北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスに登っていたころの写真記録、国内外の旅行、反戦平和への思いなどを備忘録として載せています。

山本五十六の死姿に迫る!リメンバー パールハーバー~多磨霊園に眠る著名人⑦

山本長官が搭乗していた「一式陸攻」の左翼の一部(「山本五十六記念館」公式サイトから引用)

 

 

 山本五十六――。

 「五十六」と書いて、「いそろく」と読みます。

 

 ハワイのオアフ島パール・ハーバーに、昔、アメリカの海軍基地があったのですが、日本軍が飛行機で奇襲攻撃して、戦艦4隻を撃沈させるという戦果を挙げた「真珠湾攻撃」の時の指揮官です。

 1941年12月8日のことです。

 

 連合艦隊司令長官だった山本五十六は、日本では「国民的英雄」になりました。

 でも、アメリカは軍人と民間人合わせて2400人が亡くなったこともあって「だまし討ちだ」と激怒。「リメンバー パール ハーバー」を合言葉に反撃に出て、破滅的な太平洋戦争が始まりました。

 

 山本五十六がその後、どういう最期を遂げたか、古本をめくってみました。

 

目次

 

 

 

日米開戦には反対した男???

 連合艦隊司令長官山本五十六は「アメリカと戦争するのは無謀だ。避けるべきだ」と、開戦に反対したそうです。アメリカに留学した経験から国力の差を知っていたそうです。

 

 ヒトラー率いるナチス・ドイツから1939年に提案された「日独伊3国同盟」の締結にも、山本長官(当時は海軍次官)は反対しました。

 「ドイツとイタリアとの関係を強めると、イギリスを支援しているアメリカを敵に回すことになる」という理由です。

 しかし、です。日本は1940年に日独伊3国同盟を結び、陸軍が北部仏印(=現在のベトナムハノイ進駐しました。

 

 アメリカはこれを受けて、日本に「くず鉄」の輸出を禁止。次は「石油」を止めるだろうとみた日本軍は、1941年7月、南部仏印(=現在のベトナムホーチミンにも石油など資源を求めて軍隊を進めました。

 案の定、アメリカは日本がフィリピンを含む東南アジア全体を侵略しようとしていると判断し、8月、日本への石油輸出を全面禁止しました。

 

 山本五十六は、ここまで来てしまった以上、「真珠湾の米軍基地を奇襲攻撃して損害を与え、早期講和に持ち込もう」と考えたようです。

 

 

山本五十六長官機の撃墜

 

 山本五十六長官は、現在のパプアニューギニアブーゲンビル島の上空で、搭乗機が撃墜されて戦死しました。

 アメリカと戦争を始めて1年半後でした。

 

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 私が「山本五十六」に興味を抱いたのは、ゼロ戦戦艦大和の絵を描くのが好きだった小学校低学年のころでした。

 「清田医院」という近所の開業医が、山本五十六が戦死した時に「軍医」の1人として検視に加わった、と父から聞いていたからです。

 私は病弱でよく熱が出て、父の運転する車で清田医院に行きました。そのたびに、「坊や、どうした?こっちにおいで」と手招きして、額に手を当てて熱を読んだ後、注射してくれました。

 でも、鼻の下に蓄えたヒゲと、白衣からのアルコールのにおいがいつも怖く、山本五十六の話を聞く機会はついにありませんでした。

 

 山本長官の話に入ります。

 山本長官は、トラック島の連合艦隊の旗艦「武蔵」にふだんはいましたが、昭和18年(1943年)4月、米軍との戦闘の最前線のニューブリテン島・ラバウル基地に出向きました。その時、「ソロモン諸島西部の基地を、日帰りで激励してくる」と言いだしました。

 

 そして、4月13日、ラバウル連合艦隊司令部から関係方面の各航空戦隊、守備隊に暗号電報が打たれました。ご丁寧にも電報には、山本長官の日程が出発時刻、行き先の基地名、到着時刻、さらには連合艦隊司令長官「一式陸上攻撃機」(=以下「一式陸攻」)に搭乗すること、護衛の戦闘機は6機であることまで書かれており、まずいことにこれが米軍に傍受されたうえ暗号も解読されたのです。戦後、分かったことです。

 

 

写真は、ラバウル基地であいさつする山本長官。(「ラバウル空戦記」から引用。

 

 山本長官と随行の参謀一行は、2機の一式陸攻に分乗、ブーゲンビル島(=現在のパプアニューギニア独立国)のブインに視察に向かいましたが、一行を護衛するゼロ戦(=零式艦上戦闘機はわずか6機でした。

