北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスに登っていたころの写真記録、国内外の旅行、反戦平和への思いなどを備忘録として載せています。

驚愕の「松代大本営地下壕」!天皇御座所の謎にも迫る!

天皇が住む「天皇御座所」に予定されていた建物。(2023年10月22日撮影)

 

 

 長野市松代町にある戦争遺跡、「松代大本営地下壕」(まつしろだいほんえいちかごう)を2023年10月22日、勤め先のOB会19人で見学しました。

 

 

 

 

目次

 

 

 

★★★見学の写真★★★

「松代大本営地下壕」ってなに?

 

 「松代大本営地下壕」はアジア太平洋戦争の末期に、旧陸軍が本土決戦を見据えて天皇をここに移し、本土に上陸してきた米軍と戦おうとした最後の砦です。洞窟です。

 

 陸軍が独断で計画したものですが、天皇終戦2週間前の7月末には、天皇制を維持する「国体護持」のために、皇居の移転を決意したのです。

 その直後に広島・長崎への米軍による原爆投下があり、「終戦」を迎えたため実現はしませんでした。

 

 

 松代大本営地下壕舞鶴山(まいづるやま)」「象山(ぞうざん)」「皆神山(みなかみやま)」という3つの山に、碁盤の目のように掘られた地下壕の総称です。

 戦争が終わるまでにできた地下壕の総延長は、およそ10キロ

 1944年11月11日から1945年8月15日まで、長野県民や朝鮮人を大勢動員して全工程の8割ほど完成したそうですが、使われる前に敗戦となりました。

 

 当時、陸軍や政府はこの地下壕に戦闘の指揮所や天皇の住居(=皇居)を移し、「沖縄戦」のように米軍と東京などで地上戦をしようとしたのです。国民の命は二の次にして、です

 「平和」を考える際の貴重な戦争遺跡です。

 

 私が見学したのは、長野市が管理している「象山地下壕」のうち1989年から一般公開されている地下壕の中と、舞鶴山」にある天皇御座所(ござしょ)という天皇の住居予定地です。

 

 

 

入ったのは「象山地下壕」

 上の案内図の左上が入り口「青色の線」が見学ルート。

 

 3つある地下壕のうち、壕の中に入ることができるのは「象山地下壕」だけです。

 500メートルほどの距離で、往復で約1キロ。所要時間は大人が自然に歩入れ30分から40分ぐらい。

 観覧は無料です。

 

 受付。

 係のおじさんに地下壕に入る人数と、どこの地方自治体から来たのかを告げ、長野市が作ったパンフレットを人数分受け取ります。

 

 象山地下壕を、上空から見下ろした「鳥瞰図」。 

 

 ここが地下壕の入り口。

 

 頭を打たないようにヘルメットをかぶって入ります。

 

 象山地下壕は、東西に壕が20本、それをつなぐ連絡坑が数本掘られて碁盤の目のように造られています。総延長は5845メートルだそうです。

 

 

中央省庁・NHK・NTTが移転してくる予定だった「象山地下壕」

 この壕に入る予定だったのは、東京にある中央省庁のうちの一部と、NHK、それに中央電話局(現在のNTT)。

 壕の広さは、幅が4メートル、高さは3メートル弱。

 幅4メートルのうち3メートル部分を区切って部屋を造り、残り1メートルを通路にする計画でした。

 敗戦時に壊されていて、いまは岩盤だけ見えます。

 

 入口は狭く、緩やかな下り坂になっています。

 

 車いすの方も見学できるように工夫されていました。

 

 荒々しい岩肌。

 

 入口から70メートルほど進んでから、90度、右に曲がります。

 すると前方から明かりが差し込んでいるのが分かります。明かりの位置までは通行禁止で行けませんが、朝鮮人労働者の飯場(はんば)が建っていたそうです。

 

 写真の金属棒は、削岩機の「ロッド」と呼ばれる部分で、岩に突き刺さったまま。

 削岩機は岩に穴をあける機械。回転する「ロッド」という鉄棒が付いていて、岩にあいた穴にダイナマイトを仕掛けて岩を砕きました。その時に抜けなくなった「ロッド」の1つだそうです。

 

