写真は、亡くなる2時間前にスクラムを組んでデモをする樺美智子さん(「人しれず微笑まん」から引用)
もくじ
- 「樺美智子」ってどういう人?(以下、敬称略)
- どうしてそんなことしたの?
- 国会突入の目的は「抗議の座り込み」
- 樺美智子の写真
- 亡くなった時の様子は?
- 島 成郎 の証言
- 榎本暢子の証言
- 読売新聞の本田靖春記者のルポ
- 「安保」はそれでどうなったの?
- 「衆議院南通用門」はいま
- 『アカシアの雨が止むとき』
- 【参考資料】
「樺美智子」ってどういう人?(以下、敬称略)
樺(かんば)美智子は、いまから60年以上も前の「60年安保(あんぽ)闘争」の時、学生デモに参加していて国会構内で死亡した東京大学の女子学生です。
抗議行動のため「衆議院南通用門」から国会構内に突入したとき、中にいた警官隊と衝突して亡くなりました。4年生で22歳でした。
樺美智子さんの死は社会に大きな影響を及ぼし、1ヶ月後に岸信介内閣は総辞職しています。
どうしてそんなことしたの?
1960年6月16日付「読売新聞」朝刊1面記事。
国会議事堂の構内に突入だなんて、なんでまたそんなことを?
背景にあったのは、日本とアメリカとの間で結んでいる『日米安全保障条約』の改定です。
日米安保(あんぽ)条約は戦後の1951年、日本が独立を回復した「サンフランシスコ平和条約」と一緒に調印され、翌1952年4月28日に発効した日米間の軍事条約です。
その内容は、日本を占領していた連合国軍のうち米軍が「在日米軍」として引き続き日本に駐留することができる、というものですが、米軍が日本を防衛する義務は条約に明記されていませんでした。
そこで当時の岸信介首相(=戦前の東條内閣の閣僚でA級戦犯容疑者)は、日本や在日米軍が攻撃された場合には、在日米軍と自衛隊が共同作戦をとる、というふうに改める「新安保条約」に1960年1月、ワシントンのホワイトハウスで「署名」しました。
「署名」は単に意思表示にすぎず、「内閣」が他国との間で条約を締結するには、「国会の承認」が必要です。しかし、国会での審議は荒れました。
新安保条約の締結に反対する社会党や共産党、総評(=日本労働組合総評議会)は「二度と戦争はしたくない」という強い思いを背景に、「アメリカが起こす戦争に日本が巻き込まれる危険が増す」として猛反発。全国各地で安保反対の街頭デモ行進を繰り広げました。
戦後間もなく結成された「全学連」(=全日本学生自治会総連合)も、共産党の影響下で街頭デモを行いました。
ところが、岸内閣が日米安保改定に動き始めたころから、共産党の東大細胞(=支部)を中心とした学生党員が共産党中央の指導に不満を抱き、1958年12月に共産党を離れて「共産主義者同盟」(略称:ブント)を結成し、全学連の主導権を握りました。
樺美智子も早い時期からブントに加わっていたのです。
国会突入の目的は「抗議の座り込み」
国会突入翌日の6月16日付「読売」朝刊1面記事。
5月19日に政府・自民党は衆議院日米安保特別委員会で、新安保条約の採決を強行。翌20日未明の衆議院本会議で質疑・討論の過程を省略して、新安保条約を「承認」しました。
憲法の規定で、衆議院で可決されれば参議院が「30日以内」に議決しない場合、条約は「自然成立」します。
岸内閣と自民党は条約の自然成立を狙って、衆議院に警官隊を導入して、議長室前や本会議場入口前の通路に座り込んで開会を阻止しようとしていた社会党議員や秘書をごぼう抜きにして排除。自民党だけで採決を強行しました。
これには傍観を決め込んでいた普通の人も怒りました。安保改定の中身や意味は理解できなくても、あまりに強引ではないか、と何らかの不安を覚えたようです。
この時から安保闘争の争点は、「民主主義を守ろう」という民主主義の問題に移りました。
連日、デモ隊が国会議事堂を包囲し、「アンポ、ハンタイ」というスローガンは「キシヲ、タオセ」に変わりました。
ブントが率いる全学連主流派が「国会構内での抗議の座り込み」という方針に基づいて国会構内になだれ込んだのは、6月15日でした。
樺美智子の写真
男子学生とスクラムを組んでデモ行進をする樺美智子の姿をとらえた上の写真は、『マドモアゼル』という小学館が発行していた女性向け雑誌に載った1枚です。
亡くなる2時間ほど前に、拒否されながらも強引に撮った写真です。
小学館の記者とカメラマンが6月15日午後3時すぎ、デモに伴走しながら「樺さん、写真を1枚、撮らせてください」と頼みます。しかし、「わたくし、こまるんです。写真を撮っていただいてはこまるんです」と断られます。
記者が、こうした行動で衆院を解散に追い込んで安保改定を阻止できると信じているのか問うと、「ハイ、信じています。わたくしはわたくしの信念に従って行動しているんです」と応じた樺美智子でした。
記者はその時のことを雑誌に「一瞬、あなたの声は強く張りつめて、その語尾は、泣くかのように震えていた。それ以上、もうどんな雑念にも惑わされたくないといった、静かにせっぱつまった声だった」と書いています。
午後6時ごろ、問題の南通用門あたりで記者は樺美智子の姿を見失ったといいます。
亡くなった時の様子は?
