地下壕の内壁の朽ちた鉄扉(2023年10月8日午後2時撮影)
神奈川県横須賀市の京浜急行線「追浜(おっぱま)」駅から東京湾に向かって真っすぐ30分ほど歩くと、右手に1981年に市が開設した「貝山緑地」という小高い丘があります。
その地下に、巨大な施設が今も残っているんです。
アジア太平洋戦争末期に造られた地下壕です。「貝山(かいやま)地下壕」と呼ばれる軍事施設です。
貝山地下壕は横須賀海軍航空隊の防空壕でした。
市民ガイドによるツアーに2023年10月8日に参加して、地下壕の一部を歩いてみました。
目次
横須賀海軍航空隊とは?
横須賀海軍航空隊(略称:横空)は1916年(大正5年)4月、横須賀市の追浜(おっぱま)地区に開設された旧海軍初めての航空隊です。航空機の開発や戦闘技術を向上させるための研究を行っていたようです。
首都東京の防衛も担っており、終戦末期には「硫黄島」での戦闘に参加。戦後、跡地は日産自動車㈱追浜工場などになっています。
何のためにだれがいつ掘ったのか?
三浦半島と「追浜」の位置。
「貝山地下壕」が横須賀海軍航空隊の基地の中にあったということは、現存する資料から分かります。
その資料は、敗戦直後に「海軍省」が連合国軍(実態は米軍)に渡した「引渡施設目録」(昭和20年8月30日現在)というタイトルの書類で、防衛省防衛研究所に保存されているそうです。
そこには横須賀海軍航空基地の総面積、建物のほか「用地境界及び施設の配列」などが記載されており、貝山地下壕が横須賀海軍航空隊の施設であることが確認できる、とのことです。
でも、それ以上のことを知るのは、地下壕にかかわった人がほとんど亡くなり、証言記録も見つかっていないため、ちょっと厳しそうです。
ただ、神奈川新聞(2015年8月8日付)によると、航空基地近くの「海軍航空技術廠」で終戦を迎えた男性(=報道当時95歳)はこんなことを言っています。
「玉音放送を聞いたあと、工場ではあちこちで1週間から10日間ぐらい書類を燃やして海にまきました。」
上陸してくる連合国軍に見られないように、書類は片っ端から燃やしたんですね。ですからいつ、どのような人たちが貝山地下壕を掘ったのか、はっきりしません。
推測はできます。横須賀海軍航空隊の基地内には、野島掩体壕(横浜市金沢区)と夏島掩体壕(横須賀市)があります。
「掩体壕(えんたいごう」というのは、米軍機による空襲から基地に駐機している戦闘機を守るために造った穴ぐらです。
この掩体壕を造ったのが、「海軍第300(サンマルマル)設営隊」だということは残っている資料から分かるので、貝山地下壕も同じではないか、と推測はできます。
海軍設営隊という組織は、もともとは海軍基地や占領地での飛行場の建設、陣地構築が仕事でした。しかし、日本本土で空襲がひんぱんになると、国内のあちこちで「地下壕の建設」を始めました。
横浜の慶應義塾の敷地内に造られた連合艦隊司令部の「日吉台地下壕」は、この第300設営隊が主力だったという証言記録はたくさん残っています。
貝山地下壕の建設目的も、空襲対策でしょう。航空隊の弾薬や兵器、食糧、燃料、そして兵士を退避させるために構築したと考えられています。
実際に使われたのか?
