北穂高岳で味わう至福のひと時

北アルプス登山、近所の散歩、旅行の記録や健康、反戦・平和への思いなどを、デジカメで撮った写真と一緒に載せています。

日本のいちばん長い日8.15「宮城事件」をデジカメで追跡した

 「宮城事件」の舞台となった皇居

 

 

 

教科書にない「宮城事件」

 もうじき終戦記念日の8月15日ですね。

 宮城事件(きゅうじょうじけん)は、77年前の1945年(昭和20年)8月14日深夜から15日にかけて、当時、宮城(きゅうじょう)と呼んでいた「皇居」を舞台に起きました。

 

 首謀者は、陸軍省に勤務する青年将校と、皇居の防衛が任務の近衛第一師団(このえだいいちしだん)参謀の数人ほどでした。

 

 青年将校たちは近衛第一師団の師団長を殺害し、ニセの師団命令をつくって近衛兵を動かし皇居を占拠したのです。

 

 皇居を舞台にしたこの事件は、ノンフィクション作家・半藤一利さん『日本のいちばん長い日 (決定版)』(文春文庫・2006年7月)で詳しく書いています。

 首謀者はじめ、関与した多数の人物から直接取材してまとめた力作で、貴重な記録です。

 

 「日本のいちばん長い日」の動きの骨格部分を時系列でトレースし、核心部分を整理してみました。

        ◇     ◇     ◇

【事件の主要人物】

首謀者:畑中健二少佐陸軍省軍務局) 自決

首謀者:椎崎二郎中佐陸軍省軍務局) 自決

首謀者:井田正孝中佐陸軍省軍務局) 自決せず、戦後、電通に入社し総務部長

関与者:古賀秀正少佐(近衛第一師団参謀) 自決

 

 

 

目次

 

 

 

 

事件の背景は「ポツダム宣言」の内容

 ポツダム宣言の日本語訳。外務省作成。(国立公文書館所蔵から引用)

 

 

1945年7月26日

 ポツダム宣言は、米、英、中華民国の連名で、日本に対して行った「降伏を要求する最終宣言」のこと。ベルリン郊外のポツダムでの首脳会談を踏まえた内容。

 

 この宣言を、米国は西海岸から短波送信機で放送。日本は外務省や陸海軍の傍受施設でこれを受信し、日本語訳をつくって内容の検討をした。

 

 ポツダム宣言は13カ条から成っており、「日本の領土の制限」「戦争犯罪人への厳重な処罰」「日本軍の無条件降伏の要求」など。最後には、「もし拒否すれば、日本は即座かつ完全に壊滅があるのみだ」と書かれていた。

 陸軍が一番気にした「天皇制の存続」は明示されていなかった。

 

 

 

政府は「黙殺」。広島・長崎への原爆投下招く

 ポツダム宣言に対し、政府は静観することに決め、翌日の朝日新聞は「政府は黙殺」と書いた

 外国の通信社のロイター通信は「日本はポツダム宣言reject(拒否)した」と訳して報じ。

 

 政府の「黙殺」は、広島への原爆投下(8月6日)、ソ連の日本への宣戦布告(8月8日)、長崎への原爆投下(8月9日)へとつながった。

 

 

 

 

「聖断」くだる

8月9日夜

 ポツダム宣言をめぐる最高戦争指導会議天皇を前にして、皇居の地下防空壕で開かれた。会議のメンバーは、参謀総長軍令部総長、首相、外相、陸相海相の6人。

 

 席上、東郷茂徳(しげのり)外相は「天皇の地位を変更しないことだけを条件にしてポツダム宣言を受諾する」という案を主張した。

 しかし、受諾するかどうかの議論はまとまらない。

 

 

翌10日午前2時30分

 このため鈴木貫太郎首相は、昭和天皇の決断、いわゆる「聖断を仰いだ。

 