 地下壕には投光器が10ヶ所にセットされていて、立ち入り禁止になっている地下壕の奥も、ある程度のぞくことができました。

 

 案内版。ここで左折し、図の上の方に進みます。

 

 「木片」。

 

 地下壕を掘った当時は、裸電球をぶら下げていたらしい。

 

 

 さらに進むと、写真パネルが掲げられていました。非公開部分の岩に落書きされている「絵」や「文字」です。

 

 なにかの絵ですかね。人の顔のようにも見えます。

 

 こちらは「大邱(テグ)」と「大邱府」と読めます。

 

 非公開部分は、金網で封鎖されています。

 

 トロッコの枕木の跡。

 

 地下壕を掘ってできた石くずは、トロッコに乗せて外まで運び出しますが、そのために敷いたレールを固定する「枕木」の跡と思われます

 

 

 上の図は、削岩工事のすすめ方。(「新版 ガイドブック松代大本営」から引用)。

 

 

 公開部分の終点。金網でふさがれていました。

 

 天井には「測点跡」というプレートが垂れ下がっています。

 プレートの隣に黒っぽい塊が見えますが、これは「杭」。この杭の先にくぎを打ち、重りをぶら下げて測量していたようです。

 

 

 行き止まりまで来ましたので、折り返します。

 

 行き止まりの金網の奥です。

 

 記念撮影。

 

 象山地下壕の出入り口に戻ってきました。

 

 

 

 

大本営陸軍部」の地下壕も外から見た

 

 次の見学先の「舞鶴山地下壕」は、天皇御座所大本営陸軍部(=実態は陸軍参謀本部)の予定地でした。

 

 「象山地下壕」から歩いて20~30分の位置。駐車場もあります。

(上2枚は、グーグルアースから引用)

 

 上の図の、網の目が大本営陸軍部の地下壕

 

 大本営陸軍部(陸軍参謀本部)の地下壕は、舞鶴に掘られました。案内板には「大坑道」と書かれています。写真は入口。

 

 壕の入り口はコンクリートの枠で固められていました。現在は気象庁の施設になっています。

 

 鉄の扉の奥は「舞鶴山」の地下。南北に100mから150メートルの坑道が5本、東西に連絡坑が数本掘られました。

 地下壕の幅は4メートル、高さ3メートル弱で、半円形のトンネル。コンクリートを巻き上げるために使った木の板が、終戦当時残っていたそうです。

 ここも間仕切りして「作戦室」はじめ事務室にする計画だったようです。

 

 

 大本営の地下壕の中。コンクリート製。

 岩がむき出しの「象山地下壕」とは違います。「軍」を「中央省庁」より優遇したのでしょうか。

(写真は、「改訂版 松代大本営 歴史の証言」から引用)

 

 

 現在「大坑道」と呼ばれている大本営地下壕には、気象庁地震計が置かれていますが、天井は半円形のコンクリート造りだったことが分かります。

(「新版 ガイドブック 松代大本営」から引用)

 

 

天皇御座所」予定の建物へ

 上の案内図の「右端」が駐車場。そこから左に細い道を歩いていくと突き当りが天皇御座所予定地で、コンクリートの建物があります。

 

 駐車場。バスを2台ほど止めることができる広さです。トイレもあります。

 

 天皇御座所は、大本営地下壕入口から緩やかな坂道を数分上ったところにありました。

 

 緑色のフェンスの右奥が天皇御座所予定地。

 山腹をL字形に掘り、そこに横に細長い鉄筋コンクリート造り平屋建て、面積457㍍の建物をはめ込んだ格好です。南から光が入る構造。

 屋根の部分の厚さは、80センチから1メートルという強固なもの。その上には土が盛られ、山腹から地続きのように見せ、なおその上を草木でカムフラージュしました。

 上空からだと山と見間違えるようにしていました

 建物の外観は、壁の化粧を除けばほぼ原形に近いそうです。

 

 建物の前の説明板。

 

 見学者は建物の内部には入ることはできません。

 

 でも、外から窓越しに中をのぞくことはできます。

 見学者のために、足場も置かれていました。

 

 天皇の寝室に予定されていた和室。

 (「改訂版 松代大本営 歴史の証言」から引用)

 