「6.15 国会南通用門」。(「三留理男・報告」から引用)
「学友に抱えられる・・・」(「友へ」から引用)。樺さん、無念だな。くやしい。
【NHK「映像の世紀」安保闘争・燃え盛った政治の季節】(2024年6月3日放送)から引用
島 成郎 の証言
島 成郎(しま しげお)は、1958年12月に「ブント」を立ち上げた人です。
安保闘争後の1964年に東大医学部を卒業し、精神科医になっています。
島は著書「ブント私史」に、以下のように書いています。長くなりますが、引用します。
「あらゆる手段を用いて国会構内に入り、無期限の坐りこみを勝ちとるとの方針のもと、大衆的には北小路敏(京大)全学連委員長代理(=当時、ブントに所属。のちの中核派最高幹部)をデモの総指揮に充て、他方、ブントを主力に特別行動組織を結成。これとは別に国会突入を可能にするための技術準備をひそかにすすめた。」
(中略)
「6月15日午後、国会へ。すでに労組だけでなく婦人団体、市民団体などのデモが周辺の道路を埋め尽くしている。国会の門はすべて閉ざされ、装甲車と警官隊でかたく守られている。生け垣の内側にも警官がびっしりと隊を組み、防衛している。」
(中略)
「2時、東大を先頭とする全学連のデモ隊が到着する。ひと際目立ったこの登場に、労組員や市民からどっと歓声がわき、激励の声援が飛び交う。正門前に結集した学生の姿も次第に増え、1万人を超える。」
「一足先に到着していた私は、国会を一周し、今日の突破口をどこにするかを考えていたが、正門は最も固く守らr停るのをみて、議員面会所に近い南通用門から構内に入ることを決め、全学連指導部に伝えた。」
「4時半、行動開始を宣言する北小路の指揮のもと、全学連のデモ隊は国会の周囲を2回まわったのち、午後5時、南通用門に集結する。労働者、市民の見守るなか、隊を組みなおし、明大、中大、東大らの最強部隊を先頭に、突入を開始する。」
「針金で固く縛り上げられていたカンヌキを次々と外す。門扉はついに押し倒された。しかし、今度は装甲車を並べ、阻止する。警官がその後から前進してくる。学生たちは舗道の敷石をはがし、応戦する。やがて警官隊は放水車から放水を始める。激しい圧力に学生たちは吹き飛ばされるが、怒った群衆は投石で応戦する。生命の危険を感じ、女子学生を後方にして隊を組み換え、突入を図る。はばんでいる車にロープが掛けられ、引き出される。石の門柱も倒される。ついに門は開かれた。スクラムを組んだデモ隊が構内に入る。」
「学生たちは集会を開いてすわりこみをしようとする。当時のデモ隊は、過激といわれた全学連でも、武器はおろか棒切れひとつ持たないまったく素手の集団だった。ある物はスクラムだけ。その目標も国会構内での集会・座り込みというささやかなものだったが、学生たちの背後で支援する何万の群衆によって国会を占拠されることを恐れたのか、7時すぎ、一斉に排除命令が出された。」
「背後に隠れていた警視庁最強の第四機動隊がこん棒を振りかざして学生たちに襲いかかる。頭が割られ、鮮血が飛び散る。倒れた者をさらに足蹴りにし、そのまま引きずって逮捕する。倒れる者が続出、まさに流血の惨事である。激しい抵抗にもかかわらず、ついに門の外に押し出される。この最中に樺美智子さんは殺されたのだ。」
(中略)
「ついに死者が出たことに、私の胸は深く震えた。この日の犠牲者。死者1名、重軽傷者712名、被逮捕者167名。」
上の写真は、「6.15 国会南通用門」(三留理男・報告」から引用)
榎本暢子の証言
榎本暢子は当時、東大文学部の学友。(のちの東大名誉教授)
榎本暢子は「人しれず微笑まん」に、自分が警官隊に殴られた時の様子を次のように書いています。
