北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスに登っていたころの記録、国内外の旅行、反戦平和への思いなどを備忘録として載せています。

軍国主義に抵抗した記者の鏡、桐生悠々~多磨霊園に眠る著名人⑥

 【蟋蟀(コオロギ)は鳴き続けたり嵐の夜 悠々】

 

 上の写真は、お墓の石碑に書かれている桐生悠々が書き残した名句です。

 

 桐生悠々。「きりゅうゆうゆう」と読みます。本名は桐生政次(まさじ)。

 明治6年(1873年)、金沢市生まれで、新聞記者をしていました。

 

 平凡な、いまそのへんに多数転がっている素直で礼儀正しい記者ではありません。

 満州事変(1931年)以降の軍国主義の流れの中で、ただ一人、軍部に屈することなく、信念を曲げることなく陸軍の行動を批判し続けた自由主義者です

 

もくじ

 

 

反骨の桐生悠々がやったことは?

 亡くなる1年ほど前の桐生悠々。(「桐生悠々 反軍論集」から引用)

 

 

 桐生悠々が新聞記者として本領を発揮したのは、長野県の信濃毎日新聞社に、2度目の「主筆」(=社説を書く責任者)として迎えられた昭和3年(1928年)以降でした。

 

 そのころ中国大陸では、日本が日露戦争でロシアから奪い取った満州」(=中国東北部のこと)にある「南満州鉄道」の安全を確保するという口実で、関東軍という陸軍の部隊が満州に派遣されていました。

 軍部が政治への口出しを強めて行った時期で、やがて『満州事変』(1931年)や『5.15事件』(1932年)が起きます。

 

 

 

 桐生悠々は軍部批判を新聞に書きました

 1933年8月11日付『信濃毎日新聞(=略して信毎)』朝刊2面の「評論」欄です。

 

 軍部が首都東京への空襲を想定して、戦争準備として関東地区で大規模な防空演習を8月9日から始めたことに対して、『関東防空大演習を嗤ふ(わらう)』と題した記事です。

 

 内容を要約しますと、「敵機を帝都(=東京)の空で迎え撃つということは、日本軍の敗北そのものだ。それ以前に日本軍機が敵機を迎え撃つか撃退しなければいけない。東京上空で敵機を迎え撃つという作戦計画は滑稽(こっけい)。」というものです。

 

 まったく、常識的な意見だと思いますが、「滑稽」と言われた軍部は猛反発したのです。

 時代背景も、いまのように憲法で「言論・出版その他一切の表現の自由」が保障されている時代ではありませんでした。

 

 この記事が出ると、長野県の在郷軍人有志による「信州郷軍同志会」は松本連隊区司令官の指揮の下で、『信毎』に謝罪文の掲載を要求するとともに、『信毎』の不買運動を展開しました。

 不買運動で経営陣はおびえてしまい、そんななかで桐生悠々は『信毎』を退社しました。

 信濃毎日新聞社は記者を守れなかったのですね。

 

 桐生悠々はその後、現在の名古屋市守山区に居を構え、1934年から個人雑誌「他山の石」を発行して、時事評論を掲載し続けました。

 

 

 

 

「言いたいこと」と「言わねばならないこと」を区別した桐生悠々

 35歳ごろの桐生悠々。(「桐生悠々自伝」から引用)

 

 

 悠々が放った言葉の中に、なるほどな~っと感じ入ったものがあります。

 

 『言いたいことと言わなければならないことと』というタイトルの記事です。

 『他山の石』に昭和11年(1936年)6月5日付で載りました。

 次のように書いています。

 

 「人、ややもすれば、私をもって、言いたいことを言うから、結局、幸福だとする。だが、私は、言いたいことと、言わねばならないこととを区別しなければならないと思う。

 「私は言いたいことを言っているのではない。言わねばならないことを、国民として、特に、この非常に際して、しかも国家の将来に対して、真正なる愛国者の一人として、同時に人類として言わねばならないことをいっているのだ。」

 「言わねばならないことを言うのは、愉快ではなく、苦痛である。なぜなら、言いたいことを言うのは、権利の行使であるに反して、言わねばならないことを言うのは義務の履行だからである。」

 「この義務の履行は多くの場合、犠牲を伴う。少なくとも損害を招く。現に私は防空演習について言わねばならないことを言って、軍部のために、わたしの生活権を奪われた。」

 「言いたいことと、言わねばならないこととは、厳に区別すべきである。」

 

 

 

「蟋蟀(コオロギ)は鳴き続けたり嵐の夜」

 
 石碑の句はインパクトがあります。

 多磨霊園にある桐生悠々のお墓で、この句碑を見た時、背筋がピンと伸びました。

 

 悠々が1935年、個人雑誌「他山の石」を名古屋で発行した時に、編集後記の末尾に書いた句です。

 

 嵐の前でみんなが声をひそめている時に、声を限りに泣き続けるコオロギに、おのれを擬せずにはいられなかったようです。

 

 しかし、当時は「新聞紙法」や「出版法」という言論を統制するための法規のために、自由のものを言うことができませんでした。

 悠々は「他山の石」を発行する前に、原稿のゲラ刷りを愛知県特高課の検閲係に持参して「検閲」を受け、「不穏だ」と指摘された部分は削除して発行しました。

 「他山の石」は20数回にわたって発行禁止か削除という処分を受けたそうです。

 

 

亡くなったのはいつ?

 桐生悠々は1941年9月10日、名古屋市咽頭がんのために亡くなりました。68歳でした。

 

 日本軍が真珠湾を奇襲攻撃して、米軍との太平洋戦争に突入する3ヵ月前でした。

 

 

 

半藤一利が抱く懸念

 半藤一利(はんどうかずとし)は、文藝春秋社の元専務で、昭和史研究の第一人者。昭和史から学ぶべき教訓として、「言論の自由・出版の自由が生命線だ」と言います。(敬称略)

 

 

 半藤は、自民党が2012年に発表した憲法改正草案の「憲法第21条の条文」に「がく然とした」と言います。

 

 今の憲法第21条は、第1項で「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」とあります。

 

 自民党の改正草案は、第1項の次に、もう1項、新設しているんです。それは「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。」という文言です。

 この規定を新設したことについて、自民党は「オウム真理教に対して破壊活動防止法が適用できなかったことの反省などを踏まえた」と解説しています。

 

 ところが半藤一利は次のように批判します。

 「【公益】【公の秩序】とは、いくらでも広げて解釈が可能である。要するに、【権力者の利益】と同義であり、それに反するものは認められない、すなわち罰せられる、弾圧されることになるのはもう明らか。このことは昭和史にある歴史的事実が証明している。

 

 正論だと思いますが・・・。

 

 

≪参考資料≫

●「桐生悠々 反軍論集」(桐生悠々著・太田雅夫編・新泉社・1980年8月新装発行)

●「桐生悠々自伝」(太田雅夫編・現代ジャーナリズム出版会・1973年7月発行)

●「そして、メディアは日本を戦争に導いた」(半藤一利保阪正康著、東洋経済新報社、2013年10月発行)

●「抵抗の新聞人 桐生悠々」(井出孫六著・岩波書店・2021年9月発行)

 

 

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