 「掛け軸」が外からチラリと見えました。(当時のものではありませんが。)

 

 天皇御座所の建物の間取りは、東(向かって右手)から倉庫、二間続きの和室。和室の1つには 押入と床の間があり、天皇の寝室に予定されていました。天井版は秋田杉を砂で磨いて木目を出したものでした。

 

 和室の西隣(左側)は洋間の書斎、その隣が拝謁(はいえつ)の間。次が皇后の居室(皇后御座所)に予定されていた隣の建物への階段と、侍従や武官の詰め所が造られました。

 

 天皇御座所の隣の「皇后御座所の建物。(案内板では「2号庁舎」)

 

 「皇后御座所」の建物の前の説明板。

 

 

 写真の右の建物が天皇御座所左の建物が皇后御座所

(「改訂版 松代大本営 歴史の証言」から引用)

 

 

天皇御座所は地下壕の中にも造られた

 上の図のように、天皇御座所」と「皇后御座所」の横に地下壕が掘られ、「地下御座所」が用意されました

(「改訂版 松代大本営 歴史の証言」から引用)

 

 天皇・皇后の地下御座所となる地下壕(上の図を参照)は、陸軍の計画では、その先の大本営地下壕につなげることになっていたようです。

 

 

(「新版 ガイドブック 松代大本営」から引用)

 

 「地下御座所」は、天皇と皇后がいざという時に退避する地下壕です。舞鶴山の山頂から約60メートルという深い地下に造られました。

 地上の天皇の住む予定の御座所から急な階段を下りると、途中で皇后の住居の御座所からの地下道と合流し、「地下御座所」に通じます。

 

 地下御座所は「半円形のトンネル」で、天井の一番高いところが4.5メートル、幅9メートル、長さ45メートル、床面積は約400平方メートル。

 トンネルの内側はコンクリートで覆い、さらにヒノキ材や白しっくいを使って天井や壁の内装をし、玉座(ぎょくざ)」浴室、会議室など5、6室に区切られました。

 



 

 

「改訂版 松代大本営 歴史の証言」からの引用。

 

 

 ◆     ◆     ◆

★★★歴史の解説★★★

大本営」とは何ですか?

 『大本営発表』という言葉は、現代では「ウソまみれの発表」の代名詞になっていますが、その語源になった「大本営」とはなんでしょう。

 

 大本営は、戦争や事変の時に、天皇を補佐するために皇居内に設置される日本軍の最高統帥機関です。

 軍の最高指揮官の天皇」のもとに大本営陸軍部と大本営海軍部とが置かれました。

 実質的には、陸軍参謀本部大本営陸軍部を、海軍軍令部が大本営海軍部を構成しました。

 

 

地下壕を掘った目的は「本土決戦」への備えでした

 宮中に置かれていた大本営の移転を考えたのは陸軍省軍事課にいた若手の将校、井田正孝少佐(=翌年、中佐に進級)です。

 

 日本本土への空襲が近いうちにあるだろうが、戦争を指導する大本営の機能が空襲でマヒするのはまずいと考え、1944年の1月か2月(当人の記憶が不鮮明)に陸軍次官にじかに持ち込みました。直属の上司の軍事課長などを通そうとするとつぶされる、と読んだからです。

 その時、陸軍次官の返事は「考えておこう」でした。

 (注:井田少佐は1945年8月15日に降伏阻止を叫んで近衛第一師団長を殺害し、皇居を占拠した『宮城(きゅうじょう」)事件』の将校の1人)

 

 1944年5月初めか中旬、井田少佐は陸軍次官に呼ばれ「信州あたりが適地だと思うから、出かけて探してみてくれ。これは極秘の特命だ」と指示を受けました。

 井田少佐は親友ら2人に同行を求めて3人で背広姿で長野県内をまわり、「松代」を候補地に選んで次官に報告しました。

 時の陸相兼首相の東條英機は、大本営のほかに天皇の住まいとなる「仮の皇居」(御座所)と中央省庁の一部をセットで収容するという井田の案を許可。東条内閣を継いだ小磯国昭内閣の杉山元陸相建設を命令しました。

 

 そして1944年11月11日午前11時に「舞鶴山の大本営予定地」で地下壕建設のための最初の発破がかけられました。

 「11月11日午前11時」は「一生忘れないため記憶しやすい数字にした」という証言があります。

 