横須賀市の海は「軍港」でした。戦時中、戦艦「長門」が米軍の艦載機による猛攻撃を受けました。
しかし、貝山地下壕が度重なる港の艦船への空襲の時に使われたかどうか、分かりません。
地下壕の中の構造
上の図の茶色の部分、約130メートルが公開されている区間です。
ずいぶん前に「貝山地下壕保存する会」という市民グループが壕内を調査したようですが、会報を発行していないので結果がどうだったのか分かりません。
その後、横須賀市は「戦争遺跡」が全国で注目され始めたことから「貝山地下壕」を一般公開する方針を決め、地質会社が2017年から2018年にかけて内部構造や地質を3次元レーザー測量し、結果をシンポジウムで公表しました。
公表資料によると、「貝山緑地の地下はA地区、B地区、C地区、上部坑道と呼ばれる地下壕が存在し、総延長は約2キロ。ただC地区は地盤が不安定なため坑口がふさがれており、過去に調査は行われていない。」
そして、「地下壕は貝山緑地内部に余すことなく立体的に設けられた軍事施設であり、歴史遺産として価値のある遺構」と結論付けています。
以下、壕の中の写真です。
「現在地」は上の図の一番下。「茶色」をたどっていきます。
調査によると、地下壕の幅は「最大5.3メートル」、高さは「最大4.6メートル」。
広い通路から横に「坑道」が伸びており、部屋がいくつかあったようです。
一部分だけ一般公開されている「B地区」の入り口。
入口です。
奥に向かって真っすぐ伸びる「通路」。運搬用の通路です。
20メートルぐらい進むと、右の壁際に朽ちた金属の山・・・・。
丸いのはタイヤでしょうか?壁の地層がきれいです。
ごみの山の向こうには、1つめの「内壁」が右側にありました。内壁の端っこにあったはずの鉄扉は腐って残っていません。奥は真っ暗。
もう少し前進すると、右斜め前方と左斜め前方への分岐点がありました。入り口から70メートルぐらいの位置でしょうか。
一般公開されているのは、分岐点の右斜め前方方向ですが、2つ目の「内壁」が立ちはだかっています。壁の右端が通路です。
内壁の右端に、さびた鉄の扉があり、ここから中に入ります。その先の坑道は単なる「通路」ではなくて会議室やカマド、水槽などがありました。
坑道の内側からみた「内壁」。この壁を境に、広い通路と内側は用途が違うようです。
朽ちた鉄扉の上をみると、「3つの穴」がありました。通信や電灯に使うケーブルを通したのでしょうか。
地下壕の中は、見学者用に照明が点灯されましたが、それでも暗いです。
足元の溝は、排水溝でしょうか。
広い大きなスペースがありました。作戦会議でも開く部屋でしょうか。
大きな部屋の壁の上の方には、横長の「クボミ」。額でもはめ込んでいたのでしょうかね。
大部屋の入り口には、よくみるとコンクリートが張られています。特別な部屋なんでしょう。写真左端の壁には、何かを飾る「クボミ」があります。
大部屋の出入り口の前の坑道には、コンクリート製の「水槽」の跡がありました。食器を洗うんでしょうか。
水槽の横の部屋です。入り口の頭上に、なにか「看板」を掛けるためのクボミ。
部屋の中ですが、ゴミの山。いつの時代のものか。2011年の東日本大震災後に立ち入り禁止になっても、潜入者はいたようですし・・・。
何の部屋だったんでしょうね。
イスの残骸でしょうかね。
地下壕への出入り口の一つだったようですが、いまは市が施錠しています。
電線用のガイシの跡かな。
カマドの跡です。上に鍋やお釜を載せて煮炊きするカマド。
カマドの右横には、壁を削ってパイプを埋め込んだ「煙突」があり、外に通じていました。
煙突の出口は、一般的な出入り口でもあったようにみえますが、土砂で埋まっていました。
天井や壁には、ツルハシで削った痕跡。
一般公開用の出入り口を、内側から見た写真です。
一般公開用の地下壕で入口の右横に、こんな大きなドームがありました。「倉庫」として使われたと考えられています。
いまこの中では、地下壕から拾ってきた❝発掘品❞が展示されています。
地下壕からの出土品
海軍マーク入りの食器。
こちらの食器は「将校用」らしい。
ソケットや電球。
ガイシなど。
受話器。
防毒マスクなど。排気ガス対策やほこり除けに使われたのかも。
インクのつぼ。
唐草模様の便器の一部。将校用だとか。
地下壕の外の横穴には「油槽」
貝山地下壕の見学者用出入り口から少し離れた場所の「ガケ地」には、横坑がいくつもありました。
横坑は貝山地下壕の一部で、「タンク」が収納されている横坑の数は7つ。
終戦時と同じ状態で放置されている雰囲気。タンクには、中身について「ディーゼルオイル」と書かれています。
いまの地下壕の管理体制
貝山地下壕のある場所は、もともと旧海軍の土地でしたが、敗戦で連合国軍に接収されました。
日本政府に返還後の1950年、地方自治体や民間に払い下げられ、横須賀市の公園や学校になりました。
貝山地下壕は2011年の東日本大震災の時に一部で崩落があったために、「貝山緑地」の所有者の横須賀市は安全性への懸念から地下壕への立ち入りを禁止しました。
しかし、一般公開を求める声が市民の間にあり、市は案内人になりたい人を募集して1年かけて「市民ガイド」を養成。地下壕の一部を整備し、2021年8月から一部の公開を始めました。
ただ、地下壕の調査はその後も行われておらず、ふだんは出入口は施錠されています。
見学希望者は、市役所当局にではなく、①NPO法人よこすかシティガイド協会②NPO法人アクションおっぱま③猿島公園専門ガイド協会のいずれかに申し込んで、市民ガイドの案内で見学できるという仕組みになっています。
貝山地下壕は、中に入って見ただけでは「戦争の悲惨さ」などというものは伝わってこないでしょう。ただ、「地下壕を掘って戦争を続けた時代があった」というのは事実ですので、子どもたちに「戦争」というものを考えてもらう生きた教材にはなると思いますが、どうでしょうかね。
【参考資料】
【貝山地下壕 見学の手引き】
発行年月日:2021年5月
発行:NPO法人アクションおっぱま