軍医部壕に居合わせた陸軍病院第3外科の軍医見習士官だった長田(ながた)紀春(=2017年に97歳で死去)によりますと、知事は道案内をしてきた同行の県職員に、国民服の胸のポケットから束ねた百円札を取り出しながら、こう言って別れを告げたといいます。

 「今までいろいろご苦労だった。何もあげられるものがなくて気の毒だが、これを受け取ってくれ。使えるかどうかわからないが、ぼくが持っていてもしょうがない。」

 

 牛島満・軍司令官らの軍司令部は、5月27日首里を出て、6月1日摩文仁の丘に着いていました。

 

 体調を崩していた荒井退造・県警察部長(=現在の県警本部長)は、6月18日摩文仁に到着し知事と合流しました。

 

 

 

八原博道の記憶

 (上の図は「沖縄決戦」から引用)

 

 摩文仁ヶ丘の「司令部壕」について、軍の高級参謀(作戦担当)の八原博通(ひろみち)陸軍大佐(=1981年に78歳で死去)は次のように書いています。

 「軍首脳部用の洞窟は、山の8合目付近にある自然洞窟に手を加えたものである。山肌から垂直にハシゴで数㍍手探りで降りると、水平に6、70㍍洞窟が続き、さらに右折して50㍍、海岸に面した絶壁上に口があける。屈折点からは垂坑道を経て山頂に達し、また左折すれば10数㍍で絶壁上に開口する。」

 「洞窟は天然自然のものだから、狭いところは人ひとりがようやく通れるありさまで、天井からは無数の鍾乳洞が下がり、鉄帽なしでは油断すると頭にけがをする。」

 

 6月19日島田知事は荒井警察部長を伴って、牛島司令官を訪ね、「軍司令官と最後の行動をともにさせていただきたいので、この壕にいらせていただきたい」と申し入れたようです。「死」を決意した発言とみられます。

 

 しかし、牛島司令官からは「自決するのは我々だけでよろしい。知事は戦闘員ではないのですから、ここで死ぬ必要はありません」といわれ、知事と警察部長は牛島司令官の指示で「軍医部壕」に入りました。

 

 6月23日午前4時30分牛島・軍司令官と軍参謀長、経理部長の3人は、司令部壕の出入り口近くで自決。これによって組織的な戦闘はこれで終わりました

 

 

 

(再び)長田紀春の記憶

 貴重な情報があります。

 沖縄陸軍病院の軍医見習士官だった長田紀春の証言です。

 

 戦後のインタビューや著書によりますと、6月26日、長田・軍医見習士官は、軍医部壕を出て、与那原(よなばる)経由で本島北部の国頭(くにがみ)に向かいました。国頭には日本軍がまだ健在だと聞いたためです。その途中、闇の中を最初の村の明かりに向かって歩いている時、後ろから足音が聞こえてきました。頭に白い包帯を巻かれた荒井県警察部長を従えた知事でした。2人だけでした。

 知事が「長田軍医、お前はどうするつもりだ」と聞くので、「この先の明かりの見える部落を目指し、その先、国頭に行くつもりです」と答え、お誘いしましたが、「我々には我々の考えがあるから」ということでした。

 明かりに向かって知事と警察部長と途中まで歩いてから、私は水を飲むために崖を下って海岸まで降り、水を飲んだら眠ってしまいました。目を覚まして2人を追いかけましたが、知事らは部落に着いていませんでした。

 

 長田軍医見習士官は、「知念」にたどり着いたところで捕虜になりました。

 

 

田村洋三の取材

 田村洋三は元読売新聞記者で、ノンフィクション作家。2021年に90歳で死去。

 

 田村の著書によると、『山本初雄』(東京都・1994年死去)が島田知事の「最期」をみているかもしれません。

 場所は、摩文仁の丘の北東約3㌔の具志頭村(ぐしかみそん)の断崖の中腹の壕。時期は「7月」としか分かりません。

 

 当時、『山本初雄』は、第32軍直轄の独立機関銃第14大隊出村中隊山川小隊の分隊長で兵長。田村洋三は1980年に山本から聞いた話を以下のようにまとめています。

 

 「私(=山本初雄)は負傷して隊から離れ、1人で具志頭村玉城村(たまぐすくそん)あたりの自然洞窟に潜んでいた。地方人(=沖縄県民)が出て行ったあとの壕で食べ物を得ていた。その日(=特定できず)は具志頭の自分の入っている洞窟から玉城方向へ200㍍ほど歩いた。海のすぐ近くの自然壕に男2人、女1人の中年の地方人が入っていたが、その上の方、水際から50㍍の断崖の中腹に、入口の大きな横穴壕があったので、1人ではいってみた。男が1人、頭を奥にして横たわっていた。向こうから声を掛けてきて、『兵隊さん、知事です』といわれたように記憶している。そして枕もとの腰に下げるカバンのようなものから名刺を差し出した。暗くて字も読めないので、私は財布に入れた。その人は左大腿部を負傷しているらしく、『脚をやられました』と言っていた。そして『飯盒の中に黒砂糖があるから、持っていらっしゃい』といわれたので、3枚のうち2枚をもらって壕を出た。その翌日か翌々日、その人のところに行くため横穴に入ろうとしたら、下の壕にいた地方人3人が『知事さんは亡くなりましたよ』とはっきり言った。あとで聞いたが、その人たちは教師だといっていた。壕に入ってみると、あごの近くに小さな拳銃が落ちていて、耳の下から後ろにかけて血が流れていた。自決されたな、と思った。」(以上、要約)

 『山本』は翌年夏、米軍に投降しました。「知事」からもらった名刺は、米軍に財布ごと没収されたといいます。

 

 島田叡沖縄県知事の遺骨は、発見されていません。

 

 

【参考資料】

●「戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦」(防衛庁著・朝雲新聞社・1968年1月発行)

●「沖縄鉄血勤皇隊」(大田昌秀編著・高文研・2017年6月発行)

●「沖縄のこころ」(大田昌秀著・岩波新書。1972年8月発行)

●「沖縄決戦~高級参謀の手記~」(八原博通著・読売新聞社・1972年8月発行)

●「沖縄の島守~内務官僚かく戦えり~」(田村洋三著・中央公論新社・2003年4月発行)

 

その他

 

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