 この松代大本営地下壕の工事は「松代倉庫」と公称され、実際は「大本営陸軍部」の地下壕であることは極秘とされました。

 

 地下壕の建設は、3つの山で行われました。舞鶴山(まいづるやま)、象山(ぞうざん)、皆神山(みなかみやま)です。

 

 舞鶴山地下壕は、大本営陸軍部、天皇・皇后御座所、宮内省

 象山地下壕は中央省庁の一部、NHK、中央電話局(現NTT)

 皆神山地下壕は食糧庫

 

 1945年に入って「最高戦争指導会議」は1月18日、「今後とるべき戦争指導大綱」を決定し、米軍が日本本土に侵攻してきた場合には本土を「戦場」にするという「本土決戦」構想を明文化しました。

 「最高戦争指導会議」のメンバーは、首相、外相、陸相海相と、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長の6人です。

 

 「本土決戦」という方針が明確になったことで、松代大本営地下壕の建設目的も、1944年11月の着工当時の「空襲を避けて大本営を安全な場所に移す」から「本土決戦の指揮を執る場所」に質が変化しました。

 着工以来、象山の地下を中心に掘削してきましたが、1945年3月23日から舞鶴山で大本営の地下壕建設と天皇御座所造りを急ぐことになったのです。

 

 

地下壕はだれが掘ったのですか?

 地下壕の建設を始めた時期は1944年11月11日ですが、陸軍は1ヵ月前の10月、地下壕掘削作業に当たる労働者の「飯場(はんば)」という仮設の宿舎を建てるため土地の買収をしました。

 そして山林や水田を整地して、終戦までに約300棟の飯場を建てました。

 地下壕建設は極秘にされ、「松代倉庫」という名称で工事が行われました。

 

 地下壕を造る工事は当初、西松組(=現在の西松建設)が請け負うことになりました。のちに鹿島組(=現在の鹿島建設)も加わり、鹿島組が天皇御座所の地上施設と付属の地下施設を請け負っています。

 

 たくさんの日本人と朝鮮人が働きました。1日に1万人が働いたといわれています。

 このうち日本人は、地元長野県北部の警防団などで編成された勤労報国隊中等学校生徒国民学校児童、それに軍人ら合わせて1日約3000人といわれます。

 

 作業の中心になったのは朝鮮人でした。資料は残っておらず推定で7000人前後と言われています。

 朝鮮人労働者には2つの境遇がありました。

 1つは、日本の植民地になったことによって土地を奪われて生活が苦しくなり、「日本に行けば仕事があるらしい」と知人から聞いて来日し、岩手県のダム工事など各地の建設・土木現場から松代に集結した「自主渡航組」。

 と、日本の植民地になっていた朝鮮半島朝鮮総督府によって強制的に徴用された朝鮮人で、海を渡って富山に上陸して松代に連行されてきた青年たちです。

 戦時中、日本政府は労働力を補うために「国民徴用令」を発令して国民を強制的に軍需工場に動員しましたが、朝鮮人にもこれを適用して日本に強制連行したのです。

 

 

 

住民の強制立ち退きもありました

 1944年11月に着工した地下壕工事ですが、4ヶ月後の1945年3月に転機が来ました。

 敗戦色が濃厚になって軍部が「本土決戦」の作戦計画をはっきりと決めたのです。

 

 1945年3月23日、陸相の名で「天皇御座所」を建設する工事の施工命令が出ました。

 問題は、天皇御座所の予定地に集落があったことです。機密保持のために住民を立ち退かせることになりました。

 対象は109戸、124世帯。建物や庭木、庭石は現状のまま陸軍に買収され、それまで住んでいた人は知り合いの家や近所の農家の離れや蚕室に身を寄せました。

 

 

天皇が乗る「装甲車」も陸軍が準備していた!