 昭和天皇は「私は外務大臣の意見に同意である」と発言。そのうえで次のように話した。

 「空襲は激化しており、これ以上国民を塗炭(とたん)の苦しみに陥れ、文化を破壊し、世界人類の不幸を招くのは、私の欲していないところである。私の任務は祖先から受け継いだ日本と言う国を子孫に伝えることである。いまとなっては、ひとりでも多くの国民に生き残っていてもらって、その人たちに将来再び立ち上がってもらうほか道はない」

 こうして「降伏する」という聖断がくだされた。

 

 

10日午前3時

 政府は臨時閣議を開催。聖断に従って、国体護持のみを条件に、ポツダム宣言の受諾を決定した。

 

10日午前7時

 外務省は「帝国政府はポツダム宣言に挙げられたる条件中には、天皇統治の大権を変更する要求が含まれていないという了解のもとに受諾する」旨の電報を、中立国のスイスとスウェーデンに駐在している日本公使に送り、両公使が連合国に通告した。

 

 

 

10日午前9時

 陸軍省大本営陸軍部の建物。(現・市ヶ谷記念館)

 陸軍省の建物の前庭の地下に掘った「大本営地下壕」。この中にも陸軍大臣がある。

 

 

 阿南惟幾(あなみこれちか)陸相は午前9時、陸軍省大本営陸軍部があった市ヶ谷台の地下の防空壕陸軍省幹部を集め、御前会議でポツダム宣言受諾を決断した昭和天皇の「聖断」を伝えた。

 「このうえはただただ、大御心(おおみこころ)のままに進むほかはない」と話す陸相に対し、徹底抗戦を訴えてきた将校が不満を述べると、陸相「不服なものは、まず阿南を斬れ」と声を荒げた。

 

 

 

12日午前

 米国のサンフランシスコ放送が日本のポツダム宣言受諾に対する連合国軍の「回答文」を流し始めた。

 陸軍や外務省はこれを傍受し、それぞれ翻訳した。「国体護持」という日本側の要請に対する回答文の解釈は、外務省と陸軍で別れた。

 

 カギになったのは、「subject to」という単語。

 

 外務省は「制限の下に置かれる」と翻訳。全文を読むと政府の形態は最終的に国民の意思による、と読めるから、なかば保証されたも同然と判断した。

 しかし陸軍は、「隷属する」と訳した。青年将校たちは大臣室に押しかけ、阿南に連合国最高司令官に隷属する、ということであって受諾できない。受諾を阻止すべきです」と詰め寄った。阿南は唇を固く結んだまま何も言わなかった。

 

 

 

クーデターの目的は「聖断」の変更を迫ること

 陸軍省大本営陸軍部が入っていた建物の模型。(市ヶ谷記念館で撮影)

 

 

 

13日夜

 ポツダム宣言受諾という「聖断」後も、陸軍省軍務局の青年将校と近衛第一師団参謀たち数人が、「国体護持」の明確化までの徹底抗戦を叫んで、クーデターを起こそうとしていた。

 

 13日夜、畑中健二少佐井田正孝中佐椎崎二郎中佐ら陸軍将校6人が、陸相官邸で阿南陸相クーデター計画を示し、協力を求めた。内容は、

①国体護持の確証を取り付けるまでは降伏せず、連合国と交渉を継続する

②(クーデターでの)使用兵力は東部軍と近衛第一師団

③皇居と和平派要人とを「遮断」する

③首相、外相、海相ら和平派要人を兵力を以って「隔離」し、戒厳令を出す

④この計画の実行には陸相参謀総長、東部軍管区司令官、近衛第一師団長の4人が一致することが条件――としていた。

 

 阿南陸相は、梅津美治郎参謀総長と翌日早朝会談し、そのあとで返事する、と話し、一同を解散させた。

 

 

14日午前7時

 阿南陸相参謀総長と会談し、意見を求めたところ、参謀総長はクーデター計画に反対を表明、陸相も同調して深くうなずいた。

 

