千葉県館山(たてやま)市の海上自衛隊館山航空基地のすぐ南側に、通称・赤山(あかやま)と呼ばれる標高わずか60㍍の山があります。
この小高い山に全長1.6キロという大規模な「地下壕(ごう)」があります。アジア・太平洋戦争の時に米軍の空襲を避けるのに使われた防空壕です。
千葉県館山市発行のパンフレット
いまは館山市の「史跡」に指定されていますが、指定される前の、
地下壕が荒れている時に、壕に入る機会がありました。
1998年10月10日です。
案内してくれたのは、当時、千葉県立安房南(あわみなみ)高校の社会科教諭の
愛沢伸雄さん(現・NPO法人安房文化遺産フォーラム代表)でした。
その記録です。
館山市の市指定史跡になる前の赤山地下壕入口(1998年10月10日撮影)
赤山地下壕跡
東京湾岸のこの地域にはアジア・太平洋戦争の時、館山海軍航空隊がありました。
地下壕の名前はいま、「赤山地下壕跡」と呼んでいます。
館山海軍航空隊は1930年(昭和5年)に、全国で5番目の海軍航空隊として発足しました。
海上に浮かぶ空母の短い甲板から戦闘機を離発着させる難しい操縦の訓練を行うためでした。
地下壕の入り口です。
もちろん中は真っ暗。
この地下壕がいつ造られたのか、海軍はどう運用しようとしていたのか、資料がほとんど焼却されているため分かりません。
ただ、戦時中に造られた、負の遺産であることに間違いはなく、2004年から平和学習の場に、と壕の一部を館山市が整備し、一般開放しています。
そして館山市は翌2005年1月から、この「館山海軍航空隊赤山地下壕跡」を市の「史跡」に指定しました。
地下壕の出入り口はいくつかありますが、公開に当たって出入り口を1カ所に限定して、壕の中の一部をみることができるようにしました。
地下壕の目的は?
本当のところは分かりませんが、ヒントになりそうなのは、防衛省防衛研究所にある「館山航空基地次期戦備施設計画位置図」だけです。
地下壕の内部には、上の写真のようにディーゼル発電機を据え付けたとみられるコンクリート台があるほか、壁の上部には、電線を支えて漏電を防ぐための陶器製の碍子(がいし)が残っていました。
(1998年10月10日撮影)
天井から下がっているものは不明です。
ほかにも近所の住民から、終戦間際の昭和20年1月以降にこの壕の中で実際に館山海軍航空隊の事務を行ったとか、終戦後、吊り床(ハンモック)が並んでいるのを見たなどという証言があり、1945年8月の終戦まで使われていたとみられます。
戦後はキノコ栽培
地下壕の中は、年間を通して温度が10度から20度程度で、キノコを栽培するのに適温です。
実際、近所の農家の方が、この壕でキノコ栽培をしていました。
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◆戦争遺跡としての「地下壕」といえば、横浜市の慶應義塾日吉キャンパスにある「日吉台地下壕」が知られています。
終戦間際に海軍の連合艦隊司令部がこのキャンパスに置かれ、地下壕も掘られました。そして戦艦大和の沖縄への出撃命令も、この日吉の地下壕から発せられました。
[「コロナ禍」のこの夏は、慶應義塾は日吉台地下壕の見学許可を出していません。
この赤山地下壕跡も「コロナ」の感染拡大防止のため臨時に閉じていましたが、
2020年6月2日から再開しました。
「戦争と平和」を考える夏です。