 驚くことに、陸軍は天皇一家はじめ皇族を松代に移すのに使う車両として特別仕立ての装甲車を製造させ、1945年2月には6両完成しました。

 証言によりますと、天皇の警護が任務の陸軍近衛第1師団の師団長が近衛騎兵連隊長に対し、6両の装甲車を騎兵連隊で保管するように命じたといいます。

 装甲車は戦車を改造したもので、日野重工業(当時)で製造されたらしい。6両のうち2両は両陛下用。車輪ではなくキャタピラが付いており、車内にはソファーやベッド用のマットなどが置かれていたそうです。

 

 

 

宮中でも終戦直前の6月には移転の検討に着手していた!

 天皇の居場所である「御座所」の松代移転計画は、当初、陸軍の独断で進められました。

 しかし、1945年4月に沖縄本島に米軍が上陸して「本土決戦」が目の前に迫って以降、天皇の側近や宮内省関係者ら「宮中(きゅうちゅう)」でも、天皇の松代移転の検討を始めていました。

 木戸幸一内大臣による木戸幸一日記』に以下の記載があります。

 

 【(1945年)6月13日

 「侍従武官長」という軍事担当の天皇側近が木戸内大臣を訪ねて、天皇の移動について話をしています。

 「信州松代」という名称は初めて「木戸日記」に登場する固有名詞で、ことの重大さに木戸内大臣もビックリしたのでしょう。これを受けて宮中の首脳陣を木戸の部屋に呼び、対策を協議しています。

 

 【6月30日

 天皇側近の木戸らは、宮内省係官から松代大本営の視察状況を聞いています。6月上旬に宮内省係官が松代へ行き、天皇が生活する御座所建設についてを念入りに調査したようです。

 

 【7月11日】

 木戸は宮内省幹部から報告を受けています。

 

天皇、松代への移転を7月下旬に決意!

 【7月25日

 木戸は天皇に「拝謁」した時、天皇を中心とした国家体制を護持するためには戦争終結しかないと力説したのです

 

 木戸が天皇に「講和」を進言したのは、「国民」を念頭に置いたものではなく、「天皇制維持のため」だったんですね。

 

 翌7月26日7月26日、ベルリン郊外のポツダムで、連合国軍は首脳会議を開き、戦後処理方針を示したポツダム宣言」を発表しました。

 

 

目指したのは「国体護持」でした

 【7月31日】

 木戸幸一内大臣天皇に拝謁すると、天皇は木戸の提案を6日間にわたって考えた結果、三種の神器とともに松代に移動する決意を次のよう述べたと記しています。

 

 「種々考へて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番良いと思ふ。(中略)信州の方へ御移することの心組で考へてはどうかと思ふ。此の辺、宮内大臣と篤と相談し、政府とも交渉して決定して貰ひたい。万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思う。謹んで拝承、(以下略)

 

 天皇も木戸も、敗戦が決定的になった7月末の段階では、天皇を中心とした国家体制の維持、つまり「国体の維持」のために松代大本営地下壕への移転を考えたのです。

 伊勢神宮にある八咫鏡(やたのかがみ)と、熱田神宮のある草薙剣(くさなぎのつるぎ)と、皇居にある勾玉(まがたま)という、皇統の証である「三種の神器(さんしゅのじんぎ)」が米軍の手に渡って皇室も国体も護持できなくなることを心配した、と読めます。

 

 

 

なぜ「松代」が選ばれたのだろうか

 大本営移転を発案した陸軍省青年将校、井田正孝少佐は、陸軍次官に候補地として「八王子」を挙げました。理由は、「東京に近い、ということが第一。それに手ごろな山が多く地下施設も作りやすいと思ったからだ」と戦後、インタビューに答えています。

 陸軍次官はこれに対して「君の案を検討してみたが、『信州あたり』が適当と思う。さがしてみてくれ」と命じました。

 

 「松代」を最終的に適地とした理由について、井田少佐は、①象山のがっしりした山容②皆神山(みなかみやま)という名称③建設工事に使うのにふさわしい広さの土地があること――を挙げています。

 

 また、井田少佐の同行者の1人は戦後、適地の条件は、①地下に軍事施設や宮殿を造るので岩盤が頑丈であること②戦況によっては通信や鉄道の不通で連絡ができなくなるため、近くに飛行場があること③工事が優しいこと④天皇が移るので風格・品位といった環境が大切であり、「信州は神州に通じる」という気持ちもあった――と証言しています。

 

 

沖縄戦」とも関係があった!