 

 4月18日午前7時30分すぎ、こうあと少しで「ブイン飛行場」に着くというところで、ガダルカナル島からやってきたアメリカ陸軍の「P38戦闘機」16機待ち伏せに遭い、山本長官の乗った機は、人跡未踏のブーゲンビル島のジャングルに墜落し、搭乗していた11人全員が戦死しました。

 

 米陸軍「P38戦闘機」。(「戦史の証言者たち」から引用)

 

 

生き残りの2人が「墜落時」を証言

 山本五十六連合艦隊司令長官の機が撃墜された時の、信頼できそうな話は、生きて終戦を迎えた以下の2人で、ノートに記録を残しています。

 ▽護衛のゼロ戦隊の柳谷謙治・飛行兵長

 ▽一式陸攻の「2番機」の主操縦員・林浩二・二等飛行兵曹(二飛曹)

 

 

ゼロ戦パイロット、柳谷・飛行兵長の話

(「ラバウル空戦記」「戦史の証言者たち」からの引用)

 写真は、ラバウル基地のゼロ戦。(「ラバウル空戦記」から引用)

 

山本長官機ラバウル東飛行場を離陸後、高度約1500㍍を南東飛行。もう1機の一式陸攻もほぼ並列に飛んでいく。その2機の500㍍上を、護衛のゼロ戦6機が、3機ずつ編隊を組んで飛行した。」

「突然、護衛の指揮官機が加速して長官機の前方に向かって降下を始めた。異変を察知して見回すと、いた!前方、右下、約1500㍍の高度に敵機P38の群れが――。ぐんぐん近づいてくる。指揮官機は長官機の前にまわり、主翼を上下に振って合図する。長官らの乗る一式陸攻2機は急角度で機首を下げ、全速力でブイン飛行場に逃げ込み始めた。」

「低く飛んできたP38は、ゼロ戦を無視して長官の乗る一式陸攻に目標を定めて上昇してきて、一式陸攻の後方でぐるりと向きを右回りに変え、斜め後方から長官機に射撃を浴びせた。数機が次々と襲いかかる。」

「先頭のP38の群れを機銃で撃退している間に、ほかのP38の銃弾が一式陸攻の1機のエンジンに命中し、黒煙を吐いてジャングルの方へ突っ込んでいく。もう1機の一式陸攻も白い煙を吐いて海上に不時着した。不時着した機は炎上はしなかった。ジャングルに落ちた機からは真っ黒い煙が上がり、炎も少し見えた。」

「私はブインの飛行場に直行して、低空200㍍ぐらいで緊急合図の射撃をバーッとした。基地でも何かあったらしいということで、戦闘機が上昇してきた。私は引き返して敵機をとらえようとしたが、1機も見えない。」

「あっけない空戦だった。皮肉にも護衛機のゼロ戦6機は無事だった。私はおめおめと帰ることに、後ろめたさを感じた。」

 

 

一式陸攻「2番機」の主操縦員、林・二飛曹の話

(「山本五十六検死ノート」から引用)

 一式陸攻。(ウィキペディアから引用)

 

 一式陸攻の2番機で、ただひとり、戦後を生きた林浩・二等飛行兵曹の話です。

 

「私は2番機を操縦していた。ラバウルとブイン間は当時、船や飛行機にとっては安全な航路だった。通信員が『あと15分でブイン飛行場着陸』と伝えて来た。その時、護衛の戦闘機1機が急に増速して、長官搭乗機の上をかすめ飛んだ。そのあと、別の友軍の戦闘機1機が長官機に近づき、機体を動揺させた。すると長官機が高度を下げ始め、それから1、2分したころ、私の機の後ろから前へ、機上を曳光弾が2、3発通り過ぎた。と同時に、数機のP38が目に入った。」

「長官機に追いすがるように飛行したが、敵の数機が長官機を取り囲むように襲っている。わが機の上空を敵機が行き過ぎるのが見える。」

「長官機は白い煙を吐きながら落下し、間もなく火柱になり、ジャングルから黒煙が立ち上るのを見た。」

「今度は数機の敵機がわが機に襲いかかってきた。海面すれすれの高度50㍍を飛行したが、昇降舵が急に効かなくなり、海面が目前に迫って来た。」(以下略)

 

 

 

山本五十六の最期

 ニューギニア島の東にあるブーゲンビル島には、1943年1月から、宮崎県都城市を本拠地とする陸軍歩兵第23連隊が上陸していました。

 