 

 

 

「聖断」は2度くだった

 8月14日の2度目の御前会議のようす。(NHK放送博物館の展示物)

 

 

14日午前10時50分

 天皇による招集という異例の形の御前会議が開かれ、天皇は「このさい、自分のできることはなんでもする。自分が国民に呼び掛けることがよければ、いつでもマイクの前にも立つ。自分はどこへでも出かけて、親しく説きさとしてもよい」と話し、ポツダム宣言受諾の「聖断」があらためてくだされた。

 

 

 

 

クーデター計画の首謀者同士が決意を確認

 近衛第一師団司令部だった建物。(千代田区北の丸公園

 

 

14日午後2時

 首謀者の椎崎中佐畑中少佐が、皇居わきの近衛第一師団司令部に、近衛第一師団参謀の古賀秀正少佐を訪ね、国体護持のために潔く散る覚悟を確認した。

 

 畑中少佐はこの後、東部軍管区の田中静壱司令官を訪ねて自転車で向かった。

 

 

 

 

東部軍司令官に追い返される

 東部軍管区司令部が入っていた第一生命館(千代田区内幸町)。陸軍に接収される前は「第一生命」の建物。戦後、GHQに接収され、マッカーサー元帥がここで執務した。

 

 

14日午後3時

 畑中少佐は、日比谷の第一生命館にあった、関東一円を守備範囲とする東部軍管区司令部を訪ね、司令官田中静壱(しずいち)大将に面会を求めた。

 田中軍司令官は若い将校の一部に不穏な動きがあることは知っていた。

 畑中少佐は面会が認められ、6階の司令官室に入室した途端、軍司令官が大声で「オレのところへ何しに来た。貴官の考えていることはわかっとる。何を言わずともよい。帰りたまえ」と一喝した。

 

 畑中少佐は顔面蒼白になり、ひとこともなく立ち去った。

 

 

 

 

玉音放送は8月14日深夜に録音

 玉音放送を録画した時の人員配置図。(NHK放送博物館の展示物)

 

 

14日深夜

 3階建ての宮内省庁舎の中の2階にある「御政務室」で、玉音放送の録音は行われた。

 

 「朕(ちん)深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以って(もって)時局を収拾せしむと欲し、茲に(ここに)忠良なる爾(なんじ)臣民に告ぐ・・・・・」

 

 天皇は用意した詔書4分36秒かけて読み、録音を終えた。

 ただ、言葉に数ヵ所不明瞭なところがあり、天皇の意向で録音しなおし14日午後11時50分に終わった

 

 「戦争終結に関する詔書」の内容。

 

 録音盤の1枚。(1回目の録音盤2枚のうちの1枚。放送に使われなかったもの。厳重に保管されている。NHK放送博物館で撮影)

 

 

 

 録音盤は2組(1組2枚)作られ、2個の缶に納められたうえ、防空服を入れる木綿の袋2つに入れた。 

 徳川義寛(よしひろ)侍従によって、皇后に仕える皇后宮職事務官室(1階)にある書類入れの軽金庫に隠され、書類をその前に高く積んだ。

 

 

 

 

近衛第一師団長を殺害

 旧・近衛第一師団司令部庁舎。

 

 

 

15日午前零時30分

 井田中佐椎崎中佐近衛第一師団司令部の2階の師団長室で、師団長の森赳(たけし)中将を前にして、クーデター計画に同意するよう説得を続けた。

 

 説得の途中で、井田中佐がいったん部屋を出た時、入れ替わりに中少佐ら3人が師団長室に入った。

 すると、畑中少佐は時を置かずに拳銃で森師団長を撃ち、畑中と一緒に師団長室に入った仲間が軍刀で師団長を斬殺した。

 椎崎中佐はぼうぜんとしてイスに腰かけたままだった。

 

 この瞬間、反乱が動き出した。クーデターの支柱にしようとしていた師団長を、自分たちの手で倒してしまった。もう後には引けなくなった。

 

 

 

 

15日午前1時

 井田中佐は東部軍管区に駆け込み、軍管区参謀長に対し、「近衛第一師団がすでに動いているが、この行動を承認してほしい。東部軍からも兵力の出動をお願いしたい」と陳情した。しかし軽くあしらわれた。

 

 

 

 

ニセ命令で軍を動かし、皇居を占拠!