 今から78年も前のことですが、アジア・太平洋戦争の時、米軍は沖縄を占領して日本本土に攻め込もうとしました。

 その時、大本営は米軍をなるべく沖縄に引きとめて、日本本土への上陸まで時間を稼ぐ「持久戦」をとりました。

 この結果、沖縄本島では激しい地上戦が日米間で展開され、一般県民が巻き添えになって県民4人に1人が亡くなりました。これが「沖縄戦です。

 

 大本営陸軍部(陸軍参謀本部)は、松代に大本営の地下壕が完成して「本土決戦」の準備が整うまで、米軍を沖縄にくぎ付けにすることを期待したわけで、沖縄県民は「捨て石」にされたことが分かります。

 

 

敗戦当時、地下壕の工事の進み具合はどうだったのでしょう?

 天皇終戦を告げるラジオ放送をした翌日の1945年8月16日、陸軍は「松代倉庫工事」を「中止スヘシ」と現地の軍幹部に命じました。

 終戦時の地下壕建設工事の進捗状況は、防衛省防衛研究所所蔵の資料では次のようになっています。(「改訂版 松代大本営 歴史の証言」から引用)

 

 中央省庁やNHKなどが入る象山の「イ号倉庫」は、20本の地下壕の80%が完成。大本営が入る舞鶴山の「ロ号倉庫」と名付けられた地下壕は、もっと高く90%完成

 天皇・皇后の住まい(=御座所)となる「仮皇居」は全体として90%完成し、特に天皇御座所となる「Ⅰ号舎」(上の図参照)95%出来上がり、地下壕の部分も85%完成していました。

 

 地下壕建設工事に使う予定だった建築資材や物資は、地元自治体や工事関係者に払い下げられました。

 天皇御座所の地上部分や地下御座所の「欄間の彫り物」や「ふすま」「障子」なども付近住民に払い下げられたのですが、ヒノキの柱や敷居、鴨居なども何者かに持ち去られ、天皇御座所は荒廃していったといいます。

 

 敗戦から2年後の1947年5月、気象庁地震観測のための機器を地下壕に持ち込んで地震観測を始めました。地下壕の地盤が非常にかたくて「地震観測には最適」と判断されたのです。

 

 

いま、松代大本営地下壕は?

 【象山地下壕】は、長野市が管理しています。長野市は「平和な世界を後世に語り継ぐうえでの貴重な戦争遺跡として多くの方々にこの存在を知っていただくため」(=市のホームページから引用)として、1989年(平成元年)から一部を公開しています。入場料は無料ですが、「休壕日」があります。

 【舞鶴山地下壕】については、戦後すぐに気象庁地震観測機器を置いて松代地震観測所を開設しましたが、2016年4月から職員の常駐を廃止しました。

 これに伴って施設内部の見学はできなくなり。天皇御座所予定地の見学は、建物の外から窓越しでのぞくようになりました。

 【皆神山地下壕】は、壕内の落盤が著しいため立入禁止が続いています。

 

 

まとめ

 長野市松代町の山中に今も残る巨大な洞窟は、我々に何を訴えているのでしょうか――。

 陸軍の首脳陣の頭の真ん中にあったのは、天皇制という国家体制の維持でした。上陸してきた米軍と首都東京で「本土決戦」という殺し合いをし、米軍に「ひとアワ」ふかせて終戦に持ち込み、交渉で「国体護持」を米軍に保証させようと考えたのです。

 巨大な地下壕は、陸軍が本気で「本土決戦」の準備をしていたことを物語っています。

 軍隊にとって、「国民の命」は二の次だったのです。

 

 

★参考資料

「改訂版 松代大本営 歴史の証言」

 青木孝寿著

 1997年7月初版

 新日本出版社

 

「新版 ガイドブック松代大本営

 松代大本営の保存をすすめる会編

 2006年7月出版

 新日本出版社

 

昭和天皇の戦い」

 加瀬英明

 2015年3月発行

 勉誠出版

 

木戸幸一日記 下巻」

 木戸幸一

 1966年7月初版発行

 東京大学出版会

 

「昭和史の天皇 3」

 読売新聞社

 昭和43年4月 第1刷

 読売新聞社

 

 

 

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