北穂高岳で味わう至福のひと時

北アルプスの登山、散歩、旅行、反戦・平和への思いなどをデジカメでパシャッと撮った写真中心に記録しています。

空襲の弾痕とどめる日立航空機㈱変電所

 壁に、おびただしい数の穴が開いています。痛々しい姿の鉄筋コンクリート造り2階建ての建物。壁も一部、はがれ落ちています。

 

 これはアジア太平洋戦争の時に、米軍機による機銃掃射や、投下された爆弾がさく裂した時にできた「戦争の傷跡」。いまも建物は残っているんです

 

 毎週日曜日と水曜日に無料で一般公開しているというんで、見てきました。

 

 

目次

 

 

 

 

 

モノ言わぬ歴史の語り部

 旧日立航空機㈱変電所(2022年9月4日撮影)

 

 

 壁が穴ぼこの建物は、旧日立航空機㈱の変電所です。東京都東大和市にある都立東大和南公園の一角に残っています。

 

 「公園案内図」です。

 図の中央、やや左の【文化財(史跡)】電所の位置です。「運動広場」「野球場」の位置には、戦時中は工場の建物がありました。

 

 

 これは終戦直後に米軍が撮った写真。のところが変電所です。

 

 

 

 都立東大和南公園一帯は、むかしは日立航空機㈱立川工場の敷地でした。この会社は東京瓦斯(ガス)電気工業㈱という会社の航空機部門が1939年に分社独立した会社です。

 

 赤トンボと呼ばれていた陸軍の95式練習機のエンジンを主に製造する軍需工場で、ピーク時には従業員が1万4000人いたようです。

 

 上の写真は、広い敷地の北西部に建てられた変電所の建物と、その北隣の「受電設備」です。

 この受電設備で受けた6万6000ボルトという高圧の電気を3300ボルトに変電して、各工場に送るための施設でした。

 

 

 

 

勤労動員学徒15人を含む死者111人

 日立航空機㈱立川工場には、戦争当時、いまの高校生の年齢に当たる旧制中学や高等女学校の生徒が学徒勤労動員で大勢、働いていました。学校の授業はありませんでした。

 

 

 

 展示されていた「立川工場へ動員された学校」一覧

 

 

 その立川工場に、米軍機による空襲がありました。勤労動員されていた高等女学校の生徒ら学徒15人を含む111人が殺されました。けがをした人の数は不明ですが多かったと思います。

 

 空襲で死亡した人の名前

 

 

 

 

 

空襲は3回あった

 空襲は終戦の年に3回ありました。

 

 

 1回目の空襲は、1945年2月17日の午前10時35分から7分間。米海軍艦上戦闘機グラマンF6F「ヘルキャット50機で編隊を組んで飛来しました。

 「グラマン」は工場に爆弾を落とすとともに機関銃を発射して、78人の命を奪いました。

 

 

 

 2回目の空襲は、4月19日の午前10時02分から午前11時16分まで空襲警戒警報が続き、米陸軍戦闘機P51「ムスタング数機、飛来。

 「P51」の機銃掃射で5人が亡くなりました。これは近くの「立川飛行機㈱立川工場」を空襲したP51「ムスタング」30機の一部が来襲したとみられています。

 

 

 

 3回目の空襲は、4月24日の午前8時47分から27分間の空襲で、戦略爆撃機「Bー29」101機で来襲。

 「Bー29」の大軍は南西から北東方向に飛行しながら、1800発もの爆弾を工場一帯に投下し、工場の8割が破壊されました。隣接する社宅も爆撃され、空襲で28人が死亡しました。

 

 しかし、鉄筋コンクリート造りの変電所の建物本体は、奇跡的に生き残りました。

  (『東大和・戦災変電所を保存する会』の資料から一部引用)

 

 

 

 

 

壁一面に生々しく残る弾痕

 頑丈にできていたため破壊を免れた変電所ですが、南側の外壁に、穴がいっぱい開いています。

 戦闘機の機銃掃射による弾痕です。

 コンクリートの厚い壁を貫いた跡もあって、機銃掃射が低い高度で至近距離から行われたことを想像させます。

 

 

 

 上の図は、立川工場の建物の配置図です。上が北。変電所は左上。変電所の壁の南面に弾痕が多くみられるのは、米軍の狙いが変電所南側の「第一工場」など工場群の破壊であり、米軍機が南から来襲したためと思われます。

 

 

 「65」という数字が、この南側の壁と東側の壁に残されていますが、数字の意味するところは不明。ただ、終戦直後の9月初めに米軍が当地に駐留して工場内の機械を調査した形跡があることから、その際のものと推測できます。

 

 

 

 外階段です。この変電所の建物は1階が「倉庫」、2階が「事務室」として使われており、 事務室への出入りはふだん、この階段が使われていました。壁には弾痕がビッシリです。

 

 

 

 

 変電所の現在の「北面」です。数ヵ所に弾痕があります。

 

 

 「北面」には戦後も「受電」設備と「防護壁」(図の右下部分)がこんなふうに残されていました。

 

 

 

 「防護壁」

 

 「受電設備」の防護壁は、西側(上の図の下側)と東側(上側)に設けられていました。

 

 

 

 

 

 変電所の中にある階段手すりに残る2つの傷のうち、下の方の傷。ただ、これが銃弾の跡かどうかは、入射角度からして「?」。

 

 

 変電所の中階段の手すりの、上の方にある傷。こちらは横のコンクリートをはがして鉄骨があらわに窓から飛び込んできた弾丸の跡であることが分かります。

 

 

 

 変電所の中の階段の「腹」です。この丸い傷は、窓から飛び込んできた銃弾が床で跳ね返ってできたのではないか、という見方がありますが、分かりません。

 

 

 1階の部屋の内側の「壁」です。銃弾がコンクリートの壁を破って内側に入ってきた痕跡です。穴から青空が見えます。

 

 

 

 

 変電所の「2階」です。戦前・戦中から使っていた配電盤の1つ。

 

 

 銃弾が開いた配電盤

 

 

 配電盤のプレート。「1939年」に設置されたことが分かります。

 

 

 配電盤のうち左端のものだけが変電所建設当時の物

 

 

 「2階」です

 

 

 給水塔は、工場に必要な水を地下からくみ上げる施設で、変電所の西にありました。2001年に解体され、その一部が変電所の前に移設され、保存されています。

 

 

 

 

東大和市が「史跡」に指定

  戦後の1992年、旧日立航空機㈱の敷地で営業していた会社が移転することになったため、東京都は跡地を買収して都立公園にすることにしました。

 

 その際、東大和市市民グループが「変電所」を戦争遺跡として保存するよう都議会に行った請願が採択され、都立公園の中で保存することが決まりました。

 

 東大和市はこれを受けて、「変電所」の建物を所有していた会社から無償で譲り受け、1995年10月に変電所を「史跡」に指定しました。

 子どもたちに「戦争というものは、いったん始めちゃうと、自分が勝つために、相手をこんなふうにして何の罪のない人まで殺すようになっちゃうんだよ。やってはいけないんだよ」と伝えていくための、「負の遺産」として「変電所」を保存しています。思想・心情を超えて、いいことだと思いますよ。

 

 

 

 

ふるさと納税の寄付金も「修理」に活用

 東大和市は、2016年から「ふるさと納税」で、変電所保存のための寄付を募り始めました。返礼品はありません。

 2020、2021両年度に市は変電所の耐震補強や劣化防止などのための工事をしましたが、費用約1億2500万円の一部に、ふるさと納税による寄付金約1400万円を活用したそうです。

 

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