15日午前2時

 畑中少佐から近衛第一師団の師団長を殺害したことを聞いた師団参謀の古賀少佐は、大きな衝撃を受けた。しかし、古賀少佐は、畑中少佐が起案したと考えられるニセの師団命令を各部隊に口頭で発令。近衛歩兵第二連隊皇居での部隊展開を命じた

 

 近衛歩兵第二連隊は、宮内省の電話線を切断、皇宮警察武装解除し、外部との連絡を遮断した。

 

 古賀少佐は、玉音放送が流されないように、ニセの師団命令に基づいて千代田区内幸町のNHK放送会館に向けて近衛歩兵第一連隊第一中隊の派遣を命じた

 

 

 

 

 

録音盤を探すが、見つからない

 近衛第一師団の近衛歩兵第二連隊記念碑。(現在の「北の丸公園」に第一・第二連隊の兵舎があったが、戦後、建物は解体され、「記念碑」が建っている)

 

 

15日午前3時

 「近衛歩兵第二連隊」は、ニセの師団命令で皇居を占拠。門を占領し、電話線を切断し、外との連絡を遮断した。第二連隊は第一連隊とともに、天皇天皇の住まいである皇居を守るための部隊で、兵士は全国から選抜されたエリート集団だったが、ニセ情報によって悪用されてしまった。

 

 近衛第一師団参謀の古賀少佐は、玉音放送の録画を終えて皇居を出ようとしたNHK職員たちが身柄拘束されていることを知り、NHK職員から録音盤が宮内省に保管されていることを聞き出すと近衛歩兵第二連隊」の「第二大隊長(北村信一大尉)」に録音盤の捜索を命じた

 古賀少佐はさらに、「第三大隊」の第三機関銃中隊の中隊長(大尉)にも直接、「北村(第二大隊長)が一個大隊で探しているが、お前も宮内省庁舎に入って録音盤を探してこい」と、捜索を手伝うよう指示し、10人ぐらいが追加で捜索に加わった。

 しかし、録音盤を見つけ出すことはできなかった。

 

 宮内省庁舎内では、録音盤の所在を聞かれた徳川侍従が「知るもんか」とやり返すと、「第一大隊」の軍曹が徳川侍従を殴り倒し、メガネが吹っ飛んだ。

 

 

 

 

15日午前4時すぎ

 東部軍管区司令部と皇居内の警備指令所間の電話線1本だけが生きており、東部軍参謀長(少将)皇居を占拠中の近衛歩兵第二連隊長(大佐)との電話連絡に成功し、「師団命令は参謀の古賀少佐らが作ったニセ命令である」と連絡。

連隊長は横にいた畑中少佐も反乱軍の一員だと察知し、即刻皇居から退去するよう畑中少佐に命じた。

 

 

 

「NHK放送会館」を占拠

 NHK放送会館。地上6階、地下1階建てで、千代田区内幸町にあった。(NHK放送博物館で撮影)

 

 

15日午前4時30分

 近衛歩兵第一連隊跡に建っている碑。(北の丸公園


 

 NHK放送会館は、ニセの師団命令で「近衛歩兵第一連隊第一中隊」の兵士60人午前2時ごろから包囲されていた。玉音放送を阻止するためだ。

 

