北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスに登っていたころの記録、国内外の旅行、反戦平和への思いなどを備忘録として載せています。

ゾルゲ(日本で活動したスパイ)~多磨霊園に眠る著名人①

 東京都立多磨霊園府中市)には、歴史の教科書やテレビ番組に出てきた有名な人がおおぜい眠っています。

 それぞれの方がどのような生き方をされたのか、リアルに感じたくなって「お墓」を訪ね、いろいろ調べてみました。

 

 まずは、ゾルゲ。

 

もくじ

 

 

ゾルゲ」って何者?

ウィキペディアから引用)

 

 「ゾルゲ」は旧ソ連スパイです。

 

 昔、日本軍が中国の東北部で満州事変(1931年)を引き起こして満州全域を占領したころから太平洋戦争(1941年12月~1945年8月)が始まる直前までの間、日本でスパイ活動した人物です。

 

 日本と仲の良いドイツから来た「新聞社の特派員」を装って、①1941年6月の「ドイツとソ連の戦争開始」②太平洋戦争を始める直前の日本の動き――について、政府や在日大使館の機密情報モスクワのソ連軍に流した男です。

 

 フルネームは、リヒャルト・ゾルゲ。生まれはロシア。父はドイツ人、母はロシア人で、国籍はドイツ。

 ゾルゲが3歳の時、一家はロシアからドイツに移住しました。

 

 ゾルゲは1917年のロシア革命に感銘を受けてドイツ共産党員になり、1922年に「ソ連」という社会主義国画成立してからは、ソ連赤軍参謀本部に所属して外国でスパイ活動をするようになりました。

 

 

 

日本でスパイ活動をした

 ゾルゲが日本に来たのは、1933年です。

 ソ連赤軍の指示で、日本がこの先どんな軍事行動をするのか探ることが目的です。

 ソ連は当時、ヒトラーが率いるナチス・ドイツの脅威に直面しており、日本軍が「北進」してソ連を攻撃してくるのか、それとも「南進」して東南アジアに攻め入るのかが死活問題でした。

 

 ゾルゲは情報収集をしていても怪しまれないように「新聞記者」を装うことにし、日本への入国に先立ち、ドイツで『テークリッヒェ・ルントシャウ』と『ベルゼン・ツァイトゥンク』という2つの新聞社との間で、日本から記事を送る契約をしました。

 

 日本に着いてからのゾルゲの最初の仕事は、「在日ドイツ大使館」接触すること。ひんぱんに大使館に出入りしてオットー駐日大使に取り入りました。

 同時にスパイのネットワークを築きました。一番大事な仲間は、朝日新聞記者だった尾崎秀実(ほつみ)。中国問題に詳しく、近衛文麿内閣のブレーンでもありました。

 ゾルゲは8年間にわたって極秘情報を入手し、東京・麻布の自宅から無線機赤軍に通報していました。そして――

 

 1941年10月に治安維持法違反、国防保安法違反などで逮捕されました。

 

 

 

スパイ・ゾルゲの2つの功績

 ゾルゲの功績は2つある、とゾルゲ研究者は口をそろえます。

 

 1つはナチス・ドイツソ連との戦争、いわゆる「独ソ戦」の開戦をめぐる諜報活動です。

 

 1941年6月に、ドイツがソ連との間で2年前に締結していた独ソ不可侵条約を一方的に破ってソ連奇襲を掛けました。

 

 ゾルソ連が奇襲を受ける半年前に、ドイツがソ連に戦争を仕掛けそうだという情報を駐日ドイツ大使から得ており、開戦予定日まで入れてモスクワの赤軍に知らせました。

 

 ところが電文を受け取った赤軍幹部は「疑わしい情報。挑発のための電報のリストに入れるように」というコメントを電文に手書きし、スターリンもこの情報を無視しました。

 ゾルゲは赤軍幹部から「ドイツとの二重スパイではないか」と疑われていたことが、先ごろ公開された機密扱いの文書から読み取れるそうです。

 結果的に独ソ戦の緒戦で、ソ連はダメージを受けました。

 

 もう1つの功績は、独ソ戦が始まった直後の1941年7月2日に開かれた御前会議の内容。

 天皇が出席したこの御前会議で、日本は「国策」として「南部フランス領インドシナ」(現在のベトナムラオスカンボジア)への進駐を決定し、あわせて独ソ戦の形勢が日本に有利になれば参戦する、という方針も決めました。

 

 ゾルゲは御前会議の内容を元朝日新聞記者で近衛文麿内閣の嘱託になっていた尾崎秀実から入手して、「日本軍がソ連を攻める可能性は低い」という電報をスターリンに送りました。

 

 ソ連としては、日本が満州ソ連の国境を越えて北進し、ナチス・ドイツと連携して挟み撃ちにされる事態は避けたかったはず。

 今度はスターリンゾルゲからの「ソ連を攻撃してこない」という情報を信じ、シベリアに配置していたソ連軍20個師団を西部戦線での独ソ戦に移動させることができました。

 これによってナチス・ドイツのモスクワへの侵攻を防ぐことができた、とされています。

 

 

「墓」が日本にあるわけは?