中村・見習士官の話

(「山本五十六検死ノート」から引用)

 原住民への宣撫工作を担当していた中村常男・見習士官(のちに中尉)は、墜落機を捜索した時の様子を次のように話しています。

 

「朝食後、部屋にいると、飛行機の爆音と機銃弾の音がして連隊本部は騒然。私は捜索のため10人の部下を連れ、墜落を目撃したという原住民2人の道案内でジャングルに入っていった。」

「翌4月19日、『海軍の指揮官機』が撃墜されたから捜索せよ、という連隊長命令が伝わって来た。午後になって、一足先に現場に到着した浜砂盈栄(みつよし)少尉(=連隊砲中隊第一小隊長)が率いる捜索隊から、機体発見を告げる銃声がこだました。数百㍍進むと遭難機を発見した。」

「まず、一式陸攻の尾翼が目に入り、その50㍍ほど先に胴体らしい丸い空洞。その先の30㍍のところに主翼とエンジン部分があり、2人の黒焦げの死体を見た。」

「また、胴体から左20㍍のところに4人の遺体を発見した。山本長官は飛行機の座席に腰をかけたまま横臥していた。

「胴体の右側に、もう1つの4人の遺体の集団があった。さらに右前方数百㍍地点で、飛行帽をかぶった11人目の遺体があった。」

 

 

浜砂少尉の話

(「山本五十六検死ノート」から引用)

 ジャングルで、山本長官ら11人の遺体の第一発見者となった陸軍歩兵第23連隊砲中隊第1小隊長浜砂盈栄(みつよし)少尉は戦後、雑誌『丸』に、捜索時のようすを以下のように書いています。

 

 「4月18日、道路建設の作業中に、上空で空中戦が演じられ、西南方向の10キロ先のジャングルで黒煙が上がった。」

 「翌19日に連隊本部からの正式な命令で捜索隊を編成した。(中略)。夕方、『小隊長、ガソリンのにおいがします』と先行する兵の報告を受け、薄暗いジャングルの中を急ぐと、ちぎれた尾翼が目に入った。その先、100㍍以上に機体の主な部分が点々としていた。」

 「山本長官は機の座席に着き、胴ヒモも締めたままで、軍刀を右手に固く握りしめていた。(中略)。長官のすぐ左側に寄り添うごとく白服の大男の遺体があった。この人が高田軍医長であった。」

 「高田軍医長の死体は、地をはって行ったと思われる跡を残して腹ばいに死んでおり、白服を着ていた。そして長官の左ひざ数十㌢のところまで、にじり寄った形跡が認められた。」

「機体からちぎれ飛んだ長官の座席が、地上にまともに静止し、長官もまたこれを生ける者のごとく座しておられたことは、どうしても真実とは思えない不思議なことであった。少しも泥土に汚されていない純白の手袋、変わったところのない顔面、引き締まった口元。名将とうたわれた長官のりっぱな最期であった。(以下略)

 

 

作家・阿川弘之の「想像」

 作家の阿川弘之(あがわひろゆきは、山本五十六が遺体で見つかった時のようすについて、著書「山本五十六(下)」で次のように触れています。

 

 「1番機(長官機)遭難の現場をそのままの状況で目視した者は、10数人の陸軍将兵しかいない。歴史的証言者の記憶に細部に食い違いがあるのは残念だが、山本の死体に自決した様子は見当たらなかったといわれている。ただ、突入炎上したあと、1番機にもし生きていた者があったとすれば、それは艦隊軍医長の高田六郎少将である。発見された時、高田は山本のすぐかたわらに倒れていた。そして、高田の身体にはほとんど傷がなかった。軍医長という職業柄、彼が山本長官の遺骸を損なわずに残したいと思い、意識もうろうとしたまま適宜の処置を済ませてこと切れたのだとしたら、山本の死姿がきれいだったのはよく納得できるわけであるが、これはむろん、ひとつの想像にすぎない。

・・・・・・・・・・

(感想)

軍刀を握ったまま座っていた」というのでは、あまりに不自然。阿川弘之の『想像』はそんなに外れていないような気がしますね。

 

 

【参考資料】

●「山本五十六検死ノート」(蜷川親正著・光人社・昭和46年7月発行)

●「ラバウル空戦記」(第204海軍航空隊編・朝日ソノラマ・1997年12月発行)

●「戦史の証言者たち」(吉村昭・文春文庫・1995年8月発行)

●「山本五十六(下)」(阿川弘之著・新潮文庫・昭和48年2月発行)

 

 

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