北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスに登っていたころの記録、国内外の旅行、反戦平和への思いなどを備忘録として載せています。

浅沼稲次郎(カメラがとらえた暗殺の瞬間)~多磨霊園に眠る著名人②

 街頭で吠(ほ)える浅沼稲次郎(追悼誌「驀進」から引用)

 

 

もくじ

 

 

 

 

公衆の面前で演説中に刺殺された

 

 「浅沼稲次郎(いねじろう)ってだれ?」と聞かれて、こたえられる人が少なくなりました。

 

 浅沼稲次郎は「日本社会党」という、かつて存在した政党の「委員長」だった人。「ヌマさん」の愛称で親しまれていました

 1960年の日米安全保障条約の改定阻止闘争、いわゆる「60年安保(あんぽ)」では、「新しい条約は『日米による共同防衛』を明文化しており、これでは日本はアメリカが起こす戦争に巻き込まれる」と問題視し、野党第一党の党首として反対運動の先頭に立ちました。

 結局、新しい条約は成立。岸信介内閣は混乱を収拾するために総辞職しました。

 

 しかし、すぐ後の1960年(昭和35年)10月12日浅沼稲次郎社会党委員長は東京都千代田区日比谷公会堂で、山口二矢(おとや)という17歳の右翼の少年に短刀で刺され、出血多量で間もなく死亡しました。61歳でした。

 衆議院議員の総選挙の直前に開かれた立会演説会でのことで、その一部始終はNHKラジオが生中継しており、NHKテレビも映像を録画していました。

 

 

 

東京新聞」カメラマンが伝える暗殺の瞬間

 写真は、「東京新聞」2023年10月14日付朝刊から引用

 

 浅沼稲次郎社会党委員長が刺殺された時の写真が、2023年10月14日付の「東京新聞」(中日新聞東京本社発行)に載りました。「1枚のものがたり」というタイトルの記事です。

 

 記事のもとになったのは、衝撃的な写真を撮った「東京新聞」カメラマンの吉武敬能氏が中日新聞社社友会五十年史』(2011年発行)に書いていた証言です。

 

 吉武氏は「暗殺の瞬間」を次のように証言しています。(長いですが、引用します)

 

 「1960年は日米安保条約の改定をめぐって日本中が大揺れに揺れた。7月、岸信介首相が『社会を混乱させた責任をとる』として退陣し、池田勇人氏に代わった。衆院解散・総選挙を前にした10月12日午後2時から、東京・日比谷公会堂で自民、社会、民社の3党首立会演説会が開かれた。」(中略)

 「私は演壇下、正面やや左寄りに立ち、35㍉カメラに105㍉の望遠レンズを付けて演説者のアップを狙った。通常の撮影に使うスピグラ(=スピードグラフィック)は、演壇までの距離5㍍にピントを合わせ、閃光電球をつけ、シャッターを押せばいつでも写せるようにして舞台上に置いた。

 民社党西尾末広氏に次いで社会党浅沼稲次郎氏が演壇に立つと、会場内のヤジが一段と激しくなり、演説の声が聞こえないようになった。二階席左手からビラがまかれた。演説は中断、主催者が静粛にするよう注意を促し、再び演説が始まった。

 午後3時ちょっと過ぎ、突然、舞台右手からバタバタと人が走るような音がした。何ごとかと、35㍉カメラを放してスピグラを構えた。何者かが棒のようなもので浅沼さんに殴りかかったように思えた。ファインダーの中に浅沼さんの姿が見えた。顔が向こう向きになっている。それがまるでスローモーション映画を見ているように、ゆっくりこちら向きになった。その瞬間、シャッターを押した。何が何だか分からない。」(中略)

 「『急げば夕刊に入る』。必死に走った。当時、東京新聞日比谷公会堂の筋向い。現在の日本プレスセンタービルの場所にあった。社に着くや、写真部長から『撮ったか、撮ったか」と怒鳴られた。悲しいかな、確かにシャッターを押したものの、私には確実に撮ったという自信がなかった。現像して驚いた。フィルムには恐ろしい光景が映し出されていた。胸を押さえてよろめく浅沼さんを、若い男が短刀を腰だめにして刺そうとしている。