 午前4時30分ごろ、皇居から追放された畑中少佐は放送会館のスタジオに入り、放送員に拳銃を向け、「5時のニュースの時間の時、自分に放送させてくれ」と言った。

 しかし、放送員は放送させてはいけないという覚悟があって「東部軍の許可がないと放送できない」と繰り返した。

 他の職員は、万一に備え、局舎から電波を発信する送信所へのケーブルを切断しておいた。

 

 

 

 

 

 

軍司令官がクーデターを鎮圧

15日午前5時10分

 近衛第一師団司令部だった建物。

 

  関東一円を守備範囲とする東部軍管区の司令官・田中大将が、副官と参謀の2人だけを従えて、近衛第一師団司令部に車で乗り付けた。暴動鎮圧に乗り出したのだ。

 

 師団司令部の庭では、ニセ命令に従って「近衛歩兵第一連隊」の将兵が連隊長(大佐)の指揮で皇居に向かって行進を始めるところだった。

 第一連隊長は命令がニセモノだということも師団長が殺害されていることも知らず、軍司令官から聞いて驚愕した。

 

 

15日午前8時

 宮内省の軽金庫に隠してある録音盤をどのようにしてNHKに届けるか――。

 庁舎の長い廊下を歩いて総務課に移す間に、潜んでいる兵に襲われてもよいように、宮内省はおとり作戦を計画。最初に録音された盤を「副」と定め、お盆に入れて紫の袱紗をかけ、職員が恭しい足取りで廊下を進む。もう1つの盤を「正」と定め、侍従が肩から下げている「雑のう」に入れ、さりげなく廊下を歩いて総務課に運び込んだ。

 

 

 

15日午前10時

 宮内省職員が「正」の録音盤を雑のうに入れた状態で警視庁の車に乗り込み、内幸町のNHK放送会館の会長室に納めた。

 「副」盤は宮内省の車で第一生命館地下の予備スタジオに納めた。「正」盤に不測の事態が起きても放送できる体制を整えた。

 

 

 

 

玉音放送」流れる

 録音盤。

 

 

8月15日正午

 NHK放送会館で正午、昭和天皇が「終戦詔書」を読み上げた「玉音放送がラジオで流れ始めた。

 「終戦」が国民に伝えられた瞬間だった。

 

 

 

「NHK放送会館」のその後

 NHK放送会館は戦後、三菱地所の所有となり、「日比谷国際ビルヂング」と改称されたが、この地区の共同再開発のために1978年(昭和53年)に取り壊された。

 

 日比谷シティ。

 

 跡地には新たに「日比谷国際ビル」(地上31階、地下5階、塔屋1階)が建ち、隣の「富国生命ビル」、「日本プレスセンタービル」とともに『日比谷シティ』という都心の商店街をつくっている。

 

 

  日比谷シティの日比谷通り沿いの植え込みに「放送記念碑」がひっそりと置かれている。

 

 碑の右側面には、「日本放送協会は1938年から1973年までこの地にあった」と銘記されている。

 

 

 

 

首謀者らは自決

 皇居前広場

 皇居の二重橋

 

 皇居の正門。

 

 

 宮城事件の首謀者のうち畑中少佐椎崎中佐の2人は、玉音放送が始まる直前に、皇居前の二重橋と坂下門の間の芝生で自決した。

 近衛第一師団の古賀少佐もそれより少し前、師団長室で森師団長のひつぎの前で自決した。

 

 

 港区愛宕の青松寺の墓地の片隅に、慰霊碑が建っている。表面に「國體護持 孤忠留魂之碑」とあり、裏面に畑中少佐ら自決した将校4人の名が刻まれている。「有志」が1984年に建てた。

 

 

 

教訓~戦争は始めたら終えるのが難しい

 勢いに乗って戦争を始めるのは難しくない。しかし、犠牲者が多数出てしまったあとで「戦争を止める」といっても「はい、わかりました」とはそう簡単にいかないでしょう。抵抗は避けられない。

 

 戦争はしてはいけない。

 ロシアのプーチンによるウクライナへの侵略戦争が気掛かりです。

 

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