「タカハシコレキヨ」といわれても、何をした人か、よくわかりませんね。
≪財政≫に詳しかった昔の政治家で、大蔵大臣を7回、総理大臣を1回務めました。
1936年(昭和11年)2月26日の【二・二六事件(にいにいろくじけん)】で暗殺された1人、と言った方が分かりやすいかもしれません。
きょうはたまたま「2月26日」。88年前の「2月26日」、東京はその3日前に積雪36センチという大雪が降ったために、雪が10センチ以上、残っていたそうです。
【二・二六事件と高橋是清】の関係について、大雑把に整理しました。
目次
二・二六事件とは?
決起した青年将校の1人が兵に訓示。(写真は、ウィキペディアから引用)
中国東北部の「満州」で、日本陸軍が中国軍に戦争を仕掛けた「満州事変」の5年後の1936年のことですが、陸軍の若い将校約20人が、部隊を率いてクーデターを起こし、「天皇側近の重臣たち」を暗殺しました。これが二・二六事件です。
大尉、中尉、少尉といった青年将校が、事情を知らない陸軍歩兵第一連隊、第三連隊、近衛歩兵第三連隊の下士官・兵約1400人を率いて、東京・永田町の官庁街一帯を占拠しました。
続いて政府要人の邸宅などを襲撃し、高橋是清(これきよ)蔵相、齋藤實(さいとうまこと)内大臣、渡辺錠太郎(じょうたろう)陸軍教育総監らを殺害。
さらには首相官邸も襲撃して、岡田啓介首相の義弟を首相と誤って射殺。鈴木貫太郎(かんたろう)侍従長にも重傷を負わせました。
背景に東北地方の「貧困」
東京・永田町の料亭「幸楽」前で銃を構える兵士たち。(ウィキペディアより)
なぜ青年将校たちは決起したのか?
背景には、1929年に始まった世界恐慌がありました。アメリカのウォール街にあるニューヨーク株式取引所で、株価が暴落して不景気になり、日本も影響を受けたのです。
「昭和恐慌」ともいわれますが、都市部では企業が倒産して失業者があふれました。農村でも人々の暮らしが影響を受けました。
日本の輸出品の中で大きな割合を占めていたアメリカ向けの生糸の輸出価格が下落し、生糸の原料の「まゆ」の価格が暴落して養蚕農家は打撃を受けたのです。
続いて1931年は米が凶作。農家はたくわえの米を食い尽くし、学校に弁当を持参できない欠食児童(けっしょくじどう)が出ました。
東北地方では、家が貧しいために、女郎屋(=売春宿)に「娘の身売り」をする農家が相次ぎました。
陸軍の若いエリート将校たちは、徴兵で農村から軍隊に入ってくる兵と接触するなかで、農村の窮状を知ったのです。
青年将校たちは、農村に貧困をもたらしているのは財閥と癒着(ゆちゃく)して何も手を打たない天皇の側近たちであり、そうした『君側の奸(くんそくのかん)』を取り除いて、天皇中心の国家に日本をつくりかえようと考えたのです。
決起後、彼らは【決起趣意書】を陸軍首脳らに配り、その中に重臣を暗殺する理由を書いています。
現代文に要約しますと――
「日本は天皇中心の国家である。ところが近ごろは、天皇の尊厳を軽視し、私利私欲からせん越なふるまいをする者が次々と現れた。全国民が成長していくのを妨げ、泥水にまみれ炭火で焼かれるような苦しみを与え、その結果、外国から侮られ、侵略が日に日にひどくなっている。この元凶は、元老、重臣、軍閥、官僚、政党などで、国体を破壊している。天皇のおそばにいる悪い大臣や軍の上層部にはびこる悪党を切り殺す仕事は、我々の任務だ。
陸軍歩兵大尉 野中四郎 ほか同志一同」
貧困にあえぐ庶民のために、天皇のそばにいる悪い奴らを斬る、というわけですね。
軍部を批判して憎まれた高橋是清
高橋是清が殺された部屋。
では、なぜ高橋是清が狙われたのか――。
蔵相・高橋是清は、1936年度(昭和11年度)の政府予算編成にあたって、軍事費の拡大を要求する陸・海軍省と衝突します。
高橋はインフレーションになることを警戒して、歳出削減に取り組み、陸・海軍省の予算削減と国債発行の減額を唱えました。
第1回予算編成閣議で、「ただ国防のみに専念して、悪性インフレを引き起こし、財政上の信用を破壊するごときことがあっては、国防も決して安固とはなりえない」と発言しました。
さらに、予算編成に関する最後の閣議には「世界地図」を持って臨み、ソ連と戦争しても勝ち目はないとして次のように述べます。
「国防というのは、攻め込まれないように守るに足るだけでよいのだ。だいた、軍部は常識に欠けている。(陸軍幼年学校のように)社会と隔離して特殊の教育をするということは、障害者をつくることだ。陸軍ではこの教育を受けた者が嫡流(ちゃくりゅう)とされ、幹部となるのだから常識を欠くのは当然で、その常識を欠いた幹部が政治にまでクチバシを入れるというのは言語道断、国家の災いというべきである。」
こうした歯に衣着せぬ軍部批判発言が新聞に載り、陸軍の青年将校の間で高橋是清への「憎しみ」が募ったのかもしれない。この一件が二・二六事件での惨殺につながったのではないか、と言われています。
『天皇のひとこと』で鎮圧に
決起部隊の栗原安秀中尉(=中央のマント姿)と下士官・兵。(ウィキペディアより)
昭和天皇は、決起部隊を『反乱軍』と認定しました。そして侍従武官長の本庄繁大将に、次のように指示しました。
「朕(ちん=天皇)が股肱(ここう=腹心の部下)の老臣を殺戮(さつりく)す、かくのごとき凶暴の将兵らは、その精神においても何のゆるすべきものありや」
「朕がもっとも信頼せる老臣をことごとく斃す(たおす)は、真綿にて朕が首を絞めるにひとしき行為なり」
さらに、侍従武官長が鎮圧になかなか動かないとみると、
「朕自ら(みずから)、近衛師団を率い、これが鎮定に当たらん」と言ったほど、激怒したらしい。
青年将校たちは、4日で鎮圧されました。
中心となった将校らの扱いは、非公開の特別軍法会議で審理され、17人に死刑(このほかに2人が自決)が言い渡されました。
高橋是清の屋敷
明治35年(1902年)に建築された住まいの一部は、今も残っています。
二・二六事件当時は、高橋邸は現在の港区赤坂7丁目にありました。
いまは、東京都が小金井市に1933年に開設した「江戸東京たてもの園」に、一部が移築・復元されています。
多磨霊園にある墓。
【参考資料】
●「恐慌に立ち向かった男 高橋是清」(松元崇著、中公文庫、2012年2月発行)