 写真はただちに印刷に回された。通常、夕刊の締め切りは各社とも午後2時ごろだが、特版が起こされ、夕刊最終版の1面に大きく掲載された。

 当時、夕刊は宅配のほか、人通りの多い場所に出る立ち売りスタンドで売られていた。内幸町のNHK前(=現在の日比谷シティ)、田村町交差点、新橋駅周辺。どこのスタンドでも、1面に事件の写真が載っている東京新聞は飛ぶように売れた。他社の夕刊は『浅沼委員長刺さる』の大見出しだけで、写真はなかった。完全な特ダネだった。」

 「翌13日付の毎日新聞朝刊1面には、私の撮ったものとほとんど同じ構図の写真が掲載された。ところが、この写真は非常に鮮明で、シャープな画像だった。これは使用されたカメラのフラッシュの違いであった。毎日のは、最新式のハイランドストロボを装備したスピグラによって撮影された。ストロボの発光速度は1000分の1秒であり、対象物の動きがピタリと静止している。それに対して閃光電球を使用した旧式の私のスピグラは、発光速度は100分の1秒なので、画像がわずかにぶれていた。

 「私はこの写真を『タナボタ特ダネ』だと思っている。一方、重苦しい特ダネでもあった。浅沼さんという人の死によって得られた特ダネだからだ。浅沼さんには申し訳ないという思いは、50年後の今も変わらない。

 

(注)この当時、「東京新聞」は「東京新聞社」が発行。その後、「東京新聞社」は経営が悪化し、1967年からは「中日新聞社」の東京本社が発行を続けている。

 

 

 

毎日新聞」のコメント

 演説草稿。ヌマさんはここまで読んで凶刃に倒れました。その瞬間、草稿の紙は眼鏡とともに壇上に飛び散りました。(上の写真は「驀進」から引用)

 

 

 「東京新聞」の吉武カメラマンのほかに、、もう1人、ほぼ同じ角度から撮影したカメラマンがいました。

 毎日新聞」の長尾靖カメラマン(2009年に78歳で死去)です。

 

 毎日新聞社OBがインターネットの「東京毎友会 毎日新聞OB交流サイト」で、東京新聞の記事(2023年10月14日付)に対して、以下のように苦言を呈しています。

 

 「(東京新聞の)記事では『輪転機を止めて夕刊に写真と記事を突っ込み、東京新聞のスクープとなった』とあるが、毎日新聞も当然のことながら最終版の追いかけをとって1面トップで写真を入れた。『東京新聞のスクープは言い過ぎである。

 

 なかなか、自己主張が強い業界です。

 

 

 

毎日新聞」に載った写真がピュリツァー賞

 写真は、毎日の長尾カメラマン撮影。

 

 毎日新聞の長尾靖カメラマンの撮った写真は、犯人の山口が浅沼委員長の左わき腹と左胸を刺したあと、もう一突きしようと身構え、後ろから羽交い絞めされる瞬間をとらえた1枚でした。

 写真は毎日新聞社のビル内に東京支局があったUPI通信が全世界に配信し、その写真が米国のピュリツァー賞に輝きました。日本人初の受賞でした。

 

 ※ピュリツァー賞は、前の年に米国内での報道、文学、音楽の各分野で、優れた業績を上げた人に贈られる賞。

 

 

 

人間「ヌマさん」について

(この項の写真はすべて「驀進」から引用)

 

 東京都江東区白河町にあったこのアパートの1階の部屋が、ヌマさんの住まい。1928年(昭和3年)の結婚以来32年間、暮らしていました。

 

 ヌマさんの部屋の外では、紙芝居。

 

 ヌマさんこと浅沼稲次郎は三宅島出身。大柄で大きな声で精力的に遊説する姿から、「人間機関車」とも言われました。

 

 気さくな性格で新聞記者からも好かれ、委員長就任前の書記長のころから記者たちが夜、江東区白河町のアパートに押しかけ、議論していたようです。

 

 

 追悼誌「驀進(ばくしん)―人間機関車ヌマさんの記録―」から社会党担当記者2人の追悼文を引用します。

 

読売新聞・酒井幸雄

 「浅沼委員長が右翼少年の凶刃に倒れた――というニュースが院内(=国会内)の社会党記者クラブに伝わったのは、事件が発生してから1分間ぐらい後であった。日比谷公会堂の3党首演説会は❝たいしたこともあるまい❞ということで、各社からだいたい1人ぐらいの担当記者しか取材に派遣されていなかった。ほとんどの記者クラブ員はその時、(テレビで)大洋VS大毎の日本シリーズ(の生中継)にうつつを抜かしていた。だが、この凶報がひとたび入るや、フルスピードで日比谷にかけつける車の中で、ほとんどの仲間が『たいしたことはないように』と祈ったようだ。」