 ゾルゲは1941年10月18日朝、自宅で特高外事課と検察に逮捕されました。そしてスパイの仲間とともに起訴され、判決は死刑。

 1944年11月7日ロシア革命記念日に、巣鴨東京拘置所で尾崎秀実とともに死刑が執行されました。

 

 処刑後、ゾルゲの遺体は引き取り手のない無縁仏として、近くの雑司ヶ谷霊園の共同墓地に埋葬されました。

 

 

 

なぜ多磨霊園ゾルゲのお墓が?

 多磨霊園の一般墓地の一角に、ゾルゲの墓があります。(上の写真)

 

 墓碑にはロシア語で、ソ連邦英雄 リヒャルト・ゾルゲと刻まれています。旧ソ連での最高の英雄の称号です。

 その下には、「妻 石井花子」と書かれています。

 

 なぜここにゾルゲが眠っているのでしょう・・・

 多磨霊園に埋葬された裏には、内縁の妻だった石井花子の働きがありました。

 

 石井花子は戦後の1948年秋、書店でゾルゲ事件を特集した雑誌を発見し購入。その記事の中に、ゾルゲが雑司ヶ谷の墓地に土葬されていると知りました。

 懸命に遺体を探す花子に同情した墓地管理人が1年後、埋葬場所を教えてくれたのです。花子は白骨化した遺体を発掘し、火葬しました。

 

 その後、出版したゾルゲの回想録で得た印税をもとに、多磨霊園に墓地を確保。

 1950年11月に多磨霊園に改葬しました。現在ある墓碑を建立したのは1956年11月のことです。

 

 石井花子は東京・銀座にあったドイツ人経営のバー「ラインゴールド」のホステスをしていた時にゾルゲに出会い、親しくなったとのことです。

 

  墓碑の左側側面には、「平成十二年七月一日歿 石井花子 八十九歳」と刻まれています。石井花子が2000年に亡くなったのち、ゾルゲのそばに埋葬されたようです。

 

 ゾルゲの墓の両脇には、記念碑が建っています。向かて右には「戦争に反対し世界平和の為に 生命を捧げた勇士ここに眠る」と刻まれています。

 

 

 反対側には、「ゾルゲとその同志たち」と書かれた碑が建ち、11人の名前と亡くなった日付などが刻まれています。

 

 

ゾルゲはいま、ロシアの英雄!?

 スターリンをはじめとしてソ連の指導部は長い間、ゾルゲによる諜報活動に「無関係」を装ってきましたが、20年後の1964年9月になってゾルゲの名誉を回復し、ソ連邦英雄」という称号をゾルゲに与えました

 

 それ以降、駐日大使が赴任した際には必ずゾルゲの墓に参るのが慣例になり、ソ連崩壊後もロシアの大使が訪れているそうです。

 また、「11月7日」の命日にはロシア大使館員らが墓参りに来ているとのことです。

 

 

ロシア大使館ゾルゲの墓を管理

 ゾルゲの墓は2020年秋、在日ロシア大使館使用権を得ました。

 石井花子の死後、墓の世話をしていた親族が亡くなる前に、遺言書にロシア大使館に世話をゆだねる旨の記載があったという話です。

 

 

あのプーチンゾルゲにあこがれた!

 いまもウクライナ侵略を続行しているロシアの大統領プーチンは、元KGBソ連国家保安委員会)のスパイでした。

 そのプーチンは68歳の誕生日の2020年10月、国営のタス通信社のインタビューで「高校生の時、私はゾルゲのようになりたかった」と打ち明けました。

 

 真意はなんでしょう。

 

 

参考

●「ゾルゲ事件とは何か」(チャルマーズ・ジョンソン著、岩波現代文庫、2013年9月発行)

●「ゾルゲ事件」(加藤哲郎著、平凡社新書、2014年3月発行)

●ウィキペリア・フリー百科事典

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