「午後5時ごろだったか、隊列を組みなおした時、『女子は危ないから抜けろ』と(東大)文学部委員長が命令した。その時私は『男子だって危ないわ』と言い、彼女(=樺美智子)は『せめてスラックスをはいた人間だけは例外にして』と頼んだ。その結果、先頭の文学部からは抜け、後ろの方の他学部に入った。(6列縦隊の)12、3列目だった。」
「私たちは国会構内で抗議集会を開こうとした。7時ごろ、トラックが引き出され、私たちは国会の中に入った。だが、先頭のスクラムは警官の放水で乱れてしまっており、さらに南門入口でトラックの袋小路のようなところに入って動けくなってしまった。その時、横からはみ出るように私の4、5列前から切れて、左の旧議会の建物の方に人波はどっと動いて行った。この中で私より2列前にいた樺さんも入っていた。だから、先頭でなかったはずの私たちは、トラックと建物の間をすり抜けてみると、まともに待ち伏せの警官隊にぶつかってしまったのだ。ウォーッと飛びかかって来た獣のような警官群。アッと思う間もなく頭をガンガン殴られ、必死に逃げようとしながらもボーッと気が遠くなってしまう私。周りの人がどうされているかなんて全然わからない。でも、「倒れちゃだめだ。死んじゃうぞ」と励ましてくれた人々の声を私は覚えている。樺さんはきっと、そんな人の手の届かぬ警官の群れに引きずり込まれて殺されたのだ。」
(以下、略)
読売新聞の本田靖春記者のルポ
6月16日付「読売」朝刊社会面。
以下は、のちに著名なノンフィクション作家となる本田靖春が、読売新聞社の社会部記者だった時の記事です。
「大蔵省から首相官邸に向かう坂道の地下鉄「国会議事堂前駅」手前、ここが衆議院南通用門。警察がバリケード代わりに置いたトラックを、学生たちがロープとクサリで引きずり出し、突破口を開いたのがちょうど15日午後7時だった。」
「これより前、5時すぎから始まった学生たちの❝攻撃❞に警官隊は終始、押され気味だった。ここの警官の配置は道路に面して5方面警察隊、トラックの後ろに4機動(=第4機動隊)と7方面警察隊。学生たちの投石による攻撃は、目の前に向かい合っている方警隊(=方面警察隊)ではなく、トラックの陰になってみえない4機動にばかり向けられた。」
「ここが微妙なところ。学生たちはデモのたびに顔を合わせて❝痛い目❞にあっているデモ専門の機動隊に、❝憎しみ❞を持ってはいるが、臨時にかり出されてきた混成部隊の❝方警隊❞には敵対感情はあまりない。裏を返せばそのまま、学生に対する機動隊の憎しみもまた強いということになる。とにかく4機動はひっきりなしに飛んでくる石で負傷者が続出、後退を余儀なくされた。そうした時、若い隊員が左目にこぶしほどの石を受け、バッタリ倒れた。これをみて❝チキショウ❞と歯を食いしばる隊員。デモのたびに同じ年ごろの若い学生から浴びせかけられる「税金ドロボウ」「ポリ公」などのば声に、憎しみがムクムクと頭をもたげたのだろう。それははっきりわかった。」
「午後7時、トラックが引き出されてポッカリ南門に口が開くと、元気づいた学生たちはそこを目指して殺到した。向かって右が4機動、左側が7方警。学生たちの先頭は門の内側10㍍くらいのところまで突き進んだ。警官隊はズルズルと後退。しばらくの間、奇妙なすき間(約30㍍)ができて警官と学生が対立した。」
「この時、左手を受け持つ7方警はおじけついたかのように❝敵❞を前にして50㍍ほど下がった。この時だった。4機動の3、4人が『下がるヤツがあるか』『突っ込め、突っ込め』『方警のバカヤロウ』と口々に怒鳴りながら突進した。」