 「ヌマさんが60歳の還暦を迎えた(党書記長の)時、(東京・小石川の椿山荘で)在京記者やカメラマン(200人余り)が還暦祝賀会を催した。これは日本の新聞界始まって以来のことであった。」
 「この人は、ウソをつけなかった。大衆をだますな、というのはこの人の信念だったようだ。だが、意地の悪い新聞記者の質問には、ウソの言えない人だけに、ほとほと困り抜いていたようだった。困り出すと必ず、わきに置いてある書類箱を大きな図体を無理に縮めてソワソワしながら整理しだすクセがあった。われわれは質問をぶつけて❝その反応❞があれば記事にしても間違いはなかった。。」

 「ヌマさんは愛妻家であったばかりでなく、女性を尊重するフェミニストであった。奥さんが突然の外出で、(ヌマさんが帰宅した時に)留守でもしていようものなら、『カアちゃんはどうした・・・』と押入の戸までも開けかねない姿であった。夜遅く、(ヌマさん宅から記者が)帰る時など、故郷の三宅島から送られてきた干物や、地方のファンからのくだものなどがあれば必ず、3個か4個、あり合わせの新聞紙にガシャガシャと包んで、「カアちゃんに・・・」と無理に押し付けた。このヌマさんからの贈り物は、記者のカアちゃん連を感激させていたことは確かだ。」

産経新聞・吉村克己

 「私たち(社会党担当記者)はヌマさんに議論を吹っ掛け、追いかけ回した。朽ちかけた同潤会アパートの小さな部屋に座っているヌマさんの大きな姿は、まるで小人の家に闖入(ちんにゅう)した巨人のようにユーモラスな感じだった。ハチ切れんばかりに書類の入ったハゲちょろけた大きい茶色の鞄が、その横にあった。「どうも筋が通っていない、今度のヌマさんの行動は・・・」などと水を向けると、ヌマさんは「君たちはそういうけんども、そうでネエデヤ、そうでネエデヤ」と、ムキになって頑張っていたのがなつかしい。」

 

 

 

日本社会党」のその後

 写真右端は、村山富市首相(=日本社会党委員長(1994年11月、インドネシアに向かう機中で首相官邸写真室が撮影)

 

 

 ヌマさんのいた「日本社会党」は戦後間もない1945年11月、共産党を除く戦前の無産政党関係者が結成した社会民主主義を目指す政党です。

 

 ヌマさん死後の日本社会党1964年、永田町の国有地を借りて地上7階・地下1階のビルを建設して「党本部」としました。ヌマさんの胸像も設置されました。

 

 1989年参院選では、土井たか子委員長のもとで「マドンナ旋風」と呼ばれたブームが起こり、党所属国会議員が衆参合わせて約200人になりました。

 

 ところが、1994年社会党自民党新党さきがけによる「自社さ連立政権」ができ、日本社会党村山富市委員長が首相になった時、激震が起きました。

 村山首相は、社会党がそれまで「憲法違反」としてきた自衛隊を「合憲」といい、日米安保条約を「堅持する」と言い切るなど、党の基本政策を180度転換させました。

 

 「護憲の党」のイメージが吹っ飛んでしまったこともあって、カムフラージュのために1996年に党名を「社会民主党」(略称:社民党)に改称しました。
 しかし、所属議員の多数が次の国政選挙での落選を恐れて党を離脱して新党に移籍。その後も党が分裂し、離党者が相次ぎました。

 

 2013年には党本部の建物の老朽化が進んでいるため民間ビルに移転。

 2017年には党本部を永田町から中央区隅田川沿いの民間ビルに「再移転」しました。

 所属議員の相次ぐ落選で、経費削減を迫られたためです。

 

 いま、社民党所属国会議員は、3人になりました。

 

 

【参考】

●「テロルの決算」(沢木耕太郎著、文春文庫、2008年新装版)

浅沼稲次郎追悼誌「驀進―人間機関車ヌマさんの記録―」(日本社会党発行・1962年)