「❝泣く子も黙る4機動❞と異名をとる彼らは確かに❝精鋭部隊❞なのだ。これがダイナマイトの導火線となった。『ワーッ』と歓声を上げて❝突撃❞に移ったこの数人につられたように、ほかの隊員が、そして方警隊が続いた。あとは警棒の雨。『やっちまえ』。キチガイじみた、こんな怒声まで飛んで、警棒の雨はまたたく間に血の雨となった。」
「もとはといえば、胸の底にわだかまるひと握りの憎しみ。それを吐き出すにしてはあまりに大きいギセイではなかったのか。ましてこんなことで憎しみが晴れるわけでもないだろうに。」
(以下、略)
写真は、国会南通用門の前につくられた祭壇。(「友へ」から引用)
「6.18.国会南通用門前」((三留理男・報告」から引用)
樺家のお墓には、樺美智子が東大入学前(1956年)に書いた詩が刻まれています。
「最後に」
誰かが私を笑っている
向こうでもこっちでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々(おのおの)の道を行くだろう
よく云うじゃないか
「最後に笑うものが
最もよく笑うものだ」と
でも私は
いつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されるものなら
最後に
人知れず ほほえみたいものだ
「安保」はそれでどうなったの?
写真は、東大文学部国史学科の仲間。(「人しれず微笑まん」から引用)
新安保条約は、参議院の議決がないまま6月19日午前零時、自然成立しました。
改定された安保条約が発効した6月23日、岸内閣は混乱を収拾するため責任をとる形で総辞職を表明。7月15日に総辞職しました。
岸内閣が総辞職すると、安保闘争は急速に退潮しました。
「衆議院南通用門」はいま
現在の「国会南門」。
樺美智子ら全学連が突入した「衆議院南通用門」は、いまはありません。
国会議事堂の構内にはいま、議員や高級官僚の車が出入りする「国会南門」がありますが、「衆議院南通用門」はここではありません。
60年安保闘争が終わってから国会周辺が整備されました。かつての「衆議院南通用門」は、地下鉄「国会議事堂駅前」の地上出口付近にあったそうです。
『アカシアの雨が止むとき』
「樺さんが亡くなって間もなく、西田佐知子が歌う『アカシアの雨が止むとき』が彼女にささげるレクイエムだったのか、口ずさむ人が多くなった」。
当時、衆議院南通用門付近で取材していたTBSカメラマンの青木徹郎氏は、日本記者クラブ会報(特別企画「60年安保」)にそう書いています。
歌詞は投げやりで虚脱感に満ちたもの。体制の壁にぶつかって砕け、疲れ切った学生らの心にしみたようです。
【アカシアの雨がやむとき】
作詞:水木かおる
作曲:藤原秀行
①
アカシアの雨にうたれて
このまま死んで しまいたい
夜が明ける 日がのぼる
朝の光の その中で
冷たくなった わたしを見つけて
あの人は
涙を流して くれるでしょうか
②
アカシアの雨に泣いている
切ない胸は わかるまい
思い出の ペンダント
白い真珠の この肌で
さびしく今日も あたためてるのに
あの人は
冷たい眼をして どこかへ消えた
③
アカシアの雨が やむ時
青空さして ハトが飛ぶ
むらさきの はねの色
それはベンチの 片隅で
冷たくなった わたしのぬけがら
あの人を
さがして遙かに 飛び立つ影よ
【参考資料】
●「樺美智子 聖少女伝説」(江刺明子著・文藝春秋・2010年5月発行)
●「人しれず微笑まん~樺美智子遺稿集~」(樺光子編・三一書房・1960年10月発行)
●「友へ~樺美智子の手紙~」(樺光子編・三一書房・1969年7月発行)
●「ブント私史」(島成郎+島ひろ子・批評社・2010年6月新装改訂版発行)
●「三留理男報告1―安保・沖縄・大学―」(太平出版社発行・1